レビ記の記載によれば、神の意図は、彼の贖われた民が、幕屋にて、供え物を用い、また祭司が神と接触し、キリストと神の交わりを享受し、神に仕えることです。第一章から第七章の各種のささげ物の規定は神のエコノミーの全体的な絵を示します。それは、わたしたちが多くの面でキリストを経験し、また経験したキリストをささげ物としてささげ、神に享受していただくというものです。
五種類のささげ物は
人の五種類の光景を言っている
レビ記によれば、五種類の主要なささげ物とは、全焼のささげ物、穀物のささげ物、平安のささげ物、罪のためのささげ物と違犯のためのささげ物です。五種類のささげ物は人の五種類の状況を言っています。第一には、わたしたちは神のためではないこと、この世でだれも神のために生きていません。第二に、わたしたちの生活はあまり正しくなく神に喜ばれません。第三に、わたしたちと神の間には問題があり、神と平和を持てず、交わりができず、神と共に喜び、享受することができません。第四に、わたしたちの本質に罪があります。第五に、わたしたちには邪悪な罪を犯す行為があります。
主イエスは、ささげ物となり
五種類の問題を解決し、
五種類の必要に応じる
主イエスが人の間に来られたのは、人を神へともたらし、人のためにこの五種類の問題を解決するためです。ですから、ささげ物としての主に関して、五つの面で述べられています。
第一に、全焼のささげ物はキリストがこの世で人として、絶対的に神のために生き、神のために死なれたことです。彼は傷がないご自身を神にささげ(ヘブル九・十四)、神のみこころを成就するために、願って死に渡されました。このように彼は神の御前で香ばしいかおりとして、神のみこころを満足させられました。わたしたちは彼の上に手を置くことで、彼と結合され一となり、神に受け入れられます。
第二に、穀物のささげ物は、キリストの人としての生活が正しく適度であり、きめ細やかで均衡がとれていて、清く罪がないことを予表しています。穀物のささげ物はきめの細かい小麦粉で作られました。それはキリストが過度でもなく、また欠ける所もないことを予表しています。彼はそのようにきめ細やかで、均衡がとれていて、清く、罪が無く、霊的で、香りがあり、神の享受として神にささげられます。彼は香のかおりのようであり、神の心を満足させると同時に、彼もまたわたしたちが享受できる食物となられます。穀物のささげ物としてのキリストは神を満足させるだけでなく、わたしたちの食物ともなられ、わたしたちを食べ飽きさせます。
第三に、平安のささげ物は、わたしたちのために死に血を流されたキリストがわたしたちと神との間の平和と交わりとなられたこと、またわたしたちと神との相互間の平和と交わりとなられることを予表します。彼は一面において、神への香ばしい食物となり、また別の面でわたしたちの供給ともなられます。そしてわたしたちが神と共にキリストを享受できるようにします。神の中で神と共に安息し、互いに交わり、神と人が共に満足します。
第四に、罪のためのささげ物は、キリストがわたしたちのために罪となられたことを予表します。なぜなら、わたしたちの本質が罪であり、わたしたちという人の根本が罪だからです。ですから主イエスが人となられた時、わたしたちに代わって罪となられました。彼はわたしたちに代わって罪となられただけでなく、彼が十字架につけられ死なれた時、神は罪を罪定めされ、罪を裁かれました。これはわたしたちの性質上の罪を対処されたということです。そしてわたしたちという人の本質上の罪という問題を解決されました。
第五に、違犯のためのささげ物は、キリストがわたしたちの罪の行ないのために、十字架につけられ、神の裁きを受け、わたしたちの行ないにおける罪を担われ、わたしたちの罪の行ないが神に許されるようにしました。
ささげ物の規定は
祭司の享受に重点がある
それぞれのささげ物の多くのものは、神に享受させるためのものです。しかし、また多くのものが、祭司が享受するためにささげられたものです。ですから原則において、祭司は神と共にささげ物を享受します。これは、神に仕えることが神と共にキリストを享受することであることを予表します。
全焼のささげ物――全焼のささげ物は神の満足のためのキリストです(レビ一・一―十七、六・八―十三)。このささげ物は日ごとに、朝と夕にささげられなければなりませんでした。全焼のささげ物のすべては祭壇で焼かれなければなりませんでしたが、あるときは、祭司は全焼のささげ物の皮を自分のために得ることができました(七・八)。しかし、祭司のためにささげられた全焼のささげ物は、皮もまた祭壇の上で焼かれました(八・二一)。この意味は、全焼のささげ物の百パーセントが神に享受していただくためのものであるということです。ですから全焼のささげ物は、神の御子がどのようにしてご自身を完全に神にささげられるかを予表しています。またわたしたち、神の御子と結合された者が、神の御子の中で、完全に、何も残すところなく、神へとささげられることを示しています。ですから全焼のささげ物の中においては、神が享受するものが最も多いのです。
穀物のささげ物――穀物のささげ物は、神と共に享受される神の民の満足としてのキリストです(二・一―十六、六・十四―二三)。全焼のささげ物は神が食べるためであり、穀物のささげ物はわたしたちが食べるためです。このことは、キリストがまず完全に神に享受され、それからわたしたちに享受されて、わたしたちが神と共に彼を享受するということを言っています。通常、人がささげた穀物のささげ物の一部分のきめ細かい小麦粉と油、それとすべての乳香を神の享受のために焼きます。そして残ったものを祭司が享受します。しかし祭司がささげた穀物のささげ物は、完全に神へと焼かれます。
平安のささげ物――平安のささげ物は、神と神の民の平安としてのキリストであり、交わりの中で共に享受するためです(三・一―十七、七・十一―三八)。「祭司はそれらを祭壇の上で焼いて……それは満足させるかおりのための、火によるささげ物の食物である」(三・十六)。これは平安のささげ物が全焼のささげ物の一種であり(一・九、十三、十七)、神の食物であり、彼に享受され、満足させるものであることを表徴しています。平安のささげ物の中には揺り動かすささげ物、挙げるささげ物があります。揺り動かすささげ物には羊の胸が用いられ、挙げるささげ物には羊の右のももが用いられました。胸は主の愛を表徴し、ももは、主の力を表徴します。これらは、享受のために祭司のものとなる部分です。
「あなたがたがどんな所に住んでも、どんな脂肪もどんな血も食べてはならない.これは代々にわたる永遠のおきてである」(三・十七)。脂肪は食べることができません。それはキリストの最も良い部分は、神の満足のためであることを表徴します。血は食べてはいけません。それはキリストがわたしたちの贖いのために流された血を表徴し、神の要求を満足させるためのものです。このように宇宙の中で、イエスの血だけが信者が飲むことができるものです。
罪のためのささげ物――罪のためのささげ物は、神の民の罪(単数)のためのキリストです(四・一―三五、六・二四―三〇)。神の意図は、わたしたちが神に対して平安を持ち、交わりの中で神と共にキリストを享受することです。しかしながら、わたしたちはまだわたしたちの性質に罪があり、わたしたちは罪のためのささげ物を必要とします。罪のためのささげ物は、全焼のささげ物がほふられる場所で、ほふられなければなりませんでした(二五節)。これは罪のためのささげ物が、全焼のささげ物に基づいていることを示しています。すべての内臓を覆っている脂肪と内臓の脂肪、二つの腰のあたりにある脂肪と、肝臓の上の尾状突起、それらを、全焼のささげ物の祭壇の上で焼かなければなりません(四・八―十)。これはキリストの中の柔らかく細やかで、甘い部分は神にささげられ、神の満足となり、彼がわたしたちを快く赦してくださることを表徴しています。その他の部分は祭司が享受するために与えられました。
違犯のためのささげ物――違犯のためのささげ物は、神の民の罪(複数)のためのキリストです(五・一――六・七、七・一―十)。キリストはわたしたちの罪(単数)のためと同時に、わたしたちの罪(複数)、違犯のためになだめをされました。原則において、違犯のためのささげ物と罪のためのささげ物とは同じです。脂肪はすべて神の享受のためであり、その他のところは祭司の享受のためでした。
各種のささげ物の順序と相互の関係
レビ記第一章一節から第六章七節で言われている五種類のささげ物のその順序は、わたしたちの実際の経験に基づいており、またヨハネの第一の手紙が言っていることと符合しています。全焼のささげ物、穀物のささげ物、また平安のささげ物は、わたしたちを神との交わりへともらします(五節)。わたしたちは、わたしたち自身に罪があること、わたしたちの内側に罪があること(八節)、また外側にも罪(複数)があることを見ます。ですからわたしたちは、キリストをわたしたちの罪のためのささげ物とし、また違犯のためのささげ物として取る必要があります。
レビ記第六章八節から第七章三八節で五種類のささげ物の規定に関して言うとき、平安のささげ物を最後に置いています。この順序は神のエコノミーの総合的な絵にしたがっています。神は神の心と願いの中で、キリストをわたしたちにとって四種類のささげ物とされました。すなわち、全焼のささげ物、穀物のささげ物、罪のためのささげ物、違犯のためのささげ物です。わたしたちは各方面でキリストを、わたしたちと神の間の平安として享受する必要があります。この四種類のささげ物としてのキリストは結果として、神と彼の民との間の平安となります。この平安はキリストご自身です(エペソ四・十二)。キリストを各種のささげ物として享受した結果が、平安のささげ物をもたらし、そしてこれは新エルサレムにおいて究極的に完成し、最終の平安のささげ物となります(エルサレムの意味は平安の土台)。その中でわたしたちは三一の神を平安として、永遠に至るまで享受します(ピリピ四・七、九)。
全焼のささげ物は罪のためのささげ物に対する必要条件である――全焼のささげ物として、キリストは神に対して絶対的です。もしキリストが神に対して絶対的でなかったなら、資格づけられてわたしたちの罪のためのささげ物となることはなかったでしょう。アダムが堕落したのは、神に対して絶対的でなかったからです。もし彼が神に対して絶対的であったなら、欺かれなかったでしょう。アダムが欺かれたのは、神に対して絶対的でなかったからです。最終的にキリストが来られました。彼は神に対して絶対的であり、決して欺かれませんでした。この絶対的な方は完全であり、資格づけられてわたしたちの罪のためのささげ物となって、わたしたちの性質における罪を対処しました。神に対してキリストが絶対的であることは、彼を資格づけて罪のためのささげ物とならせました。
穀物のささげ物は違犯のためのささげ物に対する必要条件である――もしキリストが彼の人性において完全でなく、多くの欠陥、欠点、悪い行ないがあったなら、彼ご自身が違犯のためのささげ物を必要とし、こうして資格づけられてわたしたちの違犯のためのささげ物となることはなかったでしょう。しかしながら、キリストは彼の人性において完全で、細やかで、均衡がとれていました。彼には欠陥、失敗、欠点、悪い行ないが全くありませんでした。彼の完全さが彼を資格づけて、わたしたちの違犯のためのささげ物とならせたのです。
平安のささげ物は神の全焼のささげ物に対する満足に基づいている――神とわたしたちの享受した平安のささげ物は、全焼のささげ物としてのキリストに基づいています。これはレビ記第三章五節での平安のささげ物に関しての語りかけが示しています、「アロンの子たちはそれを祭壇の上で、火の上の薪の上にある全焼のささげ物に加え、焼いて煙を立ち上らせなければならない.それは火によるささげ物、エホバを満足させるかおりである」。わたしたちはここで、全焼のささげ物が、神が平安のささげ物を受け入れられる根拠となっていることを見ることができます。全焼のささげ物が焼かれたことが根拠となり、神は平安のささげ物を受け入れられます。
平安のささげ物は、神と人の穀物のささげ物に対する享受の結果である――第一章から第六章での各種のささげ物の順序によれば、平安のささげ物もまた神と人が穀物のささげ物に対する享受の結果です。
平安のささげ物は他の四つのささげ物すべての結果である――全焼のささげ物は罪のためのささげ物のためであり、穀物のささげ物は違犯のためのささげ物のためであり、また全焼のささげ物と穀物のささげ物の享受の結果は平安のささげ物です。このように、平安のささげ物は、その他の四種類のささげ物の結果となります(六・八―七・三八)。これは、平安のささげ物が他の四つのささげ物の総合計であることを意味します。キリストがこの四つのささげ物であることは、神と神の民との間の平安ということで完成し、この平安はまさにキリストご自身です。平安のささげ物として、キリストはわたしたちが神と共に享受する食物であり、神がわたしたちと共に享受される食物です。わたしたちの平安のささげ物としてのキリストにあって、わたしたちは交わりの中で共同の享受を持ちます。
新エルサレム――永遠の平安のささげ物
レビ記の供え物に関する言葉は、エホバが小さな幕屋――天幕――の中で語られたものです。荒野の中で、忙しくしている多くの人の群れから外れて、その宇宙を創造された神が、一つの小さな幕屋の中へと入って来られました。そこで、この三一の神が語られたことはすべて、永遠のためのものでした。神のこの不思議ですばらしい語りかけを通して、その小さな幕屋は徐々に新エルサレムへと完成されていきます。
キリストは肉体となることによって幕屋と成られました。言、すなわち神は、肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られました(ヨハネ一・十四)。それは幕屋であるキリスト、また神の小羊です、「見よ、世の人の罪を取り除く神の小羊!」(二九節)。キリストは神の小羊であり、すべてのささげ物の総合計、集大成です。幕屋と供え物はどちらもキリストの予表です。レビ記の中で、キリスト、またわたしたちと神がキリストを享受する規定に関して言及されていることはどの面も、新エルサレムにおいて成就されます。キリストはわたしたちの全焼のささげ物、穀物のささげ物、平安のささげ物、罪のためのささげ物、違犯のためのささげ物、揺り動かすささげ物、そして挙げるささげ物です。これらのすべての供え物の結果、終極は新エルサレムです。
「エルサレム」という称号は二つのヘブル語から成っています。「エル」は土台を意味し、「サレム」は平安を意味します。パウロはヘブル人への手紙第七章で、サレムの王は平安の王であると告げます(二節)。サレムは平安であり、エルは土台を据えられたもの、建造されたもの、土台として据えられたものです。ですから、「エルサレム」は「平安の土台」を意味します。エルサレムは平安の中で土台づけられ、基礎づけられ、保護されるものです。聖書は、平安は神ご自身であることを示します。新約には、二つの称号があり、それは「平和(平安)の神」(ピリピ四・九、Ⅰテサロニケ五・二三)と「神の平安」(ピリピ四・七)です。これらの称号はいずれも、神ご自身がわたしたちの平安であり、平安は神であることを示しています。わたしたちはその方の中へと土台づけられ、わたしたちはその中に保護されます。永遠において、わたしたちは平安を永遠に享受します。新エルサレムは、わたしたちの平安となり、わたしたちの安全となる三一の神です。新エルサレム全体は平安の実体となります。わたしたちは新エルサレムにおいて究極的に完成されるとき、平安の中に、すなわち三一の神の中にいます。
啓示録第二〇章から第二二章において、神の究極的な幕屋が人の間にあります。これはすべてのささげ物が共に合わされて、その結果として究極の平安のささげ物となることです。新天新地の全体が、新エルサレムも伴い、究極的で宇宙的な平安のささげ物を享受し、宇宙全体が平安のささげ物の宴席にあずかります。新エルサレムは平安と安全としての三一の神の中に堅固に土台づけられ保護され、わたしたちは永遠に平安としての三一の神を享受します。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第2期第4巻より引用