罪の赦しと罪の洗い

真理

「見よ、世の人の罪を取り除く神の小羊!」(ヨハネ一・二九)。
キリストは違犯のためのささげ物の実際として、十字架上で死なれました。神はわたしたちのすべての罪をこの神の小羊の上に置かれました。キリストが十字架上で尊い血を流されたので、神はわたしたちの罪を赦し、わたしたちの罪を洗い清めました。

罪の赦しの意味

神の義の刑罰から免れさせる
罪が赦される意味は、第一に人の神の前での罪の案件が消し去られ、人を神の義の刑罰から免れさせることです(ヨハネ三・十八五・二四)。人は神の御前ですでに罪の案件を持ち、すでに罪定めされていますから、当然、神の義なる刑罰を受けなければなりません。神が人を赦されるとは、人を彼の義の刑罰から免れさせ、もはや罪定めしないことです。これは主イエスが、十字架上で神の義にしたがって死なれ、血を流し、人に代わって神の義の刑罰を受けられ、神の義の要求を満たされたからです。ですから神は彼の義にしたがって、赦すことができ、またキリストを信じる人の罪を赦し、彼らの罪の案件を消し去り、彼らの刑罰から逃れさせなければなりません。

赦された者から罪を去らせる
新約聖書での、罪の赦しの原文は、「去らせる」また「送る」を意味します。神が人の罪を赦されることは、神の御前での彼らの罪の案件を消し去り、神の義の刑罰から免れさせるだけでなく、また彼らが犯してきた罪を彼らから去らせるのです。なぜなら、神は主イエスを十字架上で違犯のためのささげ物とされた時、人のすべての罪を彼の上に置かれ、主イエスは人に代わってそれらを担われたからです(ヨハネ一・二九、イザヤ五三・六、Ⅰペテロ二・二四)。なおまた神は、主イエスに十字架上で人の罪を担わせ、人に代わって、神の裁きと刑罰を受けさせた後、人の罪をサタンに返還し、サタンに永遠に負わせました。

罪は元々サタンから来ました。人はサタンによって欺かれて、罪を自分の上に臨ませ、神の御前で罪の案件を持つようになりました。今、神は人の上の罪を主イエスの上に置かれました。彼が人に代わって神の刑罰を受け、神の御前での人の罪の案件を消し去りました。そして神は人の罪をすべてサタンに返還し、サタン自身に担わせました。このように、神は赦された者の罪を赦すことができ、彼らの罪を彼らから去らせることができます(参考、詩篇一〇三・十二)。こういうわけで、神は赦された者たちの罪を赦されます。それは一面で主の血によって、神の御前での彼らの罪の案件を消し去ります。もう一面で、主の贖いを通して、赦された者の上で、罪を永遠に彼らから離れさせます。

赦された者の罪は忘れられる
神が罪を赦されるとは、赦された者の罪を忘れることでもあります。ヘブル人への手紙第八章十二節は言います、「なぜなら、わたしは彼らの不義に対してなだめとなり、もはや彼らの罪を決して思い出さないからである」。いったん神が人を赦されると、彼は人の罪を彼の記憶からぬぐい去り、もはやそれを覚えておられません。

罪を赦すための根拠
神の赦しは、血を流すことに根拠があります。ヘブル人への手紙第九章二二節は言います、「こうして、ほとんどすべての物は、律法にしたがって血できよめられます.血を流すことがなければ、赦しはありません」。神は義ですから、何の理由もなく人の罪を赦すことはできません。神の義は、すべて罪を犯すものは死ななければならないことを定められました(エゼキエル十八・四)。神の義の要求が満たされるのでなければ、神の義は神自身に、罪人たちの罪を赦すことを許しません。主イエスが十字架上で、神の義にしたがって、人に代わって死なれ、血を流し、神の義の要求を満たされたからには、神は彼の義によって合法的に人々の罪を赦すことができるのです(マタイ二六・二八)。

主イエスの血とは、神の義にしたがって主イエスが人に代わって死なれることにより、流されたものです。それは神の義の要求を満たす代価として流されました。ですから主イエスの血は彼を信じる人の罪が、赦されるための根拠となりました。彼の血以外に、どんなものも、人の善い行ない、美徳、人の熱心も愛もすべて、人の罪が赦されるための根拠になり得ません。なぜなら宇宙において、ただ主イエスの血だけが、罪人たちに対する神の義のすべての要求を満たすことができるからです。

罪の赦しの範囲
マタイによる福音書第十二章三一節は言います、「人のあらゆる罪……は赦されるであろう」。ですから人の罪の範囲がどれほど広大で、多大であろうとも、神の赦しの範囲も広大で、多大です。神の赦しは十分です。人のすべての罪に対して十分であり、人の罪のすべての問題を解決するのに十分です。十字架上で主イエスによって贖われなかった罪は一つもありません。ですから、主の贖いに基づき、神に赦されない罪は一つもありません。

神と彼のあらゆることは完全です。神の赦しも完全です。神は不完全なことを行ないません。彼は人に不完全な赦し、部分的な赦しを与えることはあり得ません。神は人の罪の一部を赦し、一部の罪は赦さないということはあり得ません。いったん彼が赦すと、人のすべての罪、すべての違犯を赦します。

赦しの後、さらに罪の清めの必要
人の罪は、人を神の御前で罪人とし、罪の案件を持たせるだけでなく、その人自身も汚され、汚れを持つようにします。罪の赦しは罪の刑罰を免れることであり、清めは罪の痕跡を消し去ることです。神がわたしたちを赦すことは、わたしたちを罪に対するいっさいの責任から免れさせてくださることです。神がわたしたちを清めることは、わたしたちがあたかも罪を犯したことがないかのようにします。ですから人は赦しが必要であるだけでなく、罪の清めも必要です。

地位上の清め
血の清め――宇宙の人類の汚れはすべて罪から来ているので、必ず贖いの血をもって清められます(へブル九・二二)。また血を流して罪をことごとく贖い、この血をもって罪の汚れを清めることができます。主イエスが十字架上で血を流されたのは、人の罪をことごとく贖い、人が罪のゆえに持っている汚れを彼の血で清めるためでした。それゆえ、キリストの血は罪を清める泉であり(ゼカリヤ十三・一)、わたしたちが主の中へと信じた時、わたしたちを清めました。この血の清めは、わたしたちの外側の、客観的なもので、神の御前におけるわたしたちの行ないの面での汚れを洗い去ります。主の血はまたわたしたちの内側の良心を清めます。そしてわたしたちの良心は清められ、大胆に神の御前に進み出ることができるようにします(へブル十・十九二二)。

神の御前で――主イエスは十字架上で血を流し、神の御前で一度限り、かつ永遠に人の罪を清められ、高き所の威光ある方の右に座られました(へブル一・三)。彼は旧約の罪を贖う祭司のようではありません。彼らは日ごとに立って仕え、いけにえを何度も同じようにささげましたが、それらは決して罪を取り除くことができず、祭司は永遠に座ることができませんでした(十・十一)。なぜなら、雄牛とやぎの血は、罪を取り除くことができないからです(四節)。しかし、キリストは罪のためにご自身を唯一のいけにえとして神にささげ、罪を取り除きました(九・二六)。こうして、彼は永久に神の右に座られました。彼が永久にそこに座られたのは、罪のために再び何もする必要はなく、彼はすでに一度で永遠に成し遂げられたからです(十・十十二)。わたしたちが、主イエスが十字架上で死なれ血を流されたのは、わたしたちの罪を贖うためであると信じた時、彼の血によってわたしたちは赦され、罪の刑罰から免れました。同時に、神の御前でわたしたちの罪は洗い去られ、罪の汚れは取り除かれ、いっさいの罪の痕跡は消し去られ、わたしたちを神の御前であたかも罪を犯したことなどなかったかのようにしてくださいました。

信者の良心において――わたしたちがひとたびキリストを信じ受け入れると、彼の血はわたしたちの内側でわたしたちの良心を清めます(九・十四)。聖書の啓示によれば、キリストの血はわたしたちの心を清めるのではなく、わたしたちの良心を清めます。良心は霊の中で最も重要な部分です。霊はわたしたちが神に触れる器官です。良心は霊の中で、わたしたちに神の声を聞くことができるようにし、神の思いを理解できるようにします。しかしわたしたちが罪を犯したため、良心は汚れて、その機能を失ってしまいました。わたしたちが信じた時、神はキリストの贖いの血によって、罪によって汚れていたわたしたちの良心を清め、それを清く、明るくし、本来の機能を回復し、わたしたちがこの清い良心によって神に仕えることができるようにしてくださいました。

もう一方で、良心はわたしたちの内側で神を表し、おもに神の律法を表します。つまり神と神の律法を反映しています。神が彼の律法によって罪に定められることはすべて、良心がわたしたちの内でも罪に定め、またそれをみな反映させます(参照ローマ二・十四―十五)。主の血はすでに神と彼の律法の要求を満たし、神と彼の律法の前でわたしたちの罪を清め、神と神の律法がもはやわたしたちを罪に定めないようにしました。ですからわたしたちの内側で神と彼の律法を代表する良心もまた、主の血によりもはやわたしたちを罪に定めることはしません。わたしたちの罪は神と彼の律法の前で主の血によって清められたので、わたしたちの良心の前でも清められています。こうしてわたしたちの良心はわたしたちを大胆に神に仕えることができるようにします。

バプテスマの洗い――わたしたちの罪の汚れは神の御前にあるだけでなく、またわたしたちの内側にあるだけでもなく、人の前にもあります。わたしたちの神に逆らう多くの事や、不敬虔で不義な事はみな、人の前で行なわれています。多くの罪を犯した事、悪を行なった事、みだらな汚れた事は全部わたしたちの周囲の人たちに知られています。ですからわたしたちが信じて救われた時、神はさらに一つの事によって、人の前で、人にも見られた、わたしたちの罪の汚れを洗い去ります。これがバプテスマの洗いです。バプテスマはわたしたちが悔い改めて神に向きを変えたことを、声を出さずに宣言することです。バプテスマによってわたしたちは悔い改めて信じたこと、罪の汚れから離れた事実を、わたしたちの周囲の人に宣言します。こうして他の人の目で見られた罪の汚れから、わたしたちを離れさせます。また他の人の目に見えるように、悔い改め、神に立ち返ります。そして清められた人となります。

かの日、主はアナニヤを遣わしサウロを尋ねさせ、サウロにバプテスマを勧めました(使徒二二・十二―十六)。このサウロはもともと主に反対しており、召会を迫害し、クリスチャンを苦しめていました。その事は多くの人、特にクリスチャンたちのよく知るところでした。今や主は彼に出会われ、彼は悔い改めて主へと帰されたので、彼はバプテスマされるべきでした。その事によって主に反対し、召会を迫害していた彼がもはや主に向きを変え、クリスチャンとなったことを人に知らせました。人の目に、主に反対し召会を迫害したという罪を洗い去るためでした。

性質上の洗い清め
主イエス・キリストの名の中で――わたしたちが性質上の命の洗い清めを得るのは、まず主イエス・キリストの名の中で、です(Ⅰコリント六・十一)。主イエス・キリストの名の中でとは、主のパースンの中で、であり、主ご自身の中で、であり、また信仰によって主と有機的に結合の中にあることです。わたしたちが主イエスを呼び求める時、わたしたちは主の生けるパースンを経験し、彼の中で、彼と有機的に結合して彼の命と性質にあずかります。彼のこの命、性質は、わたしたちを汚れた命、汚れた性質から離れさせます。また、わたしたちをわたしたちの性質上の汚れからも離れさせます。

その霊の中で――わたしたちが主イエスを呼び求める時、彼はわたしたちに臨むその霊です。この霊は命の霊であり(ローマ八・二)、この霊の中で神は彼の神聖な命をわたしたちに注入してくださいます。この命はわたしたちを生まれつきの性質から離れさせ、もともと持っている命から離れさせます。ですからまたわたしたちの生まれつきの性質に属する汚れからも離れさせ、もともと持っている命にある汚れからも離れさせ、性質上の命の洗い清めを得させます。

信仰によって――わたしたちが性質上の洗い清めを得るのはまた信仰によります。神の救いの方法は、キリストの贖いの血をもってわたしたちの心を洗い清めることをしませんが、わたしたちが信仰によって主と結合することによって、彼の命の霊をもってわたしたちの心を清められます(使徒十五・九)。わたしたちの心は、はなはだしく悪に染まって救う方法がないほどの、様々な汚れに満ちている、石のように固い古い心ですが、それを清く柔らかい従順な新しい心に変え(エレミヤ十七・九、マタイ十五・十八―二〇、エゼキエル三六・二六)、わたしたちを心から清めてくださいます。

洗い清めの結果
イザヤ書第一章十八節は言います、「たとえあなたがたの罪が緋のようであっても、雪のように白くなる.たとえ紅のように赤くても、羊の毛のようになる」。雪も羊の毛も性質において白です。ですから、神がわたしたちを洗い清めた結果、わたしたちは白くなるだけでなく、性質において白くなり、決して汚れたことがないかのようになります。わたしたちを雪のように白く洗うことは、イエス・キリストの血を通して、外側から地位的に洗うことです。わたしたちを羊の毛のように白く洗うことは、神の霊によって、また彼の命によって、内側から性質において新陳代謝的に洗うことです。これは何という洗い清めでしょう。


記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第4巻より引用

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