神のために絶対的である全焼のささげ物としてのキリスト

真理

主の一生には、傷も欠陥も不完全さもありませんでした。
彼は完全な方であり、彼の過ごされた生活も完全であり、なおかつ神のために絶対的でした。
彼は完全に全焼のささげ物となる資格がありました。
彼が肉体と成ることを通して、神は彼のために真の全焼のささげ物となる体を用意され(へブル十・五―六)、神のみこころを行ない(七―九節)、死に至るまでも従順でした(ピリピ二・八)。
そして十字架上で、ご自身の体を一度で永遠に神にささげられました(へブル十・十)。

神が人を造られた目的――神のため
神はなぜ人を創造されたのでしょうか? 神が人を造られた目的は何でしょうか? この問題の答えは、すでに神が創世記第一章二六節でわたしたちに告げておられます。それから、神は言われた、「われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう。そして彼らに、海の魚と空の鳥と家畜と全地と地を這うすべての這うものを治めさせよう」。これは神が人を創造された心情です。わたしたちがここで見るのは、神が一人の人を得たいということ、すなわちこの地上で彼を代行する人を得たいということです。これが神が満足することです。神の心の中で得たい人は、神ご自身のかたちにしたがって造られた者です。神が人を得るなら、神のご計画は成功します。神は人を通して、神ご自身の必要を満たしたいのです。それでは、神は人を創造した後、人に何をしてほしいのでしょうか? 人に治めてほしいのです。「彼らに治めさせよう」。これが神が人を創造した目的です。

創世記の最初の二章にある二つの言葉はとても意味深いです。一つは第一章二八節の「治める」で、「征服する」とも訳すことができます。もう一つは第二章十五節の「見張る」で、「守る」と訳すこともできます。ここでわたしたちが見ることができるのは、神は人に地を征服し守らせ、サタンが地を侵略することを許さない、ということです。神の本来の意図は地を人に住む所として与え、荒廃させないことでした(イザヤ四五・十八)。しかし問題は、サタンが地上にいて、地上で破壊する働きをしているので、神は人にサタンの手から地を取り返してほしいのです。サタンの働きの範囲は天ではなく、地です。このゆえに、神の王国が来るときには、必ずサタンを地上から追い払います。神のみこころが行なわれるのなら、地上で行なわれなければなりません。神の御名が聖とされるなら、地上で聖とされなければなりません。すべての問題は、サタンが地上にいるからです。

神には彼の必要があります。ですから、わたしたちは地上で人の必要のためだけではなく、神の必要のためでもあります。神に感謝します。彼はわたしたちに人を神ご自身と和解させる務めを与えました。しかし、一面、わたしたちが全世界の人をみな救っても、まだもう一つの働きがなされていません。それは神の必要がまだ満たされていないということです。もう一つのこと、すなわち人が神の働きをし、神の必要を顧みるということです。これは神が人を創造されたときに言われた必要です。神の必要は、すなわち神の被造物を治め、管理できる人を持つことです。管理することは小さなことではなく、大きなことです。神は委託することができ、しかも問題を起こさない人を必要としています。これが神の働きであり、神が得たいものです。確かに、福音を伝えることは代価を必要としますが、地上でサタンを対処するにはさらに代価を必要とします。

これを実行するなら、代価は非常に大きなものでしょう。もし神が人に、行ってサタンのすべての働きと権威を打ち倒してほしいなら、人は完全に絶対的に主に服従しなければなりません。人が別の働きを行なって、自分のために地位を残すのは、大したことではありませんが、悪魔を対処する働きは、自分のための地位を残すことができません。わたしたちが自己を残したいなら、悪魔を動かすことはできません。どうか神がわたしたちの目を開いて、わたしたちに神が人を創造された目的を見せ、それは人に絶対的に神のためであってほしいことを見せてくださいますように。

人の一回目の罪――自分のため
わたしたちは、人類がどのように一回目に罪を犯したかを見ることを通して、警告とします。人の最初の罪がどうであるかが、それに続くすべての罪がどうであるかです。アダムが犯した罪が、後の人も犯す罪です。もしわたしたちが、一回目の罪がどのようであったかを理解すれば、この世のすべての罪がどのようであるかを理解することができます。なぜなら、聖書によれば、罪には一つの原則しかないからです。

すべての罪の中に、わたしたちは「自己」という言葉を見ることができます。人々は、罪を多くの分類に分けます。それには幾千万の部類があるかもしれません。しかし、要約すれば、罪はただ一つだけです。「自己」と関係のある思いや振る舞いは、すべて罪です。言い換えれば、この世のすべての罪は、数は多くあっても、原則はただ一つです。すなわち「自己のため」であるということです。すべての罪は、自己のためです。もし自己がなければ、罪もないと言ってもよいでしょう。高ぶりとは、自己を高く引き上げることにほかなりません。ねたみとは、他人が自己よりも高くなることに耐えられないことにほかなりません。競争とは、自己のためです。怒るのは、自己が傷つけられたからです。姦淫は、自己の情欲にしたがって行動することにほかなりません。臆病は、自己の弱さを顧みることにほかなりません。ほかにも多くの種類の罪があります。もしそれら一つ一つを調べてみるなら、内在する原則は常に同じであることがわかるでしょう。すなわち、あらゆる罪は、常に「自己」と何らかの関係があります。自己と関係のない罪は、ただの一つもありません。罪のある所には、必ず自己が活動しています。自己の活動のある所には、神の御前に罪があります。

神は、アダムが犯した罪を、その後に人類が犯す無数の罪の最初の例であると考えます。神がわたしたちに知ってほしいことは、罪の表現は違っていても、その性質と原則とは常に同じであるということです。アダムの罪は、自己の意志に従うことでした。神は彼が善悪知識の木の実を食べることを禁じられたのですから、どうであれ、アダムは自分の自己の意志を顧みずに服従すべきでした。しかし、アダムは神の命令を顧みず、自分の自己の意志にしたがって食べてしまいました。これによって、彼は罪を犯してしまいました。彼の罪は、神から離れて、自分の自己の意志にしたがって行動したことでした。彼の子孫の罪は、その形式において彼のとは全く異なっています。しかし、原則においては、それらは自己の意志にしたがって行動することであり、みな同じです。

何であれ、神の心の願いを尋ね求めず、彼の案配を待ち望まず、彼の力に信頼せずに行なわれることは、自分自身の願いにしたがって、自分自身の熱心さをもって、自分自身の能力によって遂行されることです。たとえそれが最高のものであり、人の目に今までになく良いものであったとしても、神の目には罪を犯すことです。神はご自身のみこころ以外は、他の何にも満足されません。彼ご自身の能力以外は、他の何にも価値を認められません。神の目には、罪を犯すとは、決して汚れた、恐ろしいことを犯すことだけではありません。人が自分にしたがって追求し、行ない、活動することは何であれ、状況がどんなに良くても悪くても、みな罪を犯すことです。

神は、人が彼から離れて独立して行動することを憎まれます。神は人に彼に依存してほしいのです。神が人を創造し救われる目的は、人が彼に依存するためでした。これが命の木の意味です。神はアダムに言われました、「あなたは、園のどの木からでも自由に食べてよい。ただし、善悪知識の木からは、食べてはならない。それから食べる日に、あなたは必ず死ぬ」(創二・十六―十七)。

食べることのできるすべての木のうちで、神は特別に命の木に、善悪知識の木と対比して言及されました。「さらに園の中央に命の木と、善悪知識の木とを生えさせられた」(九節)。わたしたちは、神が命の木に特別に言及されたことから、食べることのできるすべての木のうちで命の木が最も重要であったことがわかります。これが、アダムが最初に食べるべきであったものでした。なぜなら、命の木とは、神の命、すなわち神の被受造の命を象徴しているからです。アダムは造られた者でした。ですから、アダムはこの命を持っていませんでした。アダムには罪はありませんでしたが、アダムは天然的なものに属しているだけで、神聖な命を受け取っていませんでした。神の意図は、アダムが自分の意志を用いて、命の木の実を選び、神と命の関係を持つことでした。これは彼を、神によって創造されたものから、神から生まれたものへとします。神がアダムに望んだのは、アダムが自分の被受造の天然の命を拒み、神の命と結合し、日々、この命に信頼して生きることでした。

最初の神・人の生活――
父の家の事を思い、自己と天然を否む
創世記第一章は最初の人であるアダムについて語り、ローマ人への手紙第一章は最初の神・人であるキリストについて語っています(三―四節)。最初の神・人の生活は飼葉桶から十字架まででした。彼の人生の初めと終わりに、この二つのしるしがあります。主の道はご自身を低くし、死にまでも、しかも十字架の死に至るまでも従順でした(ピリピ二・八)。彼はこのような飼葉桶から出発して、十字架で終えられる人生を選びました。キリストの地上での生活は、完全に父の家の事の中にいて、完全に彼の自己と天然の人を否むものでした。

彼は十二歳の時に両親に言われました、「わたしがわたしの父の事の中にいなければならない」、あるいは「わたしはわたしの父の家にいなければならない」(ルカ二・四九)。十二歳になったばかりの時に、最初の神・人は彼の父の事の中に、すなわち彼の父の家の事の中にありました。この父の家とは召会であり、それはキリストのからだという結果になり、究極的には、神の永遠のエコノミーの成就である新エルサレムとなります。主はわずか十二歳の時に、神のエコノミーに関心を持っておられました。

彼が務めを開始された時、彼は何かを行なわれる前に、ヨハネの所に来て、バプテスマされました。水のバプテスマは、肉体における人は、神の目に死んで葬られるほか役に立たないことを表徴します。ローマ人への手紙第八章三節で、主は罪の肉の様の中にあっただけでした。しかし彼が肉体の中にあったので、神の目には、この肉は完全に罪定めされ、拒絶され、ただ死んで葬られるだけでした。主イエスはこの基礎に立ち、ヨハネのバプテスマを受けられました。主イエスが務めの開始にあたって何かを行なわれる前に、行なった第一のことは、ヨハネのところに行ってバプテスマされ、全宇宙に、彼は全く肉に頼らないで神の務めを行なう、という宣言でした。

キリストの務めの生活は、水のバプテスマのこの意義に基づいて、彼の自己と彼の天然の人を否むものでした。マタイによる福音書第十六章は、主がただ彼の自己を十字架上に置き、十字架の影の下で生活したことを語っています。彼は言われました、「だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい」(二四節)。キリストは自己を下ろし、低くなった生活をされました(ピリピ二・八)。彼は地上での務めにおいても、心の柔和なへりくだった、神のくびきの下での生活をされました(マタイ十一・二八―二九)。くびきを負った家畜が主人の指示の下で労苦して地を耕したように、自由もなく、選択もなく、好き嫌いもありませんでした。

マタイによる福音書第十二章十六節で、主はご自分のことを人に知らせないようにと命じられました。これは彼が有名になることを願われなかったという意味です。ある人たちは有名になり、だれにでも知られることを好みますが、主イエスはそうではありませんでした。この最初の神・人の生活は、すべての人に受け入れられることも、自分自身のために有名になることも求めない生活でした。第十二章十九節から二〇節は言います、「彼は争わず叫ばず、大通りで彼の声を聞く者もいない。彼は公義を勝利へもたらすまで、傷んだ葦を折ることがなく、煙っている灯心を消すこともない」。主は人はみな役に立たないものであると思われません。それどころか傷ついた者や煙っている灯心を選ばれ、彼らを成就し、彼らが主の手の中で有用になり、公義を勝利へもたらすことができるようにされます。主は復讐しないで苦しみを忍び、わたしたちが彼の足跡に従うようにと、原型を残されました(Ⅰペテロ二・二一四・一)。主は毛を刈る者の前で黙っている羊のように、黙って苦痛を受けました(イザヤ五三・七)。彼はののしられても、ののしり返すことがなく、苦しめられても、脅かすことをしないで、義しく裁く方にいっさいをゆだね続けられました(Ⅰペテロ二・二三)。

自分から何も語らず、何も行なわない
主は自分自身にしたがって生きる自由がありませんでした。彼は彼の兄弟たちに言われました、「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている」(ヨハネ七・六)。ヨハネによる福音書第七章八節で主は言われました、「あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行かない。わたしの時はまだ満ちていないからである」。主は時間の事でさえ制限を受ける人として地上で生活され、自分からはまったく行動されませんでした。この方は無限の永遠の神でしたが、この地上で時間と空間の制限を受ける人になられました。

主は、自分からは何も行なうことができない、と言われました(五・十九三〇前半八・二八)。これは、主がご自身を葬られた人としていたからです。主は自分の言葉を語らず、御父の言葉を語りました(十四・十前半)。彼は自分の意志を求めないで、ただ神のみこころを求めました(五・三〇後半六・三八)。ヨハネによる福音書第十四章十節後半で主は言われました、「わたしがあなたがたに語る言葉は、わたしが自分から語るのではない。わたしの中に住んでいる父が、ご自身のわざを行なっておられるのである」。これは彼の中で生き働かれた御父と協力することでした。

マタイによる福音書第二六章三九節で主は言われました、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの意のままにではなく、あなたの意のままになさってください」。その後、四二節で彼は言われました、「わが父よ、わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたのみこころがなりますように」。これゆえにピリピ人への手紙第二章八節は、主は死にまでも、しかも十字架の死に至るまでも神に従順になられた、と言っています。

主は十字架につけられた時、自分を十字架につけている人たちのために、彼らの無知の罪を赦してくださるよう御父に祈られました(ルカ二三・三四前半)。さらに苦しみの中で死ぬ間際でさえ、彼は共に十字架につけられた犯罪人の一人に彼の救いを与えられました(四二―四三節)。主イエスが行なわれたすべての事は、彼のエコノミーの達成のため彼の中に住み働かれた御父と協力することでした。

主は絶対的に御父に生き、
父なる神のみこころを完成した
ヘブル人への手紙第十章五節から十節ははっきりと、旧約のいけにえとささげ物がキリストの予表、影であることを示しています。キリストはそれらすべてのいけにえとささげ物の実際、実体です。この聖書の箇所はさらに、第一のささげ物が全焼のささげ物であることを啓示しています。これもレビ記に示されており、そこでは全焼のささげ物が最初に述べられています。またヘブル人への手紙第十章は、全焼のささげ物として、キリストが神のみこころを行なわれたと告げています。すなわち神はキリストが旧約のすべてのささげ物といけにえを置き換えることを願われました。

キリストがささげ物といけにえをご自身に置き換えるのは簡単な事柄ではありませんでした。どのようにして人がすべてのささげ物といけにえに置き換わることができるのでしょうか? 要求された条件と、その人がどのような種類の人でなければならなかったかを考えてください。ささげ物といけにえに置き換わる人は、神に対して、あらゆる小さな事でさえ、絶対的である人でなければなりませんでした。すべての小さな事で神に対して絶対的でない人はだれも、資格づけられて、古いいけにえとささげ物を新しいものに置き換えるという、神のみこころを行なうことはできません。

「彼は第二のものを打ち立てるために、第一のものを取り去られます」(九節)。第一のものを取り去って第二のものを打ち立てるとは、古い契約を取り去って新しい契約を打ち立てることです。ヘブル人への手紙第十章の神のみこころは、旧約のすべてのいけにえとささげ物を、新しい契約のいけにえとささげ物に置き換えることであり、これを行なうには神に対して絶対的でなければなりませんでした。主イエスが地上におられたとき、小さな事が彼に御父との一を失わせたことは決してありませんでした。もしこの一が壊されていたなら、キリストご自身がキリストを必要とされたでしょう。さらに、彼は全焼のささげ物となる資格を失い、だれかが彼の救い主となる必要があったでしょう。しかしながら、主イエスは神に対して絶対的であり、それゆえに資格づけられて全焼のささげ物となられました。

主ご自身とその生活は
わたしたちの模範である
主イエスはわたしたちに、神の新約の務めを遂行する時、自分から何もすることができない(ヨハネ五・十九)、自分のわざを成し遂げることはしない(ヨハネ四・三四十七・四)、自分の言葉を語るのではない(ヨハネ十四・十二四)、自分の意志によって何も行なうことはない(ヨハネ五・三〇)、自分の栄光を求めない(ヨハネ七・十八)と言われました。今日、主の働きを行なう場合、だれが自分からは何も行なわないと言うことができるでしょうか? また、だれが自分のわざを行なわず、自分の言葉を語らないと言うことができるでしょうか? さらに、だれが自分の意志によって何も行なわない、自分の栄光を求めることはしないと言うことができるでしょうか?もしこれら五つの点に積極的に返答することができるなら、その人はキリストの足跡に従って、神の務めに分があるでしょう。

人が神のために働こうとするとき、もしこれら五つの点に欠けているなら、神を喜ばせることがなく、さらには召会の中に分裂を引き起こすでしょう。ですから、わたしたちは、主の働きの中で、終わらされた人が持つ大きな違いを見る必要があります。終わらされた人とは、自分から働きを行なわず、自分のわざを行なわず、自分の言葉を語らず、自分の意志によって行なわず、自分の栄光を求めない人です。これは、主イエスが神の新約の務めの中で行なったことです。彼のこの務めは召会を生み出し、聖徒を成就し、からだを建造しました。キリストご自身と彼のこのような生活はわたしたちの模範です。どうか主が、わたしたちのこれらの事柄に関するビジョンを鮮明にしてくださいますように。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第3巻より引用