神の栄光と神の建造

真理

神の永遠の定められた御旨の目標は、彼の住まいとしての一人の団体の人を得て、永遠の世において彼を表現させ、代行させることです。創世記の最後で、神を表現し、彼の権威を代行する、神の家の縮小としての個人のイスラエルが生み出されました。出エジプト記の最後では、神を表現する神の家として、また地上において神の権威を代行して行使する、団体のイスラエルが生み出されました。創世記と出エジプト記の結論は、神の幕屋、神の住まいが神の栄光で満たされることです(出エジプト記第四〇章三四節)。旧約の時代に、神の家はイスラエルの家であり、まず幕屋によって代表され、後に宮によって代表されました。神の栄光が地上で表現されるかどうかは、完全に建造にかかっていると言うことができます。

エゼキエルは、宮が完成し、
神の栄光が宮(家)へと戻るのを見た
エゼキエルは彼の初期の務めにおいて、主の栄光が一連の段階の中で去るのを見ました。最初に、主の栄光は宮を段階的に離れて行くのを見ました。彼は離れたくなかったのですが、最終的に、民の忌むべきもの、淫行、堕落のゆえに、彼は強いられて離れました。神の栄光は宮を離れましたが、彼はためらい、敷居でぐずぐずしていました(エゼキエル書第九章三節、第十章四節)。神の栄光は、敷居から出て、町の中から上って行き、町の東にあるオリブ山の上へと行きました(第十一章二三節)。そしてそこから神の栄光は、天へと昇りました。

エゼキエルが宮の完成するビジョンを見て、すべての建造が測られた後に、その霊はエゼキエルを東の門へと連れて行きました。その場所で、彼はエホバの栄光が宮(家)の中へと入って行くのを見ました。エゼキエル書第四三章二節から五節は言います、「すると、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の道から来た.彼の声は多くの水の音のようであり、地は彼の栄光で輝いた。わたしが見たビジョンの光景は、彼がこの町を滅ぼしに来たときに、わたしが見たビジョンのようであり、またそのビジョンは、わたしがケバル川のほとりで見たビジョンのようであった。そこでわたしは顔を伏せた。エホバの栄光が、東に面した城門を通って家に入って来た。すると、霊がわたしを引き上げて、わたしを内庭に連れて行った.まさにその時、エホバの栄光が家を満たした」。

エゼキエルの時代においては、主の栄光が宮(家)へと戻るには、宮(家)が完成する必要がありました。これは、もし神の栄光を召会の中に住まわせたいのであれば、召会が建造されなければならないことを示しています(エペソ人への手紙第三章十四節―二一節)。

召会――神の豊満――の中に
神の表現があること、このことが栄光である
パウロはエペソ人への手紙第三章十九節で言います、「あなたがたが満たされて、神の全豊満へと至るように」。キリストがわたしたちの心の中に彼のホームを造られる時、そしてわたしたちが力に満たされて、すべての聖徒と共にキリストの大きさを会得し、経験によって知識を超越した彼の愛を知る時、わたしたちは満たされて神の全豊満へと至ります(十四節―十九節)。わたしたちが第三章十九節の深みに入る時、神の豊満は召会であることを見ます。二一節でパウロは言います、「神に、召会の中で、またキリスト・イエスの中で、栄光が……ありますように」。文脈によれば、二一節の召会は、十九節の神の豊満です。わたしたちが経験の中で満たされて神の全豊満へと至る時、召会が実際的に出現します。「神に、召会の中で、またキリスト・イエスの中で、栄光が……ありますように」とパウロが言うのは、そのような時です。この栄光は神の表現です。それゆえに、神の豊満の中に神の表現があります。ですから、神の豊満は神の表現としての召会です。これが召会の最高の定義です。

そのようなビジョンを受けてはじめて、わたしたちは召会が何であるかを真に知るのです。エペソ人への手紙第一章と第二章は召会の定義を与えますが、この定義はまだ十分ではありません。わたしたちは、召会がいかに有機的に、新陳代謝的に、生けるキリストの豊富によって構成されるかを見せている、第三章を必要とします。第三章になってはじめて、召会は事実上、また実際的に出現します。すでに見てきたように、この章で召会は神の表現として、すなわち、神の豊満として出現します。この時点でパウロは高い賛美をすることができました。彼は賛美し言いました、「神に、召会の中で……栄光が……ありますように」。今や召会が実際に出現したので、キリストは召会の中で栄光を受けることができます。そのような召会は、単に神の召し出された民の集まりではありません。それは神の真の豊満です。

エペソ人への手紙第三章によれば、三一の神は教理上の討論の題目ではありません。それは彼ご自身を信者たちの中へと分与するためです。それは、彼らが満たされて、御父だけでなく、御子だけでもなく、その霊だけでもなく、神の豊満へと至るためです。このような召会が出現した後に、二〇節から二一節での、神に、召会の中で、またキリスト・イエスの中で栄光がありますようにという使徒パウロの賛美が出てきました。

神が召会の中で栄光を得る道
第三章二〇節と二一節を考えましょう。それは言います、「しかしまた、わたしたちの中で活動するその力にしたがって、わたしたちが求め、また思うすべてを、はるかに超えて豊かに行なうことのできる方、神に、召会の中で、またキリスト・イエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように。アーメン」。これらの節は、栄光の賛美、高い賛美、新約聖書の書簡にある最高のものでさえあります。そのような神の豊満としての召会が出現した後、神の栄光が現されます。地上の召会が神の豊満となる段階に達する時、わたしたちはパウロと共に、「神に、召会の中で、またキリスト・イエスの中で、栄光が……ありますように」と言うことができるでしょう。

しかしわたしたちは、二〇節から二一節の「しかし……ことのできる方に」という言葉は、何かが最初に神から出て行き、それが今は彼に戻りつつあるという思想を伝えます。パウロは祈りの中で、父が彼の栄光の豊富にしたがって、聖徒たちを増強してくださるようにと祈りました。これは、神の栄光が、聖徒たちの中に造り込まれることを暗示します。彼は栄光の賛美の中で、「神に栄光が……ありますように」と言いました(二一節)。これは、聖徒たちの中へと造り込まれた神の栄光が、神に戻って行くことを示します。まず、神の栄光が、わたしたちの中に造り込まれます。次にそれは、神に栄光を帰するために彼に戻ります。例証として、イサクの財宝は、まずリベカに与えられて、彼女を美しく飾るものとなりました。次にその財宝はすべて、リベカと共にイサクに戻って、彼の栄光となりました(創世記第二四章四七節、五三節、六一節―六七節)。使徒は、神が彼の栄光にしたがって聖徒たちを増強してくださるように、「どうか」神の栄光が、彼らの中へと造り込まれた後、最終的に増強された聖徒たちと共に彼へと戻るようにと祈りました。これは、神が召会の中で栄光を得られる道です。

神の栄光は神と共にわたしたちに来て、
同時にわたしたちと共に神へと戻される
エペソ人への手紙第三章十六節でパウロは、御父が、彼の栄光の豊富にしたがい、力をもって、彼の霊を通して、わたしたちを内なる人の中へと増強してくださるようにと祈りました。栄光にしたがって増強されるとは、神の栄光がわたしたちの中に造り込まれることです。これは、神の栄光にしたがって増強される唯一の道です。仮に、肉体的にとても弱い人が、肉体的に強い人にしたがって増強されることができるとします。これは、強い者の力が、弱い者の細胞の中に造り込まれることを意味します。同じ原則で、御父の栄光にしたがって内なる人の中へと増強されるとは、彼の栄光がわたしたちの中に造り込まれることを意味します。まず、栄光がわたしたちに来て、次にそれは神に戻って行きます。栄光がわたしたちの中に入って来る時、わたしたちは満たされ、増強されます。それが神に戻って行く時、神は召会の中で栄光を受けられます。

二〇節で「どうか」と訳されたギリシャ語は、「今や」とも訳すことができます。そのような場合、「今や」は、「という事実の観点から」、「前述に基づいて」を意味します。二〇節と二一節でパウロは、こう言っていたかのようです、「今や召会が神の豊満として出現したので、神は召会の中で栄光を受けることができます。この時までに、栄光が神に戻ることは不可能でした。しかし召会が実際的に神の豊満となったので、これは今や可能です」。

召会は神の栄光であり、神と共にわたしたちに来て、わたしたちと共に神に戻って行きます。そのような召会には、神とわたしたちとの間、わたしたちと神との間に双方向の交わりがあります。この双方向の交わりによって、神の栄光がわたしたちの中に造り込まれ、神はわたしたちの中で栄光を受けられます。この交わりは、「しかし」というこの言葉で示されています。

召会に関してわたしたちが求め、
また思うすべてを超えている
二〇節でパウロは、「わたしたちが求め、また思うすべてを、はるかに超えて豊かに行なうことのできる方」と言います。厳密に言って、ここの「求め、また思う」は、物質の事柄に対してではなく、召会と関係がある霊的な事柄に対してです。これらの霊的な事柄について、わたしたちは求めると同時に、思う必要もあります。わたしたちは求める以上に、思うことができます。神は、わたしたちが召会のために求めることだけでなく、召会について思うことも、成就してくださいます。そして神は、わたしたちの中で活動するその力にしたがって、わたしたちが召会のために求め、また思うすべてを、はるかに超えて豊かに行なうことができます。

二〇節で啓示されているように、わたしたちが求め、また思うすべてを、はるかに超えて豊かに行なうことができる神の力は、神の創造する力とは異なります。二〇節は創造ではなく、召会に言及しているのです。わたしは何度も、聖徒たちが二〇節を引用して、神の物質の祝福を経験したことについて証ししたのを聞きました。この節をそのような目的に引用することは誤った適用です。ここのパウロの観念は、神がわたしたちの外側で行なわれることではなく、わたしたちの内側で行なわれることに関するものです。彼は特に、「わたしたちの中で活動するその力」を述べています。これは第一章十九節と二〇節で述べられているような内側の力、復活の力です。

神の創造する力は、わたしたちの周囲にある物質を生み出します(ローマ人への手紙第八章二八節)が、神の復活の力は、わたしたちの内側で、召会のために、霊的な事柄を成し遂げます。神がわたしたちに良い職業を与えるには、わたしたちの中で活動する復活の力を必要としません。神が、わたしたちが求め、また思うすべてをはるかに超えて豊かに行なうことができることは、わたしたちの環境の中の彼の行動と関係があるのではなく、彼がわたしたちの内側で有機的に、新陳代謝的に働かれることと関係があります。わたしたちが順境にあるとき、キリストがご自身をわたしたちの心の中に広げられる機会はごくわずかであるでしょう。しかしわたしたちが困難な環境に置かれるとき、主はわたしたちの内側に広がる機会をさらに多く持たれるでしょう。わたしたちの側からは、良い環境にいることが良いように見えますが、主の側からは、わたしたちが困難な環境にいるほうがさらに良いのです。なぜならその時、彼がわたしたちの内側で働くさらに大きな機会を持たれるからです。

二〇節で言われている、求めることと思うことは、召会に適用されるべきです。わたしたちが求めまた思う必要があるのは召会についてであって、わたしたちの環境に関する些細なことについてではありません。わたしたちが求めること、思うことは、神がご自身をわたしたちの中へと分与して、キリストの表現としての召会を生み出すという神のエコノミーに焦点づけられるべきです。このように求め、また思うなら、わたしたちは必ず霊の中にいます。その時、わたしたちが召会について求めることは何であれ、はるかに超えて豊かに答えられます。何とわたしたちは、召会について求め、また思う必要があることでしょう!

神はキリストの中で栄光を受ける
二一節は言います、「神に、召会の中で、またキリスト・イエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」。神の栄光は、召会の中に造り込まれ、神は召会の中で表現されます。ですから、召会の中で神に栄光があります。すなわち、神は召会の中で栄光を受けられます。

神が栄光を受けられるのは、召会の中でだけではなく、キリストの中ででもあります。ですから、「また」という言葉がここで使われており、この点を強調して示しています。召会の中では、神が栄光を受けられることの領域は狭く、信仰の家族に限られています。ところがキリストの中では、その領域ははるかに広いです。なぜならキリストは、天と地にあるすべての家族のかしらであるからです(第一章二二節第三章十五節)。ですから、神がキリストの中で栄光を受けられるのは、神が創造されたすべての家族の領域内でのことで、地上だけでなく天においてもです。キリストの中の範囲は召会の中の範囲よりはるかに広いだけでなく、キリストの中の範囲は、「すべての世代に至るまで、永遠にわたって」の句に示されているように、永遠です。すべての世代に至るまで、永遠にわたっては、永遠を構成します。神が召会の中で栄光を受けられることは、おもにこの時代においてですが、神がキリストの中で栄光を受けられることは、永遠にわたってです。

召会はリードを取って神に栄光を帰する
召会は、宇宙における多くの家族の一つです。他の家族は御使いの家族、人類の家族、イスラエルの家族を含みます。十五節によれば、神は天における御使いの家族と、地上のすべての人の家族の源です。もちろん、彼はまた召会、すなわち信者たちの家族、家庭の源です。神が召会の中で栄光を受けられると言うのは、多くの家族の中のただ一つの家族の中で栄光を受けられることを意味します。しかし、神がキリストの中で栄光を受けられると言うのは、万物のかしらとしてのキリストの中で栄光を受けられることを意味します。キリストは御使いたちのかしら、人類のかしら、イスラエルのかしら、そして召会のかしらです。もし神が召会の中で栄光を受けられるだけであるなら、すべてを含む方法で栄光を受けられることはありません。すべてを含む方法で栄光を受けるために、彼はまたキリストの中で栄光を受けられなければなりません。

信仰の家の家族の人たち(召会)として、わたしたちは、神の栄光がわたしたちの中に造り込まれることによって、リードを取って父なる神に栄光を帰します。神の栄光がわたしたちの中に造り込まれるために、わたしたちは神の栄光の豊富にしたがって、内なる人の中へと増強される必要があります(十六節)。その時、この栄光は、神と共にわたしたちに来て、わたしたちへと造り込まれた後、わたしたちと共に神に戻るでしょう。この往来によって、召会は宇宙における初穂として(ヤコブの手紙第一章十八節)、リードを取って神に栄光を帰します。わたしたちがリードを取って神に栄光を帰すなら、他のすべての家族は、天にあるものも地にあるものも、わたしたちに続いて、神に栄光を帰すでしょう。

最後に、神は今の時代――召会時代――において栄光を得られるだけでなく、次の時代――王国の時代――において、そして代々にわたり、永遠の世においても栄光を得られます。神が、すべての時代(今の時代から永遠の時代)において栄光を得られるには、建造された召会の中で栄光を得、またキリストの中で栄光を得なければなりません。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第2巻より引用