十字架の中心性

真理

エゼキエル書にある宮の回復の記載によると、祭壇は宮の中心であり(第四〇章四七節)、また良き地の中心でもあります。その良き地はまた人の住む地の中心です。これは、キリストの十字架が宇宙の中心であることを表徴しています。キリストの十字架は宇宙で大きな事であり、キリストと同じように旧約聖書の予言と新約の啓示の中心です。また神の贖いの中心であり、その地位は非常に重要ですから、わたしたちはこれに対して正確ではっきりした認識を持つべきです。

聖書の啓示によると、キリストの十字架はキリストの死を指しており、宇宙で非常に重大なことです。わたしたちはいくつかの面からキリストの十字架を見ることによって、その重要性と特殊な地位を認識することにしましょう。

十字架は神が計画されたことである
エペソ人への手紙第一章七節は言います、「その愛する者の中で、わたしたちは彼の血を通しての贖い、すなわち違犯の赦しを受けています.これは、神の恵みの豊富によります」。その愛する者はキリストであり、わたしたちは彼の十字架上の血を通して贖われました。続けて九節はこの恵みとは、「みこころの奥義をわたしたちに知らせてくださいました.これは、神がご自身の中で計画された彼の大いなる喜びによるもので」あると言っています。わたしたちが神の愛する御子の血を通して贖われたことは、キリストが十字架上で成し遂げられたことです。ここで言われている贖いは神の喜びによって計画された恵みです。それがわたしたちに見せているのは、十字架は神が彼の喜びによって計画したものであるということです。神の十字架に対する計画は、彼のみこころに基づいています。ですから十字架を認識することで、わたしたちは神のみこころの奥義を知ることができます。

神のご計画の中で、キリスト以外に、十字架より大きな地位を持っているものはありません。十字架とキリストは、いずれも神のご計画の中心です。一つは手続きの中心であり、一つは目的の中心です。キリストは神のご計画の目的であり、十字架は神のご計画の手続きです。神が計画されたすべては、何であれキリストを目的とし、キリストのために成し遂げられました。同じように、すべては十字架を手続きとし、十字架を通して成就されました。ですから、キリストは神のご計画の目的の中心であり、十字架は神のご計画の手続きの中心です。神のご計画の中で定められ行なわれたすべては、目的から言うと、キリスト以外に何もありません。手続きから言うと、十字架を離れることはできません。キリストがなければ、神のご計画には目的がなく、十字架がなければ、神のご計画には手続きがありません。

十字架は永遠のものである
多くの人は十字架を神の臨時的な救いの方法だと思っています。人は罪を犯しており、滅びに至るべきなのですが、神は世の人を愛しているので、彼の御子、主イエスをこの世に遣わし、人のために十字架の救いを設けられた、というものです。このような言い方は間違っていないかのようですが、聖書の啓示には、ほど遠いのです。なぜなら、このような言い方は、十字架を、神が彼のご計画を遂行しておられる途中で困難に遭遇したので、臨時的に思いついた補助的な救いであるとしてしまうからです。事実上、聖書はわたしたちに、十字架は神が永遠において計画され定められたものであることを見せています(ペテロの第一の手紙第一章二〇節)。人がまだ創造される前、罪を犯して堕落する前、宇宙さえもまだ創造されておらず、時間もまだ始まっていない始まりのない永遠の中で、神は彼ご自身の喜びにしたがい、彼の予知、先見によって、十字架の贖いを計画されました。ですから、十字架は神の永遠の定められたもので、彼の一時的な補助的救いではありません。それは神が永遠において計画されたもので、時間の中で成就されたにすぎません。ですから聖書は、あの十字架を成し遂げられるキリストは、創世の前、「世の基が置かれる前」に神によって準備されていたと言っています。世の基が置かれるよりずっと前、すべてがまだ開始されていないとき、神は彼の永遠のご計画の中で、キリストが十字架の救いを成し遂げることを定められました。十字架は世の基が置かれる前に、過去の永遠において、すでに定められていました。

十字架は過去の永遠において定められていただけでなく、未来の永遠においても存在します。キリストは今日、天上でほふられたばかりの小羊(啓示録第五章六節)であるだけでなく、未来の永遠の中でも、彼はほふられたばかりの小羊です。啓示録第十三章八節は言います、「世の基が置かれた時からほふられていた小羊」です。「小羊」はキリストを指しており、ここでの名称は彼がほふられたばかりであることを説明しています。そして彼がほふられたということは、すなわち十字架を言っています。ですから前に言ったように、彼の「小羊」という名称は、わたしたちに彼の十字架の出来事を思い起こさせます。未来の永遠の中で、キリストはなおも「小羊」と呼ばれています(第二二章一節)。この意味は、未来の永遠において、彼の十字架はまだ存在しており、彼の十字架の出来事はわたしたちに覚えられ、見られているということです。

そればかりでなく、未来の永遠においてキリストは、神とわたしたち贖われた者たちとの間の小羊です。未来の永遠において、彼の十字架の効力は、神とわたしたち贖われた者たちとの間に依然として存在します。未来の永遠において、彼の十字架が生み出す最終の結果、彼の十字架の効力は、わたしたちに覚えられ、見られているだけでなく、わたしたちに享受されています。未来の永遠においてずっと、神はなお彼のこのほふられたばかりの小羊の中で、わたしたちの命の光またすべてとして、わたしたちと同在します。わたしたちもなお彼のこのほふられた者の中で、神の豊満を享受し、神の栄光を表現します。わたしたちの上で、わたしたちと神との間で、彼がほふられたことは永遠の効力があります。この効力はわたしたちと神との間の関係を永遠にわたって存続させます。ヘブル人への手紙第九章十四節は言います、「キリストが永遠の霊を通して、(十字架上で)傷のないご自身を神にささげられた」。ですから彼の十字架が成し遂げたすべては、一時的なものではなく、永遠のものです。十字架の効力は暫時的なものではなく、永遠のものです。わたしたちがもし十字架を臨時的なもの、時間の中の出来事とみなすなら、十字架の重要性が、わたしたちによって軽減されてしまいます。

十字架は旧約の予表の中心である
十字架は神が永遠において計画し、定められました。ある定められた時に、時間の中で成就されます。また、十字架とわたしたちの関係はとても深いので、成就されるときが来る前に、神は旧約の中で、いろいろな表徴、予表、予言を用いて、はっきりと詳細にあらかじめ十字架を啓示されました。神は旧約の中で、予表と予言を用いて彼が遣わそうとしているキリストを啓示しただけでなく、キリストによって成就される十字架も説明されました。旧約にはキリストが満ちているのと同じくらい、十字架が満ちていると言うことができます。

例えば、エデンの園には犠牲の死があり(創世記第三章二一節)、その後、アベルのささげ物の羊があり(第四章四節)、さらに父祖と歴代のイスラエルの民がささげた犠牲、特に過越の小羊(出エジプト記第十二章、参考、コリント人への第一の手紙第五章七節)のほふられたことがあります。このほかに、祭壇とその上のささげ物(参考、へブル人への手紙第十三章十節)、打たれた岩(出エジプト記第十七章六節、参考、コリント人への第一の手紙第十章四節)、竿の上にかけられた青銅の蛇(民数記第二一章九節、参考、ヨハネによる福音書第三章十四節)、そして罪に定められた者が死に渡されるために木にかけられること(申命記第二一章二二節、参考、ガラテヤ人への手紙第三章十三節)など、すべては神が予表の方法を用いて、あらかじめキリストの十字架をわたしたちに描写して、わたしたちがこの十字架の予表の絵を見ることができるようにされたものです。

また創世記第三章に記されているように、蛇がエバとアダムを誘惑して欺いた後、神は蛇を裁いて、予言して言いました、「また、わたしは敵意を置く。おまえと女との間に、またおまえの子孫と女の子孫との間に。彼はおまえの頭を打ち砕くが、おまえは彼のかかとを打ち砕く」(十五節)。この予言の女の子孫とはキリストです。彼は肉体となり、女から生まれました。彼は蛇の頭を打ち砕きましたが、彼のかかとは蛇に打ち砕かれました。これは彼が十字架上で釘づけられ、死を通して死の権能を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼしたことを指しています。そして詩篇第二二篇一節と六節から十八節、イザヤ書第五三章四節から十節などで、神は予言の形を用いて、あらかじめキリストが十字架上で受ける苦難とすべての境遇を説明しています。

わたしたちがもし聖書をよく知っているなら、旧約の予表と予言の中で、十字架が神の思想と啓示において何と重要な地位を占めているかを見ることができます。神が成就し、得られ、また約束されるすべて、また彼に属する人の上で働き、彼の民に与えることのすべては、みな十字架を通してです。また十字架の働きを中心とし、十字架に従い、十字架を経過してすべてに到達します。十字架とキリストは、どちらも神の旧約における予言の中心です。一つは手続きであり、一つは目的です。わたしたちはこの二つを認識しなければなりません。その時、旧約の予言が明らかになります。キリストと十字架は旧約の予言の主要な点であり、この二つを認識するとき、旧約の予言を理解する秘訣を持ちます。主イエスは復活の後、このように弟子たちが彼を認識することを導きました(ルカによる福音書第二四章十三節―二七節)。

十字架は新約の啓示の中心である
旧約は新約をもたらし、新約は旧約を成就します。旧約の予言はキリストと彼の十字架を中心としています。新約の啓示もさらに同じです。新約の啓示はキリストについて語り、キリストをすべての中心とすることに重きを置いているだけでなく、また彼の十字架についても語り、彼の十字架も中心としています。四福音書はキリストがどのようであったかを描き出すのと同じくらい、キリストが成し遂げた十字架をわたしたちの目の前にありありと描き出しています。わたしたちは四福音書をよく知りたいなら、その中のキリストを認識する必要があり、その中の十字架も理解する必要があります。

使徒行伝は復活し昇天されたキリストを証ししており、また彼の十字架も証ししています。キリストの十字架はキリストを復活と昇天へともたらし、彼を復活し昇天されたキリストとされました。わたしたちはこのキリストを認識し、彼の十字架を見る必要があり、彼の十字架にしたがって彼を認識する必要があります。キリストがどのような方であるかが使徒行伝の目標であり、彼の十字架も同じように使徒行伝の基礎です。

書簡の中のメッセージは、さらにキリストと彼の十字架を重いものとしています。パウロは言っています、「わたしはあなたがたの間ではイエス・キリスト、しかも十字架につけられたこの方のほかは、何も知るまいと決心したからです」(コリント人への第一の手紙第二章二節)。パウロはいかなる別のものを宣べ伝えることなく、ユダヤ人が望んだ奇跡を宣べ伝えることもなく、ギリシャ人の求める知恵を宣べ伝えることもなく、ただ「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えました(第一章二二節―二三節)。彼はキリストが神の力であり(二四節)、キリストの十字架も神の力である(十八節)ことを見ています。キリストはパウロのメッセージの中心であり、十字架も彼のメッセージの中心です。彼が人から「嫌われ者」とされたのは、彼がキリストの十字架を宣べ伝え、他のものを宣べ伝えなかったからです。しかし彼は神のために用いられ、彼のメッセージには力があったので、彼は別のものを宣べ伝えないで、ただキリストの十字架を宣べ伝えたのです。使徒ペテロとヨハネも同じように、一面、贖いを成し遂げたキリストを彼らのメッセージの中心とし、もう一面、キリストが成し遂げた贖い、すなわち彼の十字架を、彼らのメッセージの重点としました(ペテロの第一の手紙第一章三節十八節―十九節第二章二一節―二四節第三章十八節ヨハネの第一の手紙第一章七節第三章十六節)。ですから、書簡のメッセージが明らかにしているのもまた、キリストと彼の十字架を認識する必要があるということです。人がただキリストと彼の十字架を見るとき、書簡の中の実際に触れることができます。

啓示録は「イエス・キリストの啓示」(第一章一節)であり、天上の幕を開いて、キリストを啓示しています。ですから啓示録は特にわたしたちにキリストを見せている書です。啓示録はわたしたちにキリストを見せますが、天上で、永遠の世で栄光を受けたキリストは、なおほふられたばかりの小羊でもあります(第五章六節)。これはわたしたちにキリストの十字架を思い起こさせ、キリストの十字架に注意を払わせます。ですから、啓示録もまたキリストを中心とし、キリストの十字架を重点とします。わたしたちは新約の啓示を認識しようとするなら、キリストを認識し、十字架を認識しなければなりません。キリストと十字架が、新約の啓示の秘訣であることは明らかです。

十字架は神の贖いの中心である
十字架は神の旧約の予言と神の新約の啓示の中で重要な中心的地位を占めているので、十字架は神の贖いの働きの中心です。神のすべての贖いの働きは、キリストが行なったものであり、十字架を通して成し遂げられたものでもあります。キリストがなければ、神の贖いはありません。十字架を離れても、神の贖いはありません。神の贖いの中の赦し、清め、聖別、義とされること、和解、再生、永遠の命、解放、そしてその他の霊のものであるあらゆる祝福(エペソ人への手紙第一章三節)は、みなキリストの中にあり、十字架を通して成し遂げられたものです。わたしたちはこれらを得て、経験したいなら、必ずキリストと彼の十字架を認識しなければなりません。ただキリストの中にいるとき、これらを得ることができます。また十字架を通してのみ、キリストがわたしたちのために成し遂げられたすべてを経験することができます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第2巻より引用