エゼキエル書における、聖なる宮の各面の寸法の霊的な意義

真理

エゼキエル書の中の神の建造に関するビジョンは、神が一つの確かな場所に住まわれること、すなわち彼の宮に住まわれることを啓示します。神の宮には多くの語るものがあります。それらはすべて神ご自身を表しています。エゼキエル書第四〇章から四二章までは、聖なる宮の各面の寸法を描写しています。その数字にはすべて深い意味が含まれています。

聖なる宮の構造(図1を参照)に関して、外から内までの各種の寸法の数字には、すべてその霊的な意義があります。神は、この有形な数字を用いて、無形の霊的な実際を語られます。神の民が神を見いだし、神と出会い、神と接触するにはこれらの数字が言っているところの霊的な実際に合っていなければなりません。本編では聖なる宮の各面の寸法の霊的な意義を見ていきます。

図1:配置図ー宮と内庭と外庭(詳細はここをクリック)


外庭の城門

外庭

内庭の城門

内庭の城門の中にある机

祭壇

聖なる宮

わき

宮、及びその前後の空間の寸法

宮を取り囲む土地

神の民は、召会の寸法に符号していなければならない



わたしたちが見る必要のある第一項目は壁です(エゼキエル書第四〇章五節)。壁の高さと厚みは同じ寸法です。すべてが一さお、六キュビトです。創世記において、人は第六日目に造られました。ですから六とは人の数字です。六キュビトの意味は、完全に十分資格付けられている人であるという数字です。主イエスは真に人です。人類の中で、この地上で、もし真に、人として十分である寸法を持つ者がいるならば、それは主イエスです。この周囲の壁の横断面は、六キュビトの正方形です。福音書は、主イエスが六キュビトの正方形であることを見せています。彼は正方形の人であり、偏らず、斜めでもなく、曲がりくねったものは何もありません。彼には足りないものはなく、また余分なところもありません。

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外庭の城門
彼は壁だけではなく、城門(図2を参照)でもあります。壁は隔てるものですが、城門は中へと入らせるものです。主が正方形であることから言えば、彼は神の外へとわたしたちを隔て、わたしたちが神に近づけないようにします。しかし神に感謝し、賛美します。この正方形である主イエスは、壁だけでなくまた城門です(ヨハネによる福音書第十章九節)。神は、わたしたちに彼を経過させ、彼を通して、神の御前へと出させます。エゼキエル書における聖なる宮に関する記載は、とても詳細で、はっきりとしています。聖なる宮には、二つの周囲の壁に六つの城門があります(第四〇章六節―十六節、二〇節―二七節)。この城門は単純なものではなく、奥行きのある城門であり、その中には多くの事柄があります。

図2:城門の詳細(詳細はここをクリック)

一 階段と入り口の城門
人が外庭の城門に入ろうとするなら、まず七段の階段を上らなければなりません(六節、二二節、二六節)。七は完全という意味です。主に近づく人はすべて、霊的に言えば、前進し上っているということです。階段を上れば、大きな城門へと入ります。この大きな城門の幅は十キュビトあります。十キュビトは、神の十戒の人に対する完全な要求を指していて、人が神に対して担う責任も示しています。主イエスは十字架の上で、十戒の要求を担い、神の要求に完全に応じ、人の神に対する完全な責任を担われました。そして神と人の間の通路は完全に通じました。彼は城門であり、人を神の御前へと進み出させます。その通路の幅は十キュビトであり、真っすぐに通じています。

二 城門
城門の長さは十三キュビトでした(十一節)。入り口の幅は十キュビトで、それに両側の壁の厚みがそれぞれ一キュビト半であり、合わせて十三キュビトとなります。十三は、十と三から成っています。三は三一の神を指し、また復活を指しています。また三は二つに分けられており、両側でそれぞれ一キュビト半ずつです。これは証しを意味しています。これは三一の神である主イエスが、律法を成就し、完全な証しとなり、わたしたちが神に親密に近づくために、一本の完全な道を開かれたことを示しています。

三 城門の中の詰め所
城門の外側から通路、城門へと入って行きます。この城門の中には六つの詰め所があります。それは両側に分かれており、両側に三つずつあります(十節)。これらの部屋はそれぞれの長さが一さお、幅が一さお、すなわち六キュビトの正方形です(七節、十二節)。これだけではなく、それぞれの三つの詰め所の間には二つの空間があり、それぞれの間隔は五キュビトであり、二つ合わせると十キュビトになります(七節)。三つの部屋というのは、父、子、霊である三一の神を指しています。六キュビトの正方形は完全な人であることを示し、六つの詰め所もまた人を示している数字です。二は証しの数字、十キュビトの幅は、主イエスが負って、担われ、成就された十の戒めの律法を示しています。詰め所は、はっきりと三一の神が成就したその人、証しとなり、十戒を成就し、完全に責任を果たされたことを示しています。彼は十戒をすべて成就されたので、今日において、わたしたちが神の御前に進み出るのを止めることができる戒めはありません。

それぞれの詰め所の前には、通路に対して一キュビトの境が出ており、詰め所の奥行きは七キュビトとなっています(十二節)。これは主の完全さを言っています。同時に、両側の詰め所が通路に対して一キュビトの境が出ているので、もともと十キュビトであった通路の幅は、八キュビトの幅が残されているだけです。八は復活、また新しい開始を示しています。ですからこれは、わたしたちが復活の中で新しい開始を持ち、神へと向かって進み、神の住まいにあずかることを表しています。

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外庭
一 敷石
外庭の壁よりの場所、城門の両側には敷石があります(第四〇章十七節―十八節)。三つの城門の両側には、合わせて六つの区分の敷石があります。この六つの区分の敷石の上には合わせて三十の部屋があり、各区分に五つの部屋があります。この三十の部屋は、イスラエル人が神の御前で祭りをするときに、ささげ物を食べるのに用いられました。今日の霊的な言葉で言えば、神の民がキリストを享受する場所です。三十という数は、六と五、三を含み、また三の十倍でもあります。六は人を、五は責任を示します。これはまた、キリスト、三一の神なる方がひとりの人となられ、神の十戒を守り、すべての責任を負われたことを示しています。人は彼の中で、彼が人(六)と成られたことを享受し、彼の負われた責任(五)を享受し、また三一の神の十倍の豊かな供給(三十)を享受します。

二 民のささげ物を煮る場所
外庭の四つの角には、それぞれに一つの仕切られた庭があり、その長さは四十キュビト、幅は三十キュビトです。その周囲には部屋が並べられています。その庭は民が犠牲を煮るのに用いられます(第四六章二一節―二四節)。三十キュビトの広さは、三一の神を示し、完全で全体的なわたしたちへの供給を示しています。四十は聖書において、試練を受けること、また試みられることを示しています。イスラエルの民は荒野で四十年間試練を受けました。主イエスは四十日間、荒野で試みられました。もし主が試練を経過されなかったなら、また苦難を受けられなかったなら、彼ご自身をわたしたちに供給することはできませんでした。また別の面から言えば、キリストの供給を受けたい人はみな、試練を経過しなければならないということです。

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内庭の城門
内庭には東、北、南と三つの城門があります(第四〇章 二八節―三七節)。この城門に入って行くには、八段の階段を上らなければなりません。これは復活を示しています。これは、神の民が天然から離れ、旧創造から離れ、自己から離れ、復活の中で前に向かって、上に向かって進む必要があることを言っています。

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内庭の城門の中にある机
城門の内側に八つの机があります(三九節―四三節)。八は復活を示します。その八つの台は四組に分けられ、どの組も二つの机、あるいは二組に分けられ、どの組も四つの机に分けられました。これらの数はその被造物(四)が、復活(八)の中で神に仕え、証し(二)となることを表しています。主イエスは十字架上で死なれた後に、復活の中で永遠の霊を通して、ご自身を神にささげられました(ヘブル人への手紙第九章十四節)。神の民もまた、復活の中で神に仕える必要があります。人の見方、方法、考え、動機、これらすべては死と復活を経過しなければなりません。これらの机の長さ、幅は一キュビト半四方で、二つを合わせると三キュビトとなります。また高さは一キュビトです。三は三一の神を示し、一は唯一で全体的な神を示しています。わたしたちのすべての奉仕は、わたしたちから言うなら、被造物(四)が復活(八)の中で神に仕えることであり、神から言うなら、それは証し(二)であり、唯一(一)で、全体的な三一(三)の神です。

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祭壇
内庭に入ると、最初にあるものは祭壇(図3参照)です。祭壇には四つの部分があります。底の第一番目は、台座です。第二番目は小さい台、第三番目は大きい台、第四番目は上の祭壇です(エゼキエル書第四〇章四七節、第四三章十三節―十七節)。祭壇の最上部は正方形であり(十五節)、力と能力を表徴します。祭壇の角が地の四隅に向かっているのは、キリストの十字架の力が地の四隅まで到達することを表徴しています。

図3:祭壇の詳細(詳細をここをクリック)

祭壇の台座は高さ一キュビトです。その長さと幅はそれぞれ十八キュビトです。聖書の中では、一は神を指しています。なぜなら宇宙の中でただ神だけが唯一の方であるからです。また彼は第一であり、全体です。その唯一の神、全体の神が、祭壇の基礎となっています。十八キュビトには二種類の数え方があります。第一は、三つの六キュビトです。これは人の中の三一の神を示しています。第二は、二つの九キュビトであり、九は三の三倍ですから、三一の神(三)が復活(三)の中で証し(二)となることを示しています。

第二番目の小さい台の高さは二キュビトです。二キュビトは神格の中の第二格、キリストを示しています。最初の台の高さは一キュビトであり、神のことを指して言っています。第二番目の高さは二キュビトであり、キリストのことを指して言っています。このキリストは神の証し(二)でもあります。彼の身分から言っても、また彼の働きから言っても、すべて二です。小さい台の長さと幅はどちらも十六キュビトです。十六は四掛ける四からなっています。四は、被造物を指し、掛けるというのはミングリングを指しています。十六は、キリストが人性においては造られた者であり、造られた者の中へとミングリングされることを言っています。十六はまた二掛ける八から成っています。八は復活であり、二は証しです。十六もまたキリストが神格の中の第二格であり、復活の中での証しであることを示しています。

第三番目の大きな台の高さは四キュビトであり、長さと幅はそれぞれ十四キュビトです。四は被造物を示します。十四もまた二種類の数え方があります。一つは十プラス四です。四は被造物、十は完全を指します。これは、被造物が完全に祭壇で表徴される十字架の中にあることを言っています。もう一つの計算方法は、二掛ける七です。二は証しであり、七は完全を示しています。ですから、十四はすべて(十)の被造物(四)が十字架上で完全な(七)証し(二)であることを示しています。

第四番目の上の祭壇の長さと幅は十二キュビトです。十二は三掛ける四、また六掛ける二、三掛ける四から成ります。これらは三一の神と被造物とのミングリングです。六掛ける二は、被造物の中の人(六)が、証し(二)することを示します。このようにして祭壇が完成することは、十字架が完成されたことを表徴します。十字架の完成には、十二という数字があります。十二は三掛ける四から成っていて、神と人のミングリング、一つの結晶体となることを指しています。これは永遠で完全な数字です。祭壇にやって来ることで、人と神は永遠に、完全にミングリングされます。人は神の中でこそ、永遠で完全な証しを持ちます。

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聖なる宮
聖なる宮の外側の宮は聖所です。その内側の長さは四十キュビト、幅は二十キュビトです(第四一章二節)。二十は十の二倍、四十は二十の二倍、また十の四倍です。これらはみな五が基本の数字となっています。五は四プラス一からなっており、人プラス神、神の恵みを受けて責任を担うことを示しています。また四十は五の八倍であり、八は復活を示しています。ですから神の住まいは人に神がプラスされ、完全に復活の中にあり、完全で、完璧なものです。

内側の宮は、至聖所のことです。その長さは二十キュビトであり、幅も二十キュビト(四節)の二十キュビト四方の正方形です。二十は四の五倍であり、二十キュビト四方の面積は四百キュビトで、四の百倍です。四は被造物を示しています。この四の五倍が四の百倍になることで、神の住まいは実際となります。これは、神が被造物の中で、被造物を彼の住まいとすることです。わたしたち、神の恵みを受けた被造物が、ブレンディングされて一となり、四の百倍である一単位となり、完全に正方形となるとき、神はわたしたちの間で、実際的に住まいを持たれます。

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わき
宮の周りには三つの特別な建物があり、それは脇間と呼ばれます(第四一章五節―十一節)。これらの脇間があることによって、宮は大いに豊かさの表現を得ます。ですから脇間はキリストの豊富を示していて、キリストの豊富が、あふれ出るまでに至ることを示しています。

一 幅、階数、部屋の数
脇間の幅は四キュビトしかありません。それはわたしたち被造物、すなわち召会、キリストの豊満を示しています。脇間は三階建てになっています(六節)。召会の中にいる人は、すべて三一の神の中にいて、また復活の中にいて、三一の神を表現します。この三階建ての脇間には、それぞれの階に三十の部屋があります。敷居の上は、キリストを享受する場所であり、三十の部屋があります。この脇間は、キリストの豊満を表現する場所であり、また三十の部屋があります。ですから神の民はキリストを享受した程度だけ、キリストを豊かに表現することができます。

二 空き地
脇間の外側の周囲には空き地があり、その幅は五キュビト(第九章十一節)です。幅が五キュビトの空き地は、余剰のキリスト、またはキリストの余剰の恵み、余剰の恵みと勝利を示しています。キリストは余剰なる方であり、キリストの恵みも多くの余剰があり、わたしたちは使い尽くすことはできません。空き地の幅もまた五キュビトで、脇間の外壁の厚みと同じであり、恵みを受け、責任を担うことを言っています。この意味は、わたしたちが神の恵みによって責任を担った程度に、余剰の恵みを持つことができることを言っています。わたしたちが五キュビトの責任を担うならば、神はまた別の五キュビトの恵みを与えてくださいます。神は余分にわたしたちに与えてくださいます。

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宮、及びその前後の空間の寸法
一 宮
宮の東西の長さは、百キュビトであり(第四一章 十三節)、南北と両側の空き地を加えると、幅も百キュビトとなります。〔宮の内側の幅は二十キュビト(二節、四節)であり、宮の壁の両側の厚みはそれぞれ六キュビト(五節)であり、合わせると十二キュビトとなります。壁の二つの側の脇間の幅は四キュビト(五節)で、合わせると八キュビトとなります。脇間の外側の両側の壁の厚みはそれぞれ五キュビト(九節)で、合わせると十キュビトとなります。脇間の外側の壁の空き地のそれぞれの幅は五キュビト(九節、十一節)で、合わせると十キュビトになります。これらを合わせると六十キュビトとなります。それに宮の南北両面の空き地を合わせると、各二十キュビト(十節)で、すべて合わせて百キュビトとなります〕。ですから百キュビトの正方形です。これはキリストが百パーセント完全であり、神の住まいに用いられるのに十分であることを表しています。

二 宮の前と宮の後ろ
宮の前と東側の空き地は、内庭です。南北に百キュビト(十四節)、東西に百キュビトある、祭壇を中心とした百キュビトの正方形です(第四〇章四七節)。それはキリストが完全で、全体的であり、神の贖いに用いられるのに十分であることを表しています。宮の後ろの空き地と建物と壁は、東西の長さが百キュビトあります(第四一章十三節)。この宮の後ろの空き地の後ろの建物、そして両側の回廊の南北の長さ(幅)は百キュビトです(十五節)。ですから宮の後ろはまた百キュビトの正方形です。それはキリストが完全な正方形であり、神と人のすべてに用いられるのに十分であり、さらに十分な余剰があることを表しています。キリストの余剰は何と豊かでしょう。

ですから、宮の中は百キュビト、その前は百キュビト、後ろも百キュビトです。神は真に知恵があり、彼の配置は真にすばらしいです! 全部で三つの百キュビトの正方形の地があります。それは三一の神の中に百倍の完全な正方形、百倍の豊かな余剰があることを示します。これが、キリストの完全な正方形であり、キリストの豊かな余剰です。

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宮を取り囲む土地
一 長さと幅
聖所の周囲の土地(第四二章十五節―二〇節)の長さと幅はどちらも五百さおです。それは五百さおの正方形です。一さおは六キュビトですから、五百さおの正方形は、三千キュビトの正方形です。それは実に広大です。言い換えるならば、聖所の場所から四方にそれぞれ千二百五十キュビトあり、それらはすべて聖別されています。外庭の壁、内庭の壁、周囲の二つの壁で隔てられているだけでなく、どの辺も千二百五十キュビトの長い距離があります。神はこの地を完全に分離されています。ここの霊的な意味は、この世から遠く分離することです。

二 周りの壁
土地の周りの壁はそれぞれ三千キュビトの長さがあり、四方向全体で一万二千キュビトです。そこは三千キュビトの正方形の土地であり、キリストを示しています。一万二千キュビトの長さの周囲の壁もまたキリストを示しています。キリストはわたしたちの土地であり、また周囲の壁でもあります。彼はわたしたちとこの世を切り離します。彼がわたしたちに得させるものが多ければ多いほど、広ければ広いほど、わたしたちとこの世の分離はさらに遠く、絶対的なものとなります。この分離があってはじめて、神の住まいは正方形の土地を得ることができます。

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神の民は、召会の寸法に符合していなければならない
神がエゼキエルに与えたビジョンの中で、宮とその構造と寸法は明確に語られています。宮が完備され、完璧で、何の欠けたところもなくなったときに、神は入って来られ、住むことができます。今日もし召会が、わたしたちが真に今まで見てきたこれらのもののようであるなら、神は栄光をもって召会に住むことができます。ですから、神はエゼキエルに言われました、「人の子よ、あなたは、イスラエルの家に対して家の模型を書き記して、彼らが自分たちの罪科のゆえにへりくだらされるようにし、彼らに家の模型を測らせよ。もし、彼らが自分たちの行なったすべてのことのゆえに、へりくだらされるなら、彼らに家の設計、その配置、その出口、その入り口、その全体の設計、すべてのおきて、すなわち、その全体の設計とすべての律法を知らせよ.そしてそれらを彼らの目の前に書き留めて、彼らにその全体の設計とすべてのおきてを守らせ、それらを行なわせよ」(第四三章十節―十一節)。神の宮が一つの尺度となります。神はイスラエルの民の生活と振る舞いを測られます。それは神ご自身の住まいを規範、尺度とされるということです。

今日、聖徒の大部分は道徳の規則や、霊的な原則は考えますが、神の宮、神の家、神の住まい、神の召会がわたしたちの生活と振る舞いの規範であると考える人は大変少ないのです。イスラエルの民の生活と振る舞いは、神の宮と符合している必要があります。エゼキエルの時代、神の民の生活と振る舞いが神の宮に符合していないなら、それは彼らの罪科でした。今日、わたしたちは神の民として、神の住まいを測り、召会の寸法を測り、自分の行ない、人となり、生活、振る舞いが召会の原則に合っているかどうか、召会の建造において合っているかどうかを見る必要があります。神の民の行ない、人となり、生活、振る舞い、これらすべてが神の宮の規則、原則に符合していなければなりません。今日の言葉で言えば、わたしたちの神の御前でのすべての生活と振る舞いが、召会の寸法とぴったりと合っていなければならないということです。わたしたちは召会の中に置かれ、兄弟姉妹との間の組み合わせの中にいなければなりません。そうして召会建造の規則に符合していてこそ、神の今日の要求に応じることができます。

神の民における神の最終の要求が、宮を規範とすることであることを兄弟姉妹が見ることができますように。神の旧約における要求は、律法を規範としていました。新約になったとき、霊が規範となりました。しかし、これらは最後の規範ではありません。最後の規範は召会であり、神の家であり、神の宮です。わたしたちはこれらの点において、自分自身の状況を測り、神の宮の寸法に合っているかどうかを見なければなりません。

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記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第1巻より引用

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