祝福の杯が満ちあふれる

真理

エゼキエル書第三四章において、主は彼ご自身が牧者となり、
自ら彼の民を牧養し、彼らと平安の契約を立て、彼らに祝福を与えられます。
ダビデは詩篇第二三篇で、
「エホバはわたしの牧者であって……わたしの杯は満ちあふれています」と言っています。
聖書が用いる「杯」という語は、「祝福」――杯が満ちあふれるということを指しています。
「杯」の聖書における意味は、「分け前」です。
分け前とはどのようなものでしょうか?
それはちょうど分家したときに得る財産のようなものです。
わたしたちすべての人は、神の御前で分け前があります。
このわたしたちが得る分け前とは何でしょうか?

「エホバはわたしの嗣業の分け前、またわたしの杯の分け前です」(詩篇第十六篇五節)。

「分け前」の原文は嗣業を指しています。それはイスラエル人がカナンの良き地に分け前を得、彼らの嗣業となったのと同じです。この地は、イスラエルの十二部族が得た分け前です。ですから、どの家もこの良き地の一部を分け前として得ました。この地はイスラエル人の必要のすべて――乳、蜜、水、家畜、穀物、鉱物を供給します。詩篇の第十六篇五節で言っている、人の真の嗣業の分け前とはエホバなる神です。地は予表、また表徴にすぎません。なぜ神は人の嗣業の分け前なのでしょうか? わたしたちは創世記第一章とローマ人への手紙第九章をはっきりと見る必要があります。人は神のかたちにしたがって造られました。人がこのように造られたのは神を入れる器となるためです。器に内容物がなければ、それは空です。このように人が神を内容としないなら、それは空しい器となってしまいます。人がもし神を入れないなら、その意味は、人には嗣業がないということです。神の心の願いは、人の内容となり、人の嗣業となることです。

神はわたしたちの嗣業だけでなく、神はわたしたちが享受する杯の分け前です。杯の分け前とは享受できるものです。神はわたしたちの嗣業だけでなく、わたしたちの実際の享受でもあります。神は、命の木をアダムの前に置かれましたが、アダムはそれを受け入れませんでした。ですから彼は神を享受するという分け前を失ったのです。アダムは神の御前で堕落しました。その結果、全世界の人が神を失ったのです。ですから今日、この世に生きている者は、希望もなく、神もない者なのです(エペソ人への手紙第二章十二節)。王や、大統領から、道路清掃者、物乞いに至るまで、「赤貧洗うが如し」、区別はないと言えます。これは人の第一の堕落です。神から堕落し、嗣業から堕落し、神を彼の嗣業として享受することを失いました。

人が堕落した後の、第二歩目は、罪へと身を売ることです。ローマ人への手紙第七章十四節は言います、「わたしは……罪の下に売られているのです」。わたしたちは堕落した罪人であり、神を失い、神がなく、嗣業がない者です。またわたしたちは肢体を罪に売り、罪の奴隷となった者です。

「神の激怒の杯に混ぜ物なしに盛られた神の憤りのぶどう酒を飲む」(啓示録第十四章十節)

わたしたちは、救われていないどの人にも、神の御前で受けるべき分があることを知る必要があります。それは「激怒の杯」です。それはまた、火と硫黄で燃える池の中で受ける永遠の滅びという苦痛です(第二一章八節)。彼らが飲むべき杯は、彼らの分け前である、すなわち激怒の杯、火の池です。しかし救われたわたしたちにとってもまたその杯は激怒の杯でしたが、主がわたしたちのためにそれを飲まれました。人が主イエスを捕らえたその日に、彼は言われました、「父がわたしに与えられた杯を、わたしは飲まないはずがあろうか?」(ヨハネによる福音書第十八章十一節)。主はその杯を飲まれました。神は主イエスに十字架上でわたしたちに代わってその激怒の杯を飲ませ、わたしたちのために神の義の裁きを受けさせ、滅びの苦しみを受けさせました。彼は血を流され、わたしたちを罪から清められました。火の池のその杯は、彼の上にもたらされ、彼は十字架においてわたしたちの代わりにその杯を飲まれました。主イエスは十字架でこの苦しみを受けられました。彼は言われました、「わたしは渇く」(第十九章二八節)。彼はなぜ渇かれたのでしょうか? それは神の激怒の火がそこで彼を焼いたからです。彼が十字架にかけられたとき、彼の心は、ろうのように溶け、精力は陶器の破片のように枯渇しました(詩節篇第二二篇十四節―十五節)。彼は十字架上でわたしたちの代わりに死なれ、わたしたちを罪から、神の裁きから免れさせ、そして永遠の滅びから免れさせます。

「この杯は、わたしの血によって立てられた新しい契約である」(コリント人への第一の手紙第十一章二五節)

わたしたちの罪は、神の御前で罪があり、激怒の子となるだけでなく、わたしたちを神から遠く離れさせ、神と神のすべてを失わせます。今、主イエスは、わたしたちの罪を担われ、わたしたちの代わりに激怒を受けられ、そして彼の血を流されました。彼の血は一面では、わたしたちを罪から清め、わたしたちに罪の赦しを得させ、神の激怒から逃れさせます。もう一面では、わたしたちを取り戻し、わたしたちに神と神のすべてを得させ、わたしたちを堕落した状況から神の御前へともたらし、神の完全で満ちあふれた祝福の中へともたらします。主イエスを信じることで、わたしたちの所有としての神へと戻されます。人が神に対して悔い改めるならば、人の嗣業としての神へと戻されます。

主イエスが、彼の血を用いてわたしたちのために成し遂げた事柄は、単なる通常の祝福以上のものであり、それは新しい契約でした。その契約の中で定められた祝福は変えられることはできません。この新しい契約の中で、神はイエスの血のゆえにわたしたちの罪を赦し、ご自身と彼であるすべて、また彼が持っているすべてをわたしたちに与えなければなりません。ですからわたしたちがパンさき集会でこの杯を飲むとき、彼の血を飲むとは言わないで、彼の杯を飲むと言うのです(二七節)。わたしたちが飲むものは杯であり、葡萄ジュースとは呼びません。なぜなら、これは彼の血を用いて、買い取られ、わたしたちに与えられた祝福の分け前だからです。彼の血はわたしたちのために新しい契約を立て、わたしたちが受けるべき分け前としての杯となったからです。

パウロは、エペソ人への手紙第一章十三節から十四節で言います、「あなたがたは真理の言、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、また彼の中で信じ、彼の中であなたがたはまた約束の聖霊で証印を押されました.この聖霊は、わたしたちの嗣業の担保であって、獲得された所有の民の贖いをもたらし、彼の栄光の賛美となるためです」。救いとは何でしょうか? 救いとはあなたの嗣業へと戻されることです。救いとは、神へと戻されることです。救いとは、神へと戻され、あなたの嗣業としての神を再び享受することです。ですから救いとは神を得ることです。救われるだけでなく、神を得ます。あなたが神を得るなら、すべてを持ちます。あなたが神を得ていないのなら、何も持っていません。あなたが神を得ることが救いを得ることであり、神を持てば、すべてを持ちます。神はあなたの所有です。

「杯も同じようにして、言われました……それを飲むたびに、これを行ない、わたしの記念としなさい」(コリント人への第一の手紙第十一章二五節)。

パンさき集会において、わたしたちは杯を見て、それを受けて飲むとき、主がどのようにしてわたしたちのために肉と血にあずかったか(ヘブル人への手紙第二章十四節)、主がどのようにしてわたしたちに彼の命を得させるために彼の体をささげたか、またどのようにして彼がわたしたちのために彼の血を流されたかを考えるべきです。それは、わたしたちが罪から自由にされて、神と神であるすべて、また彼が持っているすべてを得るという最高の祝福を獲得することができるためです。わたしたちは杯を飲むとき、ぶどうがどのようにして手順を経て、砕かれ、果汁が流れ出るかを考えるべきです。この象徴の意味から、わたしたちは主がどのようにして神によって圧迫されたか、彼がどのようにしてわたしたちのために罪を担い、罪となられたか、彼がどのようにしてわたしたちに代わって裁かれ、のろいとなり、彼の血を流して、わたしたちの分け前としての祝福の杯となられたかを考えるべきです。わたしたちは、どのようにして贖い、罪の赦し、聖別、義認、神への和解、主の血を通して神に受け入れられることを持つかを考えるべきです。わたしたちはどのようにして血がわたしたちを罪から洗い、わたしたちの良心を清め、良心の罪定めを終わらせ、わたしたちが恐れずに大胆に神に近づくことができるかを考慮すべきです。わたしたちはどのようにして血が神の御前でわたしたちの代わりに論じ、わたしたちのために良い言葉を語り、邪悪な霊の攻撃に敵対してわたしたちを擁護し、わたしたちを告訴者サタンに打ち勝たせるかを考えるべきです。わたしたちは、彼の愛、彼の苦難、彼がわたしたちのために血を流すことによって完成されたことだけを考えるべきです。これが、わたしたちが飲む杯が示していることです。

「わたしは救いの杯を取り上げて、エホバの御名を呼び求める」(詩篇第一一六篇十三節)

主イエスは、彼の身代わりの死の過程を通して、神の永遠の贖いを完成し、わたしたちの永遠の救いの源となられました(ヘブル人への手紙第九章十二節第五章九節)。彼の贖いにおいて、彼は、わたしたちに神をわたしたちの分け前として得させます。今日、神はわたしたちの杯の中の分け前です。神と神に属するすべてのものがこの杯の中にあります。わたしたちの救いのために、三一の神は種々の過程を経て、生ける水としての命を与える霊となりました。そしてわたしたちを養い、造り変え、同形化し、栄光化します。神の豊かで、完全な救いとは、わたしたちに与えられた杯であり、わたしたちの分け前です。わたしたちはこの杯を飲み、またこの救いにあずかります。杯は祝福の分け前であり、杯は享受です。わたしたちの祝福の分け前は万有の神であり、宇宙のすべてのものは、わたしたちの分け前です。

兄弟姉妹! 主はすでに彼ご自身をわたしたちに与えてくださいました。おお! あなたがこのことを見るならば、あなたは狂喜します! もしあなたがこれを見たなら、あなたはもうこの世を愛さなくなり、この世が与える杯を飲まなくなり、悪魔が与える杯を飲まなくなります。もしあなたがこれを見たなら、再びこの世の快楽を求めることもなく、この世の味わいを享受することも、悪魔の宴席を食べることもありません。

「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血の交わりではありませんか? わたしたちがさくパン、それはキリストの体の交わりではありませんか?」(コリント人への第一の手紙第十章十六節)

この節は主の血と体を通してわたしたちが主と交わるだけではなく、さらにわたしたちが主の血と体によってすべての聖徒たちと交わることについても語っています。パンは食べ、杯は飲むことができるものです。食卓に置かれたパンと杯は、どちらも享受することができるものです。ですから、これは宴席です。この宴席の中で、わたしたちは個人的に杯を飲み、パンを食べるのではありません。わたしたちはすべての聖徒たちと食べ、飲み、享受します。杯とパンはわたしたちの中へと入り、それらはすべての聖徒たちの中へと入ります。

今日、わたしたちはここで、キリストだけを享受しているのではなく、すべての兄弟姉妹をも享受しているのです。あなたはここで、わたしを享受し、わたしはあなたを享受します。キリストの死と復活によって得られた人たちを、わたしたちはここで享受します。わたしたちとすべての聖徒たちはみな、主が血を注ぎ出すことによって完成した贖いを受け、彼が体をささげることによって分与された命を受けます。主の血と体は、わたしたちがすべての聖徒たちと共に享受する共通の分け前であり、この分け前はわたしたちにすべての聖徒たちとの交わりを持たせます。それはわたしたちがすべての聖徒たちと持っている交わりです。

キリストはわたしたちの命であり、神はわたしたちの祝福の分け前です。キリストご自身とキリストに属するすべてのものは、このパンの中にあります。神と神に属するすべてのものは、この杯の中にあります。わたしたちの命は宇宙のキリストであり、わたしたちの祝福の分け前は万有の神です。宇宙における積極的な面はすべて、わたしたちの分け前です。これが救いの杯であり、満ちあふれた杯です(詩篇第二三篇五節)。神はわたしたちの救いの源です(イザヤ書第十二章二節)。命を与える霊としてのキリストは(コリント人への第一の手紙第十五章四五節)、三一の神の救いの源泉から湧き出てくる救いの泉です。神をわたしたちの救いの道として受け取ることは、救いの泉から水をくむことです。この救いの泉は、わたしたちの杯の中で満ち、そしてついにはあふれ出ます。これが、杯がわたしたちに告げていることです。わたしたちがみな、主が設けられたこの宴席の中で、お互いに交わり、共に享受しますように。そしてわたしたちの賛美があふれ流れ、わたしたちの祝福の杯が満ちあふれますように。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第1巻より引用

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