エゼキエル書には何度も書き記しています:人は「わたしがエホバであることを知る」ようになる。
これは神が人に彼ご自身を啓示することを喜んでおられる、彼の御名を人に知らせたい、
人が彼を知ることを願っているということです。
聖書は一冊の神ご自身を啓示する本です。神は人に彼ご自身を啓示することを喜んでおられます。それゆえに彼の言葉の中で彼の御名を人に知らせます。聖書では、名前はパースンを指しています。神の御名は神が何であられるかを言っています。旧約では、神の御名に関して、原文には二つの言葉がとてもよく使われています。一つはエロヒム、もう一つはエホバです。この二つの言葉からまたある言葉が派生して、神の複合の称号となります。わたしたちはこれらの称号にどのような意味があり、わたしたちとの間にどのような関係が生み出されるかを見てみましょう。
神
聖書において、神が呼ばれている第一の御名は神です。旧約において、神を指す少なくとも三つの異なるヘブル語の言葉があります。それは、「エロヒム」、「エル」、「エロア」であり、日本語ではみな「神」と訳していますが、それぞれに異なる意味があります。これらの御名に修飾語句が加えられるとき、複合の御名が生み出されます。
エロヒム(Elohim)――へブル語では複数形の言葉です。すなわち、それは二つ以上の数を示す複数形の言葉です。創世記第一章一節は言います、「はじめに、神は天と地を創造された」。ここの「神」は「エロヒム」です。しかし、この一節の「神」は複数であるのに、「創造された」は単数形です。これは明らかに、神は複数であるけれども、ひとりであることを示しています。このことから、この言葉は神聖な三一を含み、神は唯一でしかも三一の神であることを含んでいます。
ヘブル語で、「エロヒム」は二つの字から成っています。第一の部分は、強く、力ある者を意味し、第二の部分は、自分自身を誓約で縛ることを意味します。誓いを立てることは、神の信実を啓示します。強く、力あるとは、神の大能を啓示しています。ですから「エロヒム」はひとりの信実で、大能の方です。この文字は最初に創世記第一章一節において用いられており、天と地を創造された神が三一であること、また彼が大能で、信実であることを示しています。大能についての強調は、創造と関係がありますが、信実についての強調は、保護と保持に関係があります。この三一の神は、彼の大能を通して天と地を創造され、彼の信実を通して天と地を保護し、保持しておられます。
エル(El)――エルは単数形の言葉であり、「第一の大能の方」、「首位である大能の方」を意味します。この言葉は、旧約において創世記第十四章で最初に用いられており、それはアブラムが甥のロトを救うために、五人の王を打ち負かした時でした。「その時、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を携えて来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った、『祝福あれ、アブラムよ、いと高き神、天と地の所有者より.あなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神は、ほむべきかな』。……アブラムは……言った、『いと高き神、天と地の所有者であるエホバに、わたしは手を挙げて誓いました』」(十八節―二〇節、二二節――ここの「神」は原文ではエルです)。これは神が宇宙において首位であり、高く、大能の方であることを啓示しています。
エロア(Eloah)――エロアはエロヒムの単数形であり、アラーという言葉に由来します。アラーは、礼拝するを意味します。ですから、神は「礼拝されるべき大能の神」であることを示します。この言葉は、旧約において申命記第三二章で最初に用いられています。「エシュルンは、……自分を造られた神を捨て、……彼らは神ではない悪鬼どもに犠牲をささげた」(十五節、十七節――ここの「神」は原文ではエロア)。この聖書の箇所はイスラエル人が良き地に入る前、モーセが作った一つの歌で、イスラエル人が彼らが礼拝すべき大能の真の神を離れ、悪鬼どもに犠牲をささげることを予言しています。
エル・シャダイ(El Shaddai)――エロアから派生した言葉です。エルは大能者、シャダイは胸あるいは乳房を意味します。エル・シャダイは、神が乳房を持つ大能の方、すべてに十分な大能の方であることを示します。神とのわたしたちの関係は、幼子が母親の胸に寄りかかって、すべての十分な供給を受けるようなものです。この称号は、創世記第十七章一節において最初に用いられています。「アブラムが九十九歳の時、エホバはアブラムに現れて言われた、『わたしはすべてに十分な神である』」。この時アブラムはすでに年老いており、彼の妻も子供を産む能力はすでにありませんでした。しかし神は彼に現れて、彼の妻から一人の男の子を生むことを約束されました。神は彼の民に対してすべてに十分な大能者です。彼は恵みの源であり、彼の神聖な豊富をもって彼が召された人を供給します。彼らに子孫としてのキリストを生ませます。そして神の定められた御旨を完成します。それはまた第二八章三節、第三五章十一節、第四九章二五節において用いられており、みな神が人を祝福し、繁殖するように語っています。
エル・オラム(El Olam)――エル・オラムは「代々にわたって、永遠から永遠まで」という意味があり、「隠されている」、「秘めた」という意味もあります。ですから、この言葉は永遠の命を含んでいます。創世記第二一章三三節で言っています、「アブラハムはベエル・シバに御柳の木を植え、その所でエホバ、永遠の神(原文ではエル・オラム)の御名を呼び求めた」。アブラハムはエホバ、この永遠の大能者の御名を呼び求めることによって、神が永遠に生きており、隠されており、奥義的な方であることを経験しました。彼こそ永遠の命です。ここに加えて、詩篇第九〇篇二節とイザヤ書第四〇章二八節にもこの言葉が使われており、どちらも永遠の神の意味があります。
エホバ(Jehovah)
旧約において最も頻繁に現れる神の御名は、エホバです。このヘブル語が最初に創世記第二章四節で使われていますが、基本的に英語の「to be(ある)」という動詞と同じです。「エホバ」という名は、すなわち「ある」を意味します。宇宙の中で彼だけが「ある」方であり、他のすべては「ありません」。このほかに、この言葉は「自ら永遠に存在し」、「始まりや終わりがなく」、「永遠にそのままであり、決していなくなることがない」、また「永遠に変わることがない」を意味します。出エジプト記第三章十四節から十五節で、神がモーセを遣わしてイスラエル人をエジプトから連れ出した時、モーセに彼の名は「わたしは、『わたしはある』である」と告げました。これが、「エホバ」の意味です。この神聖な称号は、神は存在する方であり、彼はいかなる事物にも依存していないことを示しています。「わたしはある」として、彼はすべてを含む方であり、すべての積極的な事物の実際であり、彼が召され、遣わされた者の必要すべてです。
新約において、主イエスはしばしばご自身を「わたしはある」と呼んでいます。これは、ヨハネによる福音書第八章二四節、二八節、五八節において見ることができます。新約における「わたしはある」は、旧約における「エホバ」です。エホバ、この御名は、神がすべてであることを意味します。エホバというこの御名から、いくつかの複合の御名と一つの短縮形の御名が形成されます。
エホバ・ホシヌ(Jehovah-Hossenu)――「エホバはわたしたちの造り主」を意味します。詩篇第九五篇六節は言います、「来たれ、わたしたちは礼拝し、ひれ伏そう。エホバ・わたしたちの造り主の御前にひざまずこう」。
エホバ・エレ(Jehovah-Jireh)――「エホバは備えられる」あるいは「エホバは必ず見られる」を意味します。創世記第二二章で、アブラハムが神の命令にしたがって、彼のひとり子イサクを神にささげようとした時、神は彼を止めさせ、さらに彼のために一頭の雄羊を代わりの全焼のささげ物として用意されました。これゆえ、十四節にはこう書かれています、「アブラハムはその場所の名を『エホバ・エレ』と呼んだ。それは今日でも、『エホバの山に備えがある』と言われている」。
エホバ・ロペカ(Jehovah-Rapha)――「エホバはあなたをいやす」を意味します。出エジプト記第十五章で、イスラエル人が一つの場所に着いたとき飲む水がありませんでした。なぜならそこの地の水は苦かったからです。彼らがモーセに向かってつぶやいたので、モーセはエホバに叫ぶと、神は彼に一本の木を水の中に投げ入れるように指示し、その水は甘くなりました。神は二六節において彼らに啓示して言われました、「わたしはあなたをいやすエホバだからである」。これはエホバがいやす方であることを指しており、またイスラエル人が病気であり、彼らがいやす方としての神を必要としていることも指しています。
エホバ・ニシ(Jehovah-Nissi)――「エホバはわたしの旗である」という意味です。出エジプト記第十七章十五節において、モーセがイスラエル人を率いてアマレク人と戦い勝利を得た後、エホバのために祭壇を築いて、「その名をエホバ・ニシ」と呼びました。エホバはわたしの旗、エホバはわたしたちが戦い勝利を得る旗であることを意味します。
エホバ・マカデシュケム(Jehovah-Mekaddishkem)――「エホバはあなたを聖別する」を意味します。それは出エジプト記第三一章十三節に使われており、神はイスラエル人に命じて言われました、「あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。……わたしがあなたがたを聖別するエホバであることを、あなたがたが知るためである」。レビ記第二〇章八節においても神は人を聖別するエホバであると言っています。
エホバ・シャローム(Jehovah-Shalom)――「エホバは平安を与える」を意味します。士師記第六章で、神がギデオンに現れ、ギデオンの心は恐れました。しかし神は彼に死ぬことはないと慰めました。そこでギデオンはそこにエホバのために祭壇を築いて、それをエホバ・シャロームと呼びました(二四節)。この称号は、エホバは平安、あるいは平安のエホバです。
エホバ・ラハ(Jehovah-Raah)――「エホバはわたしの牧者である」を意味します。それは、詩篇第二三篇一節において用いられています。「エホバはわたしの牧者であって、わたしには欠けるものがありません」。これもキリストが復活の中でわたしたちの牧者としてわたしたちを牧養し、彼の宮、すなわち召会の中へと連れて行くことを予表しています。
エホバ・ツィドキヌ(Jehovah-Tsidkenu)――「エホバはわたしたちの義」を意味します。エレミヤ書第二三章六節は言います、「彼の日々にユダは救われ、……『エホバわたしたちの義』、これが、彼が呼ばれる彼の名である」。これはイスラエル人が堕落し腐敗して、不公正と不義があり、神の厳しく激しい懲罰を受け、しかもバビロンの攻撃を受けた時、神がエレミヤを通して将来彼の民を復興し、彼の民の義となることを予言したものです。
エホバ・シャンマ(Jehovah-Shammah)――「エホバはそこにおられる」あるいは「エホバのおられるところ」を意味します。エゼキエル書第四八章三五節は言います、「その都の名はその日から『エホバはそこにおられる』となる」。エゼキエル書はイスラエル人が国を失い捕虜となってバビロンに連れて行かれた時に書かれました。その中には神のイスラエル人に対する厳しく激しい裁きがありますが、神はエゼキエルの預言を通して彼らに警告も与え、神が彼の民を、さらに聖なる地と都までも、回復することを約束しています。最終的に、その書の最後に出てくる一つの都は、「エホバ・シャンマ」(原文)と呼ばれます。それは、エホバはそこにおられるを意味します。このことは、神は聖なる地で聖なる宮と都を得たこと、神は宮に住み、彼の民と交わること、また都に住み、彼の民の間で権勢を持たれることを意味しています。これは神がすでに天から下って来て、人と住むことを明らかにしています。今日、宮と都としての召会の中で、神は彼の表現を得て、神と彼の民も互いに享受し、互いに満足します。
エホバ・シャバト(Jehovah-Sabaoth)――「万軍のエホバ」を意味します。この称号は旧約の中で二百八十回以上出てきます。最初に見られるのは、サムエル記上第一章三節で、預言の書の中で最も多く使われています。
ヤ(Jah)――この言葉は「エホバ」の短縮形です。それは、出エジプト記第十五章二節において最初に用いられています。「ヤハはわたしの力」。この節の「ヤハ」は、原文でJah、ヤ、すなわちエホバの短縮形です。この短縮形は詩篇において、それは「ハレル」と組み合わされて、頻繁に用いられる言葉です。ですからわたしたちが良く見るのは「ハレルヤ」で、「エホバを賛美せよ」を意味します。この御名はまたイザヤ書において用いられています。それは、これら三つの書において四十九回用いられています。
旧約で「エロヒム」は二千五百回以上用いられており、「エホバ」は七千回以上用いられています。二つの名前を合わせると、一万回以上になります。創世記第一章において、エロヒムという御名だけがあります。第二章から神と人との関係について語る時、エホバという御名が述べられています。この言葉から派生した御名は、エホバがわたしたちにとってあるものとなりたいことを啓示しています。ここから見ることができるように、神はただエロヒム、信実な大能者で宇宙や万物を創造されただけでなく、彼はまたエホバ・神であり、人と関係を持つために来られました。エホバという名はわたしたちに、神が人の必要とするすべてであることを示しています。それは、主が新約においてご自身を「わたしはある」と呼んでいるのと同様です(ヨハネによる福音書第八章二四節、第十八章六節)。わたしたちの必要とするものは何であれ、彼がそれです。彼はわたしたちが真に必要とするすべてです。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第1巻より引用