復活し昇天したキリストーー使徒の証しの中心点

真理

キリストが復活されたその日、御使いは墓まで主を捜しに来た幾人かの女たちに言いました、「なぜあなたがたは、生ける方を死人の中に捜しているのか? 彼はここにはおられない。復活させられたのだ」(ルカによる福音書第24章5節-6節)。
万物よりも先に存在するキリストは、永遠の中で神です。彼は肉体と成ることを通して、肉体の中にある人と成られました。そして彼は十字架につけられ、死んで葬られ、復活の中へと入られました。あるクリスチャンたちは肉体のキリストと十字架のキリストを知っているだけです。しかしわたしたちは、使徒たちと同じように、キリストの死だけでなく、さらに復活の力、その領域、要素におけるキリストを知っていなければなりません。

使徒行伝が啓示する
復活したキリストの天の務め
使徒行伝は、四福音書と、啓示録を含む書簡の間にあります。ですから、使徒行伝は境界線です。使徒行伝の前に、旧約聖書の継続としての四福音書があります。使徒行伝の後には、結論としての啓示録を伴う書簡があります。使徒行伝は、新約聖書を二つの部分に分ける背骨であると言うことができます。(一)福音書と、(二)啓示録を伴う書簡です。

使徒行伝の内容は、天における主の生活と務めです。復活の後、主イエスは天に昇られました。この昇天は終結ではなく、もう一つの着手でした。この着手は彼を新しい領域へと、すなわち、天へともたらしました。彼は天で今やもう一つの生活ともう一つの務めを持っています。この生活と務めが遂行されるのは、聖霊から処女の胎に入り、ベツレヘムで生まれたイエスによってだけではありません。それは昇天したキリストによって遂行されます。復活し昇天したキリストは、今や天で生きて、そこで務めをしておられます。

弟子たちに現れる
「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きておられることを、多くの確かな証拠によって彼らに示し、四十日にわたって現れ、神の王国についての事柄を語られた」(使徒行伝第一章三節)。

使徒行伝第一章で、主は生けるご自身を弟子たちに見せ、四十日間現れたり消えたりされました。それは目に見えない主の臨在に慣れ、また享受するよう弟子たちを訓練するためでした。主は弟子たちの中にご自身を息として吹き込まれた後(ヨハネによる福音書第二〇章二二節)、彼は決して本質的には彼らを離れませんでした。しかしながら、エコノミー的には彼は現れたり、また消えたりしました。主の霊的臨在は目に見えませんが、それは彼の見える臨在よりさらに真実で重要です。主の見える臨在は空間と時間の要素を含みます。しかし彼の見えない臨在は至る所にあります。このような形のない臨在を通して、この復活したキリストは弟子たちの要素と本質と成りました。彼は内側で本質上弟子たちと一です。彼の臨在は常に彼らの存在の内側にありました。それは彼らの内在的な本質と思考とさえなりました。

この四十日間、主は弟子たちが彼らの新しい存在を知り、主の本質が彼らの本質となったことを知るように訓練されました。主は復活の中で彼らとなったこと、彼が彼らの中に入ったこと、彼が彼らを彼の中にもたらしたことを知るように訓練されました。これは彼が死んで復活される前に啓示されたことです。すなわち、主は父の中におり、弟子たちが主の中におり、主が弟子たちの中にいます(ヨハネによる福音書第十四章二〇節)。最終的に、このような訓練は弟子たちを助けて、彼らが三一の神とミングリングされて、彼らがもはや単なる人ではなく、神聖な人、「イエス・人」でさえあることを認識させます。彼らは三一の神を彼らの内在的な本質として持ち、それが彼らを神聖な存在とならせました。彼らは三一の神と離れないだけでなく、今彼らは手順を経過された三一の神と一の生活を送ることができます。主は彼らが命の中で生活行動することを訓練し、この命の中の人、地上で神聖な人とならせます。

神の王国の拡大
主が福音書の中で王国について語られたとき、弟子たちは彼が教えられたことを理解できませんでした。彼らは神の王国を理解するための霊的な洞察力を持っていなかったのです。なぜなら、主はまだ彼らの中におられなかったからです。しかし、ヨハネによる福音書第二〇章で彼らは、復活されたキリストのすばらしいパースンを、命を与える霊として彼らの中に受け入れました。その結果、使徒行伝第一章での彼らは以前の彼らとは異なっていました。なぜなら命を与える霊としてのキリストは、今や彼らの命とパースンとして彼らの内側におられたからです。彼らは内側に命を与える霊を持っていたので、理解することができました。すなわち神の王国は、命としてのキリストを彼の信者たちの中に拡大したもの、命としてのキリストが信者たちへと増殖して神が彼の命の中で支配する領域を形成したものであることを理解しました。

使徒たちはキリストの天の務めと協力する
「『あなたがたは間もなく、聖霊の中でバプテスマされるからである。……しかし、聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受ける.そしてエルサレムにおいても、ユダヤ全土とサマリアにおいても、また地の果てまでも、わたしの証し人となる』。イエスはこれらの事を言い終えると、彼らが見ている間に引き上げられ、雲が彼らの視界から彼を連れ去った」。(使徒行伝第一章五節八節―九節

復活した後に、主は四十日間の訓練を終えられました。彼は弟子たちから離れることで平安を持っておられました。ですから、彼はご自分が天へと上げられたオリブ山に彼ら全員を連れて行かれたのです(十一節―十二節)。彼の昇天は彼を新しい段階へともたらしました。それは、天で生きておられる復活された人が、この地上で決定された事柄を執行する段階です。この復活した方は、今や天に座して神の行政を執行しておられます(使徒行伝第二章三六節ヘブル人への手紙第十二章二節)。

復活したキリストに強められる
使徒行伝第一章十五節は言います、「そのころ、百二十人ほどの一群れの人たちが集まっていたが、ペテロは兄弟たちの真ん中に立って言った」。主が死なれる前、ペテロはよく愚かなことを言いました(マタイによる福音書第十六章二二節―二三節十七章二四節―二六節二六章三三節―三五節)。しかし主が復活された後、彼は極めて適切で正確な意味をもって旧約の預言を解釈しました(使徒行伝第一章十六節―二〇節)。これもまた、使徒たちがペンテコステの日にエコノミー上の力の霊を受ける前に、復活の日に本質上の命の霊をすでに受けていたことを証明します。

キリストの昇天のビジョンは、弟子たちの彼への、また彼がその死と復活とを通して彼らのために成し遂げられたことへの信仰を強めました。主の死なれる前、弟子たちは霊的な事柄のために祈ることに何の関心もありませんでした(ルカによる福音書第二二章四〇節四五節―四六節)。むしろ彼らは、だれがより偉いと見なされるかについて彼らの間で競い合っていました(二四節)。しかし今や、主の復活と昇天の後、彼らの霊的状態は根本的に変わりました。主の復活と昇天のビジョンは、神の天的エコノミーについての彼らの展望を広げ、そしてその展望は地上における神の新約エコノミーを遂行するためにキリストの天の務めと協力することへと彼らをもたらしました。弟子たちのうち百二十人が十日間一つ思いで祈るということは一つの大きな事でした。彼らがそのような長い時間、一つ思いで祈ることができたのは、彼らが内側に命またパースンとしてキリストを持っていたからです。さらに、彼らはエルサレムにとどまっているガリラヤ人たちでした。そして彼らはイエスに従う者たちを迫害していたユダヤ人によっておびやかされていました。それにもかかわらず、彼らはユダヤ人によっておびやかされることを恐れず、エルサレムにとどまって一つ思いで祈りました。これは、主の復活の日に、彼らがすでに本質的に内住の命の霊を受けており、彼らがすでに本質的に古い存在から新しい存在に転換されていたということを有力に証ししています。

祈りが神に聖霊を注がせる
キリストの復活の後、弟子たちは本質的に神聖な命で満たされましたが、神のエコノミーを実行する資格はまだありませんでした。ですから、復活されたキリストは天へと昇り、神によって高く上げられて、王職、主権、万物を支配する頭首権を与えられたのです。また人の間での彼の務めのためにエコノミー的にその霊で油塗られました。復活と昇天の後、キリストはこの霊を彼のからだの上に注ぎ出して、地上で神の新約エコノミーを遂行するために、再びその霊をエコノミー的に受ける必要がありました。

弟子たちが十日間祈った後、ペンテコステの日が来ました。昇天したキリストはその日、彼らの力、権威また「制服」としてのエコノミー上の霊としてご自身を弟子たちの上に注ぎ出されました。ペテロが立ち上がって語った時、彼はこの天的制服を着ていたので、キリストの復活を有力に証しし、人々はみなこれによって服従させられました。キリストの復活の前、弟子たちは恐れおののき、失望して、ペテロは三度も主を否みました(ルカによる福音書第二二章五四節―六二節)。しかしながら主の復活の後、同じ人たちが積極的に負担を語るように変化しました。ペテロはペンテコステの日に一人で立ち上がって、三千人に向かってメッセージを語りました(使徒行伝第二章十四節―四一節)。もし復活の命と大能を持っていなければ、彼はこのような命の変化を持つことは不可能だったでしょう。他の弟子たちも宗教の幻覚の中にいたのではありません。なぜなら彼らはみなはっきりとした言葉を語り、行ないは正当であったからです。ペテロは復活が何であるか明らかであっただけでなく、彼自身が復活の中にいました。ですから、彼が立ちあがって福音を宣べ伝えたのは、自己によるのではなく、彼を満たした神によりました。ペテロは本来、学問のない漁師でした。しかしペンテコステの日、ペテロは天的な権威をもって、短い語句を用いて簡単な言葉を語りました。その中には多くの知識はありませんでしたが、権能で満ちていました。ペテロは言葉によって復活し昇天したイエスを宣べ伝えただけでなく、彼と弟子たちから、キリストの復活の証しを人に見せました。


記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第5巻より引用