エゼキエル書第36章25節は神が彼の民に内在的な回復を行なわれるその中の一つの点について言っています、「わたしは、清い水をあなたがたの上に振りかけるので、あなたがたは清くなる」。この清い水はキリストが罪人を贖うために流された血を指しており、それは、罪と汚れを清める源泉です(ゼカリヤ書第13章1節)。この血は神の義の要求を満たし、神の法理的な贖いを完成し、神は彼の心の願いにしたがって人において救いを実行されます。
神は世の人を愛された
聖書は、神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛され、彼らが永遠の命を持つようにされたと言います(ヨハネによる福音書第三章十六節)。これは世の人が、彼の中へと信じ、彼を受け入れることによって、永遠の命を得るためであるということです。これが神の永遠の中で持たれた心の願いです。彼は人と一つになり、人を彼と同じようにならせ、彼の種類とならせます。
神の心の願いは、わたしたちの内側のかたちと外側での姿が彼と似ることだけでなく、彼の命と性質において彼と完全に同じにすることです。神に再生された人は、神の命と性質を持ちます。これは真に、神の人に対する愛の心です。
人の堕落は神の義に違犯する
神は人に対してこのように善いみこころを持っていますが、不幸なことに、神が創造した人は神の敵サタンの誘惑を受け、罪を犯して堕落し、神から離れ、サタンに従って罪を犯し、堕落して、神の義に違犯しました。神は世の人を愛して、人を彼の命によって彼と同じようにしようとさえされました。ところが、人は罪を犯して、神の義に違犯したために、神の人に対する愛と、神が人に与えようとした恵みとは、大いに妨げられました。
神の救いは神の義に符合する
神は、彼が人に対する最初のみこころに到達するために、人を救う必要がありました。しかし神の救いは彼の義を顧みないわけにはいきません。人が堕落し罪を犯し、罪の違犯で満ちていたため、救いの問題においては、義などないような状況でした。人の中には、ただ救うだけなら、どんな方法を用いてもよいのではないかという観念があります。すなわち、でたらめに行なっても、救われればそれでよいと考えます。しかし神がわたしたちを救われるのは、このように好きなように行なうことはできません。神の内側は愛で満たされているので、人を救いたいのです。しかし神が人を救うには、神が人に救いを与えるのに、彼ご自身と相応でふさわしく、彼の性質と彼の行ないの方法と衝突せずに救わなければなりません。ですから、聖書は常に神の義に言及するのです。
聖書全体によれば、神の義は神が事を行なわれる方法です。神が行なわれることは何であれ義です。神の義は、彼の御座の土台(詩篇第八九篇十四節)であり、それは最も厳格であり、揺り動かされないものです。神は義ですから、彼ご自身の愛で好きなように人を愛したり、彼の心にある人を救うということはできません。彼が行なうことは、彼ご自身の義、すなわち彼の手続き、道徳、尊厳と威厳にふさわしいものでなければなりません。
神の愛によれば、神は人を彼と同じにしようとされます。ところが、人は罪を犯し、神の義に違犯しました。神の義は厳格です。神が人のために行なわれたいことは何であれ、彼の義の要求に合っていなければなりません。義が要求することは何であれ、律法になります。ですから、聖書は、神が人を創造され、人が堕落した後、一定の期間が過ぎて、神が来て人に律法を与えられたことを見せています。神の律法は彼の義にしたがって書かれ、立てられました。神は義ですから、彼が立てられた律法のすべての項目は義であり、すべては義なる要求です。それゆえに、律法は義の律法となります(ローマ人への手紙第八章四節前半、第九章三一節)。人が罪を犯したので、神の義と律法に違犯しました。ですから神の人に対する救いには、法理的に大きな必要があるのです。神は堕落した罪人が法理上、彼の義、律法の要求の下に贖い戻されてこそ、彼はご自身の心の願いにしたがって、彼の救いを罪人に与えられます。
イエスの死は神の義の要求を満たし、
神の法理的な贖いを完成する
聖書によれば、神の義は、すべての罪がすべて裁かれるべきであると要求します。罪が義の裁きを逃れることの唯一の道は、死ぬことです。ヘブル人への手紙第九章二二節は言います、「血を流すことがなければ、赦しはありません」。なぜなら、神はご自身の愛する御子イエス・キリストを地上に遣わされ、彼は自ら肉体となり、一人の人となられ、人の罪のために神の裁きを受けられ、そして十字架に釘づけられて死なれたからです。イエス・キリストの死は、全人類のための死であり、彼の血は神の義のすべての要求を満たしました。ですから、彼はすでに死なれたので、人は再び自分の罪のために死ぬ必要はありません。イエスの死によって、神の義の要求は満たされ、また神の法理的な贖いは完成されました。
贖いの意味は、もともとあなたの物であったのですが、その物が失われた後に再び買い戻すということです。人はもともと神のものであり、彼の財産でした。しかし、人の堕落によって、失われ、神の義の要求の下へと落ちました。人はこの代価を支払うことができませんでしたが、神が人の代わりに支払われました。イエス・キリストが十字架で死なれ、人のために永遠の贖いを成功されました(ガラテヤ人への手紙第三章十三節、ヘブル人への手紙第九章十二節)。神は代価を払い、このような贖いを完成されました。ですから贖いとは、何か不正で、違法な道を行くのではなく、神の義にしたがい、神の義の裁きを経過したものであり、はっきりとしていて、公平で正しく、変わることのない、信実で、信頼できる救いです。ですから、人の心は恐れることなく大胆に、確信をもって神の御前へと来て、神の恵みを得ることができます。神はまた、神の人への愛の心によって、彼の恵みと命を人に与え、彼の人への初期のみこころを成就します。
五つの方面での神の法理的な贖いの成就
以下は、神の贖いの五つの面の成就の概略であり、一つ一つと概略を述べていきます。
罪の赦し
罪の赦しは、人の贖いの一部分です。それは人が主を信じれば(使徒行伝第十章四三節)受けるものであり、また神が罪の赦し以外の、その他の贖いを行なうことを可能にします。神は人の罪を赦し、神の御前で彼らの罪の案件を消し去るだけでなく、彼らを神の義の刑罰から逃れさせ、彼らの犯した罪を彼らから離れさせ、また神が彼らを赦し、神の記憶の中から彼らの罪を忘れ去らせ、再び思い出すことがないようにさせます(詩篇第一〇三篇十二節、ヘブル人への手紙第八章十二節)。
全宇宙において、ただ神であり、また人の子であるイエスだけが、罪を赦す地位と権威を持っています(ルカによる福音書第五章二一節、二四節)。神の罪の赦しは、主イエスの血によります(ヘブル人への手紙第九章二二節)。イエスは十字架上で、神の義にしたがって、人の代わりに死なれて血を流し、神の義の要求を満たし、神が彼の義にしたがって合法的に人の罪を赦すことができるようにされました。しかし罪人が神の罪の赦しの恵みを受けるには、悔い改め、信じる必要があります(ルカによる福音書第二四章四七節、使徒行伝第十章四三節)。罪人が悔い改め、信じるならば、彼の罪がどれほど大きくても、神は主イエスの尊い血による罪の赦しによってすべて赦されます(マタイによる福音書第十二章三一節)。神のこの罪を赦す恵みは、人に彼を畏れさせ、彼の喜ばれないことを行なわないようにさせ、そしてまた人が神を愛し、彼を喜ばせるようにさせます。
清め
人の罪は、人を神の御前で罪人とし、罪の案件を持たせられるだけでなく、その人自身も汚され、そして汚れを持ちます。ですから人は赦しを必要とするだけでなく、清めも必要とするのです。
わたしたちが救われたときに得た清めには、地位上のものと性質上のものがあります。地位上の清めは、キリストの贖いの血によります(ヘブル人への手紙第九章二二節)。この血はわたしたちが主を信じたときに、わたしたちを清めます。この清めは、わたしたちの外側のものであり、客観的で、神の御前でわたしたちの行ないの面での汚れに重点があります。この血はまた、わたしたちの良心を清め、わたしたちに畏れず大胆に神の御前へと進み出させ、清い良心で神に仕えさせます(十四節)。地位上の清めはまた、バプテスマの洗いも含まれます。バプテスマを通して、わたしたちは悔い改めて信じ、罪の汚れから離れた事実を、わたしたちの周囲の人に宣言します。彼らが見ている中で神に悔い改め、清められた人となります。
性質上の清めは、わたしたちの内側に重点があり、わたしたちの性質上の汚れを取り除きます。わたしたちは性質上の命の清めを得ます。それは主イエス・キリストの名の中で、またその霊の中で、信仰によって、わたしたちを生まれつきの命と性質の汚れから離れさせ、性質上の命の洗い清めを得させます(コリント人への第一の手紙第六章十一節、エゼキエル書第三六章二五節)。神がわたしたちを洗い清めた結果は、わたしたちがかつて罪を犯したことのなかったように、神の御前で雪よりも白くされることです(詩篇第五一篇七節)。
義とされる
義とされるのは、神がご自身の義にしたがって人を義とされ、人を義と宣言されることです。それはすなわち神が彼の義の標準によって人を義とすることです。神の義は絶対に完全であり、最高のものです。ですからだれも自分の良い行ないによって、神の御前で義とされることはできません。
信者が義とされるのは、客観的な面と主観的な面があります。客観的に義とされることは、神の無代価の恵み、キリスト・イエスにある贖いを通して(ローマ人への手紙第三章二四節)、人の信仰によってです。信仰は人を義とする道であり(ガラテヤ人への手紙第二章十六節)、また人の信仰はキリストから来ます。彼は人の信仰の源であり由来です。彼が人の中に入ったとき、人の信仰の要素と力となりました。神はこのような信仰をわたしたちの義と見なされます。信者が神に義とされるとき、すなわち神の義を受け取るとき、キリストご自身を彼らの義として受け取ります。そして彼らは彼と同じように、神の御前で義であり、神に義とされた者です(ローマ人への手紙第三章二二節、二四節)。信者が義とされた証明は、キリストの復活と昇天です(四章二五節)。彼は死から復活し、昇天し、神の右に座られました。彼の罪から贖う死が完全に神によって受け入れられ、神を完全に満足させ、彼の死を通して、神はわたしたちを完全に義とすることができます。
信者が主観的に義とされるのは、神の命により、復活のキリストを通して、主イエス・キリストの御名の中で、またその霊の中でです。復活のキリストはその霊ですから、わたしたちが彼を呼び求めるとき、わたしたちは彼と有機的に結合され、彼を命としてあずかり享受し、わたしたちに彼によって生きさせ、義を生かし出させ、主観的な面で義とされます。
神と和解する
人の堕落により、思いの中で神の敵となり、神の美しさを認識せず、神を恨み、神を軽んじ、また神の敵となってしまいました(ローマ人への手紙第五章十節、コロサイ人への手紙第一章二一節、ローマ人への手紙第一章二八節、三〇節)。ですから人は神に対して徹底的に変えられ、神と和解する必要があります。しかし人は神と和解されようという思いも持っていません。逆に神が人を愛され、人を喜ばれ、人と彼を和解させたいと思われました。そして人のために挽回する方法を作られました。神はキリストの中で、すなわちキリストを通して、彼の死、血を流すことによって贖いを成功させ、和解を成就し、人を神と和解させられます。彼はキリストを通して人と神を和解させるのに行なうべき必要なことをすべて行なうだけでなく、人を神と和解させる務めを人に与え、彼らをキリストの大使とし、神を代行して人が神と和解するように求めることを委託されました。
わたしたちが神と和解させられた結果は、わたしたちが神に対して平和を持ち、わたしたちに神に対する平安の道を歩ませ、またわたしたちに神の中で誇らせ、喜びに沸かせ、享受させます。また、わたしたちは命の中で救われ、罪から、この世から、天然から、個人主義などの消極的な事から分離されます(ローマ人への手紙第五章一節、十節―十一節)。和解させられることは、挽回することを含みます。挽回は、罪を対処しますが、和解は罪を対処するだけではなく、恨み憎しみも対処します。わたしたちはかつて罪人であり、また神の敵でもありました。ですから、わたしたちは挽回され、神と和解させられる必要があります。
聖別
聖別の意味は、普通の、俗的なものから区別され神へともたらされるという意味です(レビ記第十章十節)。聖別はまた、神の性質の光景、有り様でもあります。神の性質の光景、有り様は罪悪が無く、邪悪で汚れたものが無いばかりか、すべてのものと異なり、俗なものとは違っています。神がわたしたちを聖別されたのは、わたしたちを罪から分離するだけでなく、さらにこの世から、世俗的なものから、神に属していないすべてのものから、神のためのものでない事物から分離し、神に帰するためです。そしてわたしたちを神の聖なる状況と合致する者とします。
人が聖別されるには、キリストの中へと信じ込まなければなりません。彼が流された血はわたしたちを買い戻し、わたしたちに聖別の事実を持たせ、彼の中で彼とのさせ、彼と同じように聖とならせます(使徒行伝第二六章十八節、ヘブル人への手紙第十三章十二節)。このような聖別は地位と性質の二つの面に分けることができます。地位上の聖別はキリストが一度限りささげられ、彼ご自身の血を用いてわたしたちを贖われ、わたしたちを永遠に神に帰させ、聖とします。また神の召しによって、わたしたちを世の人の中から召し出し、彼ご自身へと帰させ、聖とします(ヘブル人への手紙第十章十節、コリント人への第一手紙第一章二節)。性質上の聖別は、人を聖別するその方、すなわちキリストを通して、わたしたちは神に再生され、神と同じになり、神性と人性を持ち、神の子たちとなります。性質において彼と同じように聖とされます(ヘブル人への手紙第二章十一節)。わたしたちも、主イエス・キリストの御名の中で、またその霊の中で、彼と結合し、主観的な、性質上の聖別を得ます(コリント人への第二の手紙第六章十一節)。キリストを聖別の命として、聖書を聖別の光として、聖霊を聖別の力として、わたしたちは神の性質にしたがって、神の性質の名を生き、聖別された人となります。
神の法理的な贖いは、罪の赦し、清め、義とすること、和解、聖別などを含み、すべて神の義にしたがって完成されました。ですから、この贖いは信実で信頼することができ、また永遠に効果があります。この法理的な贖いの手続きは、わたしたちに、神の救いの目的である神の有機的な救いを享受させ、また神の有機的な救いを、わたしたちの経験の中で常に維持させます。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第4巻より引用