イスラエルの見張り人―― エゼキエル

真理

神はエゼキエルに言われました、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人に立てた.あなたはわたしの口から言葉を聞いて、彼らにわたしからの警告を与えなければならない」(エゼキエル書第3章17節、第33章7節)。

亡国と捕囚
イスラエルの国は、ダビデ王の時代に統一王国として建国されました。ダビデ王の死後、ソロモンに王位が継承されましたが、ソロモンが晩年、神から離れたことで、ソロモンの死後、イスラエルは南北に分裂しました。北の王国はイスラエル王国と呼ばれ、サマリアを首都とした王国でした。南の王国は、ユダ王国と呼ばれ、エルサレムを首都としました。北の王国の王のほとんどは、神の目に悪事を行ない、紀元前七二一年頃に、アッシリアの王によって滅ぼされました。南のユダ王国には、何人かの良い王がいましたが、最後に、やはり悪事を行ない、神の裁きを受け、紀元前五八六年にバビロンの王によって滅ぼされました。

イスラエルの民が国を亡くしたのは、彼らが常に神を離れ、堕落し、衰退したので、神は諸国民を遣わして彼らを攻撃させ、彼らに対して裁きを執行したからです。彼らが諸国民の攻撃を受けている期間、神は絶え間なく預言者を起こし、神の民に警告し、戒めていました。ユダ王国は末期に、バビロン王の三度の攻撃を受けて滅びました。第一回目の攻撃の時、預言者ダニエルはバビロンへ捕囚にされ、その後に神の保護の下で、神のために語り続けました。第二回目の攻撃の時、エゼキエルがバビロンへと捕囚にされ、捕囚の民の中で神によって起こされ、見張り人とされ、神の民に警告を与えました。またエレミヤはユダ王国の民の中にとどまり、エルサレムが第三回目の攻撃を受けて滅びるまで、神のために預言し、民に警告を与えました。

エゼキエルは神によってイスラエルのために見張り人とされた
エゼキエル書の背景は、イスラエル人の第二回目の捕囚において、神がエゼキエルを神の民の中の見張り人として起こしたことです。神はこの書の中で二回、エゼキエルを神の民の見張り人にしたと言っています。神はエゼキエルに言われました、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人に立てた.あなたはわたしの口から言葉を聞いて、彼らにわたしからの警告を与えなければならない」(エゼキエル書第三章十七節、第三三章七節)。神はエゼキエルに言いました、「人の子よ、あなたの民の子たちに語って言いなさい、わたしが剣を一つの地にもたらすときはいつも、その地の民は彼らの中から一人を取って、自分たちの見張り人に立てる.剣がその地に臨むのを見たなら、彼は角笛を吹いて、民に警告する.だれであれ角笛の音を聞いても、警告を無視するなら、剣が来てその者を取り去るとき、彼の血の責任は彼自身の頭の上にある。……しかし、警告を受け入れていれば、彼は自分の魂を救い出す。しかし、もし見張り人が剣の臨むのを見ても角笛を吹かないために、民が警告を受けないで、ある者に剣が臨んで彼らから取り去るなら、その者は自分の罪科のゆえに取り去られるが、わたしは彼の血の責任を見張り人の手に求める」(第三三章二節―六節)。これらの節はわたしたちに、神の民の中の見張り人は自分勝手に設立し、遣わし、語ったのではなく、すべては神の案配によるということを告げています。彼は自分自身に注意を向け、同時に他の人のことにも注意をしなければなりません。彼は神のビジョンと語りかけを得て、もし私的な情況により、また患難を恐れて、悪人に向かって直接に語らず、悪人が悔い改める機会を得ることなく滅んだなら、神はこの悪人が命を落とした罪で彼(見張り人)を追及されます。見張り人が神の御前で負う責任は、このように非常に大きなものです。

一方で、イスラエル人の衰退により、神は彼らを裁かなければなりません。もう一方で、神は彼の民の中に見張り人を設け、回復の働きをさせます。それは神のために声を発して、神の民に神に戻るように警告を与えるということです。旧約において、エゼキエルは、神の民が衰退し荒れ果てている時に、神によって起こされた見張り人でした。彼は神の民に向かって、彼らが悔い改め、悪の道から離れ神に戻るようにと叫びました。新約において、バプテスマのヨハネもまた、見張り人として角笛を吹き、人が悔い改め(マタイによる福音書第章三章二節)、滅亡する邪悪な者の道から戻り、神の救いを受け入れるように警告する者でした。引き続いて、わたしたちはエゼキエルが捕囚の民の中にあって、どのようにしてイスラエルのために神が設けた見張り人となったのかを見ます。

エゼキエルは命の円熟した祭司である
エゼキエル書の冒頭は、非常に特別なものです。「第三十年の、第四の月、その月の五日に、わたしがケバル川のほとりで捕囚の民の間にいた時のことであるが、天が開き、わたしは神のビジョンを見た。その月の五日に(それはエホヤキン王の捕囚の第五年であった)、エホバの言葉がカルデア人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルに強烈に臨み、エホバの御手がその所で彼の上にあった」(第一章一節―三節)。この短い三節は、エゼキエルが神によって見張り人とされた理由を言っています。
一節で、「第三十年」と言っています。これはエゼキエルの年齢を指しています。当時エゼキエルは三十歳でした。三節は彼が祭司であったことを言っています。祭司とレビ人は三十歳になって、資格づけられて主の奉仕を開始しました(民数記第四章二節―三節、歴代志上第二三章三節)。なぜなら三十歳は円熟を表徴します。これはエゼキエルが円熟していたので、ビジョンを見ることができたことを言っています。これは、わたしたちが、もし天的で、霊的なビジョンを見たいならば、必ず命の円熟が必要であることを示しています。これ以外に、エゼキエルは捕囚され、圧迫を受けて苦しんでいたのですが、彼はやはり神の御前で務めをし、祭司として神に近づき、神と交わり、神の御前で生き、神を仰ぎ望み、神を待ち望み、神に祈りました。このように神と交わり、祈った時に、天が彼に開かれ、彼はビジョンを見ました。このことは、今、わたしたちが置かれている環境はわたしたちを圧迫しているかもしれませんが、わたしたちは神に祈ることを学び、神と親密になり、神と交わり、神の御前で生き、わたしたちが神のビジョンを見ることができるようにと励ますものです。

ケバル川のほとりで流されない
エゼキエル書第一章三節はエゼキエルが「カルデア人の地のケバル川のほとり」にいたと言っています。カルデア人の地とはバベル(創世記第十一章九節)、またはバビロンのことです。ヘブル語のバベルはギリシャ語のバビロンに相当します。バビロンとは、人がサタンに欺かれて、捕らえられ、また神に反逆する場所でもあります。また神の選民の先祖であるアブラハムが元いた場所です。以前、神はバベルから、すなわちカルデアの地から(三一節)、アブラハムを召し出し、神の証しのためカナンの地へと入らせました。しかしエゼキエルの時代では、神の民は再び堕落して、敵は彼らを、以前に先祖が神の召しに応じて離れた地へと捕囚として引いて行きました。

ケバル川はバビロンの川です。それは神の民を破壊する敵の力を示しています。「ケバル」は巨大で、強く、力があるという意味です。これは当初のバビロンの勢力が巨大で、強く、力があったことを示しています。この川はバビロンの勢力、すなわちこの地上で、神の民と敵対する勢力を表しています。今で言えば、この世の潮流を象徴していて、この世の人を、神の民も連れてすべて押し流し、すべての人を運び去ってしまいます。

エゼキエルはケバル川のほとりにいたのであって、ケバル川の中にいたのではありません。これらの捕囚にされた人々が捕囚の地へと着いた時、何の望みもないようでした。しかし神はこの捕囚の地で、彼らを飲み込んだ大水の傍ら、川のほとりに、少しの渇いた地を彼らに残され、彼らが恵みの余剰にあずかれるようにされました。捕囚という環境の中で、エゼキエルは運び流されることなく、なおも祭司として神と親密であり、神に仕えていました。ですから天は彼に開かれ、彼は神のビジョンを見ました。

軽視された子であるが、しかし神によって強められる
エゼキエル書第一章三節はエゼキエルが「ブジの子」であると言っています。ブジは「軽視される」、あるいは「蔑視される」を意味します。エゼキエル書を読むとき、エゼキエルが彼の務めを果たすことで、彼の表現は精彩を欠いたものでした。なぜなら神はエゼキエルを、イスラエルの民に対して、彼らが辱められることのしるしとして定められたからです(第十二章六節、十一節、第二四章二四節、二七節)。ですから彼は辱められた預言者であると言えます。

神の民が捕囚にある時、起き上がって神の言葉の奉仕者となり、彼の祭司として仕える者は、神の民の恥を負わなければなりません。この「エゼキエル」という名の意味は「神は強める」です。ですから、エゼキエルは民の恥を負っていましたが、大能の神に力づけられて、強く、力ある人となり、すべての恥に耐え、神の預言者、すなわち神の出口となりました。

捕囚の地でビジョンを見る
第一章一節で、エゼキエルは、彼がビジョンを見た時の情景について言っています、「天が開き、わたしは神のビジョンを見た」。神の子供たちが「天が開かれ」たのを見るのは、神の特別な訪れです。新約において、主イエスがバプテスマを受けられた時に、天が開かれました(マタイによる福音書第三章十六節)。天が人に開かれるのは大きなことです。もともとサタンに占有された地上の人はみなサタンの破壊を受け、天にいる神が地上に来られないようにします。神がおられる天は、地と地にいる人に開くことができません。イスラエル人はサタンに破壊され、荒れ果てて、捕囚となり、神は神がおられる天を、彼らに開くすべがありません。しかし、彼らの中に一人、神を尋ね求め、神と親密に接触する祭司、エゼキエルがいました。また彼は天と結び付けられていました。ですから、天はこの地上にいる彼に開かれ、神の天が、地上と通じ合い、神の天上での事柄を地上の人々も見ることができ、また地上の人々の間で成就されるようにしました。

今日、地はなおもサタンによって占有されています。地上の人々はなおもサタンの手の中にあります。召会は荒廃の中にあります。神の民の大部分はなおも捕囚の中にあります。ですから、エゼキエルのように、神を追い求め、神と接触し、神の祭司となって神の御前で務めをする人が起こされ、神の天が再び開かれ、地上の人々が天のビジョンを見、天の事柄が地上にいる人において成就される必要があります。わたしたちがみな神を追い求め、神と接触して、天がわたしたちに開かれますように!

エゼキエルは「神のビジョンを見ました」。神のビジョンは神の啓示であり、神聖で、霊的で、天的な事柄を人に見せます。天が開かれたのは、神の天上でのビジョンを人に見せるためです。エゼキエルは四つの生き物と神の栄光の御座を見ました。これは神が天の幕を開かれ、彼に天の幕の内にあることを見せられたということです。ですから彼は負担を持って神から伝えられたこれらのビジョンを他の人に伝達しました。彼が伝達したものは理想や教えや想像のものではなく、霊の中で見た天のビジョンでした。このように霊的に見ることと天的なビジョンは、必ず神の言葉の奉仕者に必要なことであり、またすべての召会とすべての聖徒たちにとっても今、緊急に必要なことです。今日、召会の中で提示されるものが、人の頭で想像されてできた教理ではなく、書物を読んだことから得られる知識でもなく、人が霊の中で見たビジョン、人が神との親密な接触を通して、神が開かれた天において見た、また得た啓示であるべきです。これが、神の民を彼らの捕囚から回復されるようにし、神の荒廃した召会を建造に導きます。

神の言葉と神の御手が臨む
エゼキエル書第一章三節は言っています、「エホバの言葉が……祭司エゼキエルに強烈に臨み」。神は彼のビジョンをエゼキエルに与えただけではありません。神はまた彼の言葉を与えられました。ビジョンは神の啓示であり、わたしたちに何かを見せます。神の言葉は彼の説明であり、わたしたちに何かを聞かせます。神はエゼキエルが目で見ることだけでなく、耳で聞くことを願い(第四〇章四節)、神のビジョンに沿って言葉を与えられました。神は彼の言葉をもって彼のビジョンを説明されました。これらの言葉は、普通のものではなく、明確で、特別なものであり、通常に臨むようなものではなく、「特別に臨んだ」ものでした。エゼキエルに与えられた言葉は、聖書の他のどの書にある言葉とも異なっています。彼に臨んだ言葉は特別で、新鮮で、生き生きしたものでした。

エゼキエル書第一章三節後半は続けて、「エホバの御手がその所で彼(エゼキエル)の上にあった」と言います。神の御手が人の上にあることは、人を導くため、人に行動させるためです(参考‥列王紀上第十八章四六節)。神の言葉がエゼキエルに臨んだだけでなく、神の御手が彼の上にあり、彼を保持し、彼を導き、彼を引き上げ、そして彼は行動を取りました。神の御手は推進し力を与えるだけではなく、導きと管理のためでもあります。わたしたちは、エゼキエル書の第二章から始まり、エゼキエルのすべての行動が、すべて神の御手の中にあることを見ます。彼がどこへ行っても、何を行なっても、すべて神の導き管理する御手によりました。彼自身には自由はありませんでした。ここでわたしたちは、神のために語り、もはや自分自身の自由を持たず、もはや自分自身の便宜にしたがって事を行なうことができない人を見ます。神の御手が彼を導いてある場所へ行かせるなら、彼はそこへ行かなければなりません。神の御手が彼に指図してある事を行なわせるなら、彼はそれを行なわなければなりません。彼の行動は神の御手の導きにしたがっており、神の御手の厳格な指図の下にあります。彼がどこへ行くか、何を行なうかは、彼の選択にしたがっているのではなく、神の導きと指図の下にあり、それにしたがっています。これは神のために語る人に、莫大な代価を払うことを要求します。

神の回復の働きには見張り人が必要である
歴代において、神の民が堕落し失敗し、荒廃した状況の中で、神は一面で裁かれますが、一面でまた回復されます。神の回復の働きで行なわれることは、見張り人を起こして、神の民に警告し、勧め、導き、悪の道から離れさせて正しい道へと戻し、堕落した地から神へと戻します。エゼキエルはイスラエルの民の衰退の中で、神によって見張り人として起こされました。彼は捕囚にされていましたが、流されることなく、祭司として神と親しく接触し、神に仕えることを学んでいました。そして神の恵みと力を得、ビジョンを見、神の言葉を得て、患難を恐れたり、私情に捕らわれたりすることなく、神の民に言葉を語り、戒めをもって、彼らに悔い改めて神に立ち返るように忠告しました。

今日、神は召会の中でも、このような見張り人を必要としています! わたしたちが見張り人となれるように学び、三十歳になり円熟した時、祭司として神に接触し、神がおられる天がわたしたちに開かれ、神のビジョンを見、神の言葉を得、また神の御手がわたしたちにあり、わたしたちを導き、わたしたちを支配し、神の回復の働きを前進させることができますように。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第3巻より引用

 

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