啓示とビジョン

真理

聖書は、神に仕える多くの人たちが、すべて神から啓示を得、ビジョンを見ていたことを記載しています。今日も、多くの人が啓示、あるいはビジョンを見たと言っています。しかしこれらの見たというものは、本当に神から来たものでしょうか? 啓示とビジョンとは結局どういうものなのでしょうか? わたしたちは、これらのことに関して正しく認識し、見る必要があります。

啓示とビジョンとは
わたしたちは、宇宙において神は奥義であり、神が宇宙で行なわれた多くのことは隠されていることを知っています。聖書に記載されている、多くの霊的で神聖で天的な人や物や事は、万物を創造された神の中に隠されていました。エペソ人への手紙第三章五節は言います、「その奥義は、今や彼の聖なる使徒たちと預言者たちに、霊の中で啓示されていますが、別の世代では、そのように人の子たちに知らされていませんでした」。これは、神が彼の奥義に関することを、霊の中で彼の使徒たちと預言者たちに啓示されることを願われたことを説明しています。

「啓」という漢字には開くという意味があります。「示」は人に明らかに見せるということです。ギリシャ語において、「啓示」とはベールを開くという意味です。またそれはベールを取り除き、隠された事柄を見せるということです。「ビジョン」はベールが開かれた後に見える光景、景観です。ビジョンとは珍しい、特別な光景を意味します。啓示とビジョンは、神が宇宙におけるエコノミーと行政を人に啓示し、開き、またこれらの隠された事柄の光景を見せることです。毎回、神が人に対して啓示とビジョンを与える時は、すべて彼のみこころと行動に関係し、人に彼の行動を明らかにし、また人を彼の行動に組み合わせます。ビジョンとは、わたしたちが神から見る光景を言っています。神の御言を通して、神はおおいを開きましたが、わたしたちは御言の中に含まれている光景を見なければなりません。わたしたちが神の啓示を通して見ることは何であれ、ビジョンです。

神に仕えるには啓示とビジョンがなければならない
聖書の中で、神に仕えるすべての人にビジョンがあったことを見ます。例えば旧約において、カインとアベルのこの二人の兄弟が神にささげ物をささげたところを読む時に、多くの人はここを理解できません。なぜ神は弟アベルのものを受け入れ、兄カインのものを受け入れなかったのでしょうか? その理由は、アベルが羊をささげたことは、神の啓示とビジョンから出てきたものであり(創世記第三章二一節)、カインが地から産物をささげたことは、神が啓示したものではなく、彼の自己の思いから行なったことだったからです(第四章三節―五節)。神はどのように行なうべきかをアベルに見せられ、彼はそのように行なったので、神は受け入れられたのです。カインは自分のやりたいようにして、神の意図を全く顧慮しなかったので、神は受け入れることができませんでした。ある使用人が主人の命令もなく、ベッドを外に出すなら、このような人を、どの主人も使いたくありません。

さらに続いてノアの箱船について見ます。ノアはある日一つの夢を見て、目覚めたとき一隻の大きな箱船を造ったのでしょうか? ノアが箱船を造ったのは、神の啓示とビジョンを得たからです。神は彼にどのように造るかを告げられ、彼はそのようにしました(第六章十三節―十六節)。またアブラハムがカルデアのウルから出て来たのは、自分の意志で喜んでそうしたのではなく、神が彼に現れ、彼にその地と家から離れるようにと啓示を与えられたので、彼はそのようにしました(第十二章一節―五節)。

また、モーセがイスラエル人を導いてエジプトを脱出させたのも、彼自身が行なったのではなく、神からの啓示とビジョンに基づいています(出エジプト記第三章一節―十節)。このように、モーセは神の言葉に従って、神の民をエジプトから導き出しました。神が命じられた通りに、モーセは行ないました。モーセはイスラエル人を連れ出して荒野に至らせ、シナイ山へ到着し、彼は神に召されて山へと上り、幕屋の建造の型を受けました。それは彼が自分の聡明さで考えたことではありません。一つの幕屋を考え出し、一つの祭壇を考え出し、一つの契約の箱を考え出し、一つの金の燭台を考え出したのではないのです。彼は神の御前に四十日の間とどまり、神は彼に啓示を与えられました(第二四章十八節)。神は彼に言われました、「わたしがあなたに示すすべてのこと、幕屋の型とそのすべての調度品の型にしたがって、あなたがたはそれを作らなければならない。山であなたに示された型にしたがって、注意して作りなさい」(第二五章九節、四〇節)。モーセは神の啓示とビジョンを見て、彼は山から下りて来てそのようにしたのです。これが啓示をもって仕えることです。モーセの後、ヨシュア、サムエル、イザヤ、エゼキエル、ダニエル、すべての者たちは神の啓示とビジョンを持っていました。啓示とビジョンを持たずに神に仕えることができる預言者は一人もいませんでした。

旧約がこのようであるなら、新約はなおさらそうです。主イエスは三年半の間、弟子たちに、彼が行なおうとしたことを啓示されました。主は十字架につけられ、復活し、その霊となって、弟子たちの中へと息吹き込まれ、そして弟子たちはその霊から啓示とビジョンを受けました(ヨハネによる福音書第二〇章二一節―二二節)。使徒ペテロとパウロはどちらも神から啓示とビジョンを得ました。啓示録を書いたヨハネはさらにそうでした。ですから、もしわたしたちが神に仕えようとするなら、ビジョンと啓示を得なければなりません。

ビジョンと啓示は奉仕の道と命である
ビジョアグリッパ王に言いました、「こういうわけで、アグリッパ王よ、わたしは天のビジョンに背かず」(使徒行伝第二六章十九節)。このビジョンは奉仕の道と関係があります。また啓示は奉仕の命と関係があります。使徒行伝で使徒パウロは)。このビジョンは奉仕の道と関係があります。パウロがもともと歩んだ道は罪を犯す道ではなく、神に仕える道でした。しかしそれは旧約のユダヤ教が神に仕える道でした。天からの光が彼に臨んでから(第二二章六節)、彼はもはや古い道を歩むことができなくなり、古い方法を捨て、彼が神に仕える道がすべて転換したことを知りました。しかし、神に仕える道が転換できても十分ではなく、内側もまた転換しなければなりません。外側の方法が転換できるだけでは十分ではなく、内側の命もまた転換しなければなりません。

多くの人は、パウロがダマスコへの道で遭遇した大いなる光に注意を払い、彼が天からのビジョンに背かなかったことを知っていますが、パウロの内側の命の光には注意しません。ガラテヤ人への手紙第一章でパウロは言っています、「神が……御子をわたしの中に啓示し、異邦人の間に、御子を福音として宣べ伝えるようにされた時」(十六節)。外側の道に、ビジョンが必要なだけでなく、内側の命に、啓示が必要です。すなわち内側でのキリストに対する認識です。外側でその方法を変えても、内側の命が変わらなければ意味がありません。これは中国人がよく言うことであり、「薬を煎じる湯を変えて薬を変えない」ということです。外側が変わっても内側が変わらなければ価値がないのです。外側の道にはビジョンが必要であり、内側の命には啓示が必要です。道は天的であり、命はキリストです。

ある人が、どうしてわたしたち召会は、社会の事に少しも関心がないのかと尋ねました。それは、天からのビジョンが人を天に属するものとするからです。召会は天的であり、地の汚れに染まりません。どのような社会の習慣、どのような世の中の規範であっても、それは地上の人の事であって、召会の事ではないのです。召会は、地上を歩いても地に属さず、地上において天的な道を歩きます。これが召会の道です。召会の命も天的であり、それはキリストご自身です。

神に仕える道はビジョンから来るものであり、神に仕える命は啓示から来るものです。神に仕えることで、宗教の制度、人の見方、社会の方法、自分の考え方はすべて、主の奉仕にもたらしてはなりません。天からのビジョンは、神に仕えるすべての人の地的な方法をすべてやめさせます。これは外側でのことです。

内側ではどうでしょうか? 内側ではキリストを認識しなければなりません。人が宣べ伝える言葉には多くの種類があります。ソクラテスの哲学や、孔子、孟子の学説のようなものもあります。しかしわたしたちが宣べ伝える言葉はキリストご自身です(コリント人への第二の手紙第四章五節)。キリストは言葉です。初めに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は肉体と成りました(ヨハネによる福音書第一章一節十四節)。この言葉は客観的ではなく主観的であり、神がわたしたちの中に啓示されたものです。それは、人が少し頭をひねり、考え、聖書を何回か読めば、理解できるというものではありません。そうではなく、それは神が御子を人の中に啓示され、人が神の御子を知り、神の御子がわたしたちの命であるということを知らなければなりません。これがわたしたちの奉仕の内容です。わたしたちが宣べ伝えた内容は啓示から来たものです。道は天に属するものであり、内容はキリストに属するもの、すなわちキリストご自身です。わたしたちが宣べ伝えるのは死んだ文字ではなく、死んだ教訓や、教理でもなく、それは生けるイエス、生けるキリストです。ビジョンと啓示はわたしたちに、神に仕える道と神に仕える内容を見せます。

間違った観念を整理する
今も昔も、ある人が幻や夢を見て、それを用いて人を教えているということを、わたしたちはみな聞いたことがあるでしょう。自分があたかも神によって起こされた大預言者、あるいは大使徒であるかのように振る舞っています。これらの人は、時には超自然的な力もあるように見え、隠されていることを示すことができたりするので、多くの幼稚な信者を引き付け、彼らを従わせ、自分を大預言者として、自分に聞くようにさせます。しかし事実が証明しますが、彼らの言っていることは、大部分が本当のことではなく、神から来たものでもありません。それは人の思いや推測から出てきたものです。わたしたちは、ビジョンや啓示を見て、好奇心からそれが一種の夢や奇跡的な事柄であると思ってはいけません。もしある人が、奇跡的な事を追い求めて語っても、それらは聖書に符合していません。それはビジョンと啓示に対する間違った認識から出たものです。偽預言者、偽キリストも奇跡的な事を現し出すことができるので、このような人は容易にサタンの欺きと惑わしを受けてしまいます。

どのようにしてビジョンを見るか
どのようにしてビジョンを見るのでしょうか? どのようにして啓示を得るのでしょうか? これは人それぞれに違いがありますが、原則は同じです。ビジョンは神から出たものであり、人によるものではありません。神が人に見せようとするなら、人は見ることができます。神が人に見せようとしないなら、人は見ることができません。しかし各自にはやはり責任があります。

心があることが必要
パウロにおいては、彼はビジョンと啓示を追い求めることがないようであり、神が彼に大いなる光を見せて啓示を与えられたのは突然のようでした。モーセもこのようでした。モーセはホレブの山で羊を飼っていた時、イスラエル人を完全に忘れてしまいました。しかし神が来て、彼にイスラエル人を導かせられました。彼らは追い求めることがなく、突如として神が彼らにビジョンを与えられたかのようです。しかしわたしたちが詳しく研究するなら、モーセもパウロもみな神に対して心があった人であることがわかります。モーセはまだビジョンを見る前に、エジプト人を自分のこぶしで打ち殺して、イスラエル人を救おうとしました。彼は荒野へ逃げて行きましたが、彼の心の願いを神は永遠に覚えておられます。彼の方法は間違っていましたが、彼の心の願いは喜んで受け入れられました。ですから彼が八十歳になった時、神は彼にビジョンを与えられました。神が与えられたビジョンは四十年前のモーセの心の願いに基づいていました。パウロが主の現れを得る以前もそのようでした。彼の仕える道が間違っており、クリスチャンを殺害することが、神に仕えるためだと思っていました。しかし彼の心は神に向いていたので、神はなおも彼を探し求められたのです。

聖書全体の中で、神に対して少しの心もないのに、神が突如としてビジョンを見せるような人は一人もいません。ですからビジョンを見るために、第一の必要は心があることです。

卑しいものを捨てる
第二に、卑しいものを捨て、尊いものを選ばなければなりません。神から出てきたのは、すべて尊いものです。神から出てきたものでないなら、すべて尊いものではありません。今日、神の子たちがいつもビジョンを見ておらず、啓示が得られないのは、卑しいものをとても大切にしているからであり、また彼らの手の中にある少しの宝を大切にしているからです。その少しのものとは財産であり、事業です。ある人は言葉を聞くとき、良いことは耳に入らず、悪いことは全部覚えています。ある人は言葉を聞くとき、スイカの皮を食べていますが、その中心の実を食べていません。ビジョンを見る人は捨てることができる人です。パウロのように彼はユダヤ教のすべて、律法のすべて、旧約のものをすべて捨てました。このような人にビジョンがあるのです。絶えずこの学課を学ぶ必要があります。過去のすべては何であれ捨てる必要があります。イサクはアブラハムが神から得たものですが、アブラハムがもしイサクを捨てないなら、それは卑しいものをつかんで、神を必要としないということです。わたしたちが神以外のものをつかんでいるなら、ビジョンを持つことはできません。わたしたちは神以外のことはすべて卑しいことを知らなければなりません。ただ神だけが尊いのです。この尊いものをつかむ時、光があります。

霊の中で祈り、待つ
第三に、霊の中で祈り、主の御前で待つことを学ばなければなりません。ダニエル書は、ダニエルに優れた霊があったと言います(第六章三節)。彼はどのようなことも神に祈り、神は彼にビジョンを与えました(第二章)。ダニエルが三つの七日間、神の御前で待った後、神の使者が来て将来の事を彼に告げ、ビジョンを与えたことを告げています(第十章)。使徒ヨハネも主日に主に近づいた時、主からのビジョンを見て啓示録を書きました(啓示録第一章十節―十一節)。

心が純粋でなければならない
第四に、心が純粋でなければなりません。マタイによる福音書第五章八節は、「心の純粋な人たちは幸いである.彼らは神を見るからである」と言います。純粋とは、もっぱら神を求め、神以外のものを求めないことです。このほかに、心を主に向けなければなりません。コリント人への第二の手紙第三章十六節は、「彼らの心が主に向く時はいつも、そのおおいは取り除かれます」と言います。心がいったん主に向くなら、おおいは取り除かれます。おおいがいったん取り除かれるなら、わたしたちの顔は主に向かって開かれます(十八節)。主はビジョンと啓示そのものです。わたしたちが主を見ることは、ビジョンを見ることであり、啓示を見ることです。主に向かって開かないなら、ビジョンと啓示を見る方法はありません。わたしたちに内側の光を遮るものがないなら、その時こそ、主はわたしたちに見せてくださいます。

しかし同じ時代でも、すべて神に仕える人がみな直接ビジョンを見るのではないのです。パウロはビジョンを見ましたが、聖書は、テモテがビジョンを見たとは言っていません。パウロはテモテに言いました、「しかし、あなたは学んで確信している事柄の中にとどまっていなさい.あなたはそれをだれから学んだか知っており、また幼い時から聖なる書に親しんできたことを、知っているからです.この聖なる書は……救いへと至る知恵を得させることができるのです」(テモテへの第二の手紙第三章十四節―十五節)。この意味は、テモテが得たビジョンはパウロから学んだものであったということです。これは、わたしたちが同時に神に仕えても、必ずしも同時に直接ビジョンを見るとは限らないことを言っています。しかしどのようであっても、わたしたちはビジョンを持ち、ビジョンにしたがって仕えなければなりません。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第3巻より引用

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