神はどのように わたしたちに語られるのか?  

真理

聖書がわたしたちに見せていることがあります。
それは、イスラエル人がエジプトから、また奴隷であった地位から脱出し、
神の権威の下へと来て、神の御名の下へと戻され、神の支配を受け、神の王国になった時に、
神は啓示する方法を変えたということです。
以前、神は個別に人に語られました。
今、神は祭司の体系、また胸当てを通して、一つの国に対して語られます。

アダムが堕落した後に、神の働きは創造された種族から、選びの種族へと移行しました。神が地上で選ばれたのは、まず一人の人でした。後に、一人の人から一つの家となり、一つの家から一つの国となりました。この一人の人とはアブラハムであり、一つの家とはヤコブの家であり、この一つの国とはイスラエルの国です。アブラハムの子孫―イスラエル人―が神の王国となる時に、聖書はわたしたちに、神は一つの特定の方法で、彼の民に啓示し、語られることを見せます。イスラエル人が解決できない問題に出会った時に、大祭司がエポデを着て、胸当てを着け、神の御前に出て神の啓示、神の語りかけを求めます。ですから、この胸当ては裁き(決断)の胸当てとも呼ばれます。人はこれにより問題を解決することができます。

裁き(決断)の胸当て
胸当ては、大祭司が着るエポデの上に置かれます。その胸当ては四角で、二重にし、それに十二の宝石がはめ込まれました。それぞれの宝石にはイスラエルの十二部族の名が刻まれていました。さらに二つの石がエポデの肩ひもにも付けられ、そこにも同じようにイスラエルの十二部族の名が刻まれていました。イスラエルの十二部族の名は、イスラエルの民全体を代表しました。すなわち、それらは神の民を代表しました。大祭司は神の御前に出る時、単独で入ったのではありません。彼は十二部族を肩に担い、胸に抱いて入りました。これは、主イエスがわたしたちを肩に担い、胸に抱いておられることを予表しています。大祭司は幕屋の中に入って神に奉仕する時、エポデを着けなければなりませんでした。彼はすべてのイスラエル人を肩に担い、彼らのすべてを胸に抱いて、神に近づかなければなりませんでした。

胸当ては、裁き(決断)の胸当てと呼ばれました。これは大祭司が神の民のために神の導きを尋ね求める手段でした。イスラエル人の間に問題が起こるたびに、彼らはこの問題を、胸当てを通して神の御前へともたらしました。この胸当てを通して、主のみこころが明らかにされました。これはとても意味があり、深い事柄です。イスラエル人の行動、振る舞いは、決して彼らの意見や判断によるのではなく、神の思いと決断によるべきでした。では、彼らはどのようにして神の決断を明らかにすることができたのでしょうか?ただ胸当てを通して、神が彼らの行動に対し、どのようなみこころを持っておられるのかを知ることができました。それは、彼らは胸当てを通して決断を得た後に、彼らは行動したということです。

民数記の記載によれば、モーセが年老いてこの世を去る前に、神に、彼に代わって会衆を治める一人の人を立てるよう求めました(二七章十六節)。神は答えられました、「その霊が内側にある人、ヌンの子ヨシュアを連れて来て……彼は祭司エレアザルの前に立ち、エレアザルは彼のために、エホバの御前でウリムの判断によって尋ねなければならない」(民数記二七章十八節、二一節)。裁き(決断)の胸当てには、また別なもの、ウリムとトンミムがありました。「ウリム」はヘブル語で「光、照明物」を意味し、「トンミム」はヘブル語で「成就する者、完成する者」を意味します。この二つの言葉の意味、光と完成する者は、キリストが照明物であり、また成就し、完成する者であることを予表しています。これはとても意義深いことです。胸当ての材料は、光る宝石であるかも知れませんが、それらは光ではありません。それらには光が当てられる必要がありました。そうして光ることができました。また胸当て自体も完全なものではありませんでした。ウリムとトンミムの二つがなければ、胸当てには光がなく、また完全なものではありませんでした。胸当ては、この二つのものによって補われる必要がありました。

トンミムは四つのヘブル文字を入れた石でした。十二部族の十二の名前は十八文字から成っています。ヘブル語のアルファベットは二十二文字ですから、胸当ての上には四文字が欠けています。そのため足りない四つの文字がトンミムに彫り込まれていて、アルファベットを完成するように胸当てに挿入されています。完全という意味はここから来ています。この石がなければヘブル語の文字は完全ではありません。

ウリムは一種の照らす物です。それは胸当ての十二の宝石の下に入れられました。ウリムには燃やすための油が入れられました。この油を燃やす火は祭壇から来ました。ウリムには十二の照らす物があり、それぞれは胸当ての上の十二の宝石の一つを照らし、そうして後に透明な宝石は光り輝きました。大祭司が胸当てを着け神の御前に出て、尋ね求める時に、あるいは困難な問題を決断する時に、その必要な時に至ると、ある文字が順番に暗くなります。大祭司は、これらの暗くなったアルファベットを覚え、最後に文章とし、神のみこころを表明します。

このことは、神の民が個人から団体に転換する時、神は彼の民に対して、裁き(決断)の胸当てを通して語られるということをわたしたちに見せます。大祭司が裁きの胸当てを着けて神の御前に出て、神の光で照らされる時、神のみこころが完全に表し出されます。

新約の書簡の中の胸当て
神が働かれる原則は、新約と旧約とも同じです。旧約のものは影ですが、新約のものは実際です。これらの実際の事柄は原則においては旧約も同じです。神の民であるイスラエルに対する神の啓示の方法は、神の子供たちである召会に対する神の啓示の方法と同じ原則によります。神の子供たちの何人かが、主の御前でへりくだって彼を畏れるとき、また彼らが神の子供たちの間で問題を見いだすとき、あるいは彼らの間で神の言葉が明らかでないとき、彼らはどのようにすべきでしょうか? 彼らは神の子供たちを胸に抱き、肩に担って、神の御前で尋ね求めることを学ばなければなりません。

パウロは神の信者たちを肩に担い、神の諸召会を心に抱いていた人でした(コリント人への第二の手紙十一章二八節―二九節)。彼が神の御前に裁きの胸当てを着けて出たとき、神の光は輝きました。

新約時代の使徒たちが書いた手紙もまたこの方法で書かれました。例えば、コリントの召会へ書かれた手紙は、使徒パウロが、彼の心にあるすべての聖徒を胸当てとして書いたものです。彼は、このようにすべての聖徒が彼の心の上へと組み込まれるまでに、キリストのからだに関心を持っていました。彼は、光と完成する者としてのキリストを持ち、また彼は神の御前にとどまり、新鮮な啓示、新しい光を受けました。この光の中で、コリントの聖徒たちの一人一人を考慮し、すべての兄弟姉妹をアルファベットとして読み取りました。これが、彼が材料を得て、この二つの手紙を書いた方法でした。

パウロは神の子供たちの状況を何も知らず、神の子供たちの問題に関心がなく、ただ、自分自身を何か、隠者のようにして、一つの部屋に閉じこもり、祈って、祈って、光が来たということではありません。パウロはこのようではありませんでした。彼が肩に担い、胸に抱いていたのは、神の諸召会であり、神の子供たちでした。パウロは畏れる心をもって神に近づいたので、光の御父は彼を照らし、彼が肩に担い、胸に抱いていた諸召会の必要を明らかにされたのです。ですから、コリント人へのパウロの手紙は、コリントに在る召会に必要なものでした。またエペソに在る召会に対するパウロの手紙も、エペソに在る召会に必要なものでした。大祭司が裁きの胸当てをもって神の光を求めたように、パウロは同じ原則にしたがって、諸召会に手紙を書きました。神の諸召会の諸事は、パウロの肩と心の上にありました。パウロは神の諸召会の諸事に無関心ではなく、冷淡に祈ったのでもありません。パウロは、何気なく数句の祈りをし、特定の場所の召会に手紙を書き、また何気なく別の召会のために祈って、手紙を書いたのではありません。そうではありません。どの聖徒もこのようであってはなりません。わたしたちは、主の聖徒たちを神の臨在の中にもたらす原則を理解しなければなりません。パウロは多くの日々、主を仰ぎ、神の子供たちを神の御前にもたらしました。ある日、パウロは神の光の中で何かを見たので、その光に基づいて手紙を書きました。別の日に彼は、別のものを神の光の中で見たので、その光に基づいてもう一通の手紙を書きました。

神の召会の中での語りかけ
今日、神の民の中での神のみこころと、神の召会に対する神の道を理解するためには、だれかが神の子供たちを肩に担い、胸に抱いて、彼らを神の臨在の中にもたらし、神の光の中で、兄弟姉妹の状態を読み、主の御前で受けたことを書き留めなければなりません。これが、神が召会の中でご自身を神の子供たちに啓示される方法です。神の民が一つの団体になった時に、神の啓示の方法が変わるということを覚えていなければなりません。このとき、神は民を通して啓示されます。神のみこころは、彼ご自身を彼の子供たちの中へと造り込むことです。ですから、神の語りかけは、神の民の中での応答なのです。神は、ご自身の心の願いをすでに兄弟姉妹の中に置かれました。わたしたちが集会の中でメッセージを聞くときはいつでも、それは神の子供たちの現在の必要であり、また神の子供たちの間での神の必要でもあります。神はご自身の子供たちを通して、ご自身を啓示されます。

この事の意義は、わたしたちにとっては、非常に深く、また非常に説明が難しいことです。もしわたしたちが、神の判断、神のみこころを知りたいと思うなら、まずわたしたちは神の民たちと建造される必要があります。もし、この建造がなければ、わたしたちには胸当てがないということです。それから、キリストが光として、また完成する者として加えられ、神の御前に進み出ます。神の御前で、わたしたちは新鮮な光によってアルファベットを読み取り、神の思いを理解します。

わたしたちが主の御前にいる時、光が何人かの聖徒たちを照らし、彼らは神の決断のアルファベットとなります。わたしたちが聖徒たちを読めば読むほど、神の召会の中での、あるいは聖徒たちにおける神の思いが明らかにされます。召会生活に不適正なものはすべて、はっきりと捨て去る必要があります。わたしたちが主の御前にいて、光がある人たちと、わたしたちと共に建造される兄弟たちを照らし始めます。わたしたちは自分に問いかけて言います、「あの兄弟はこの件に関してどのような考えを持っているだろうか?」。光は、また別の兄弟を照らします。また一人の姉妹を照らし、もう一人の兄弟を照らします。わたしたちが、兄弟姉妹を読み取れば読み取るほど、主の心が明らかになります。からだがアーメンと言わない時、わたしたちは、わたしたちの考えていることが主から出ていないということを知ります。

このように、召会は数人の人が事を決定するのではありません。また挙手して多数決で決定するのでもありません。それは、神を畏れる一団の人たちが、神の民を心に抱いて神の御前へと出て、神が彼らを照らし、啓示を得させてくださるように求めることを通して決定される必要があります。これが、神が召会の中で、神の子供たちを導かれる方法です。わたしたちがこの原則に従わずに決定した事は、十中八九は間違っています。多くの時、神のしもべたちが見たその光や真理は、兄弟姉妹を通して見たものです。多くの時、神のしもべたちが受けた啓示は、自分と交わりを持つ人を通してのものです。多くの時、わたしたちは兄弟姉妹が周囲にいる時に神の言葉を受けます。兄弟姉妹が周囲にいないときに、神の言葉はありません。一人の最も幼い兄弟や、幼い姉妹においても、神はやはり彼らの中にいて、神の子供たちの中での神のみこころを明らかにしたり、また隠したりすることで影響を与えます。ですから、すべての兄弟姉妹は、一挙一動、一語一句において、胸当ての裁き(決断)を受けることを学ばなければなりません。もし召会の中の兄弟姉妹がみなこのようであれば、そこは神が最も語ることができる場所となるでしょう。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第2巻より引用

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