至聖所――予表、原則、拡大

真理

至聖所が幕屋の最も内側の部分であるように、わたしたちの霊は人の中で最も内側の部分です。
わたしたちの霊は至聖所です。その霊となったキリストが住まわれる場所です。
出エジプト記の中には、神が彼の住まいを建造する青写真があります。
そして新約の使徒たちが、わたしたちにその内在的意義を示しました。

至聖所は再生された人の霊である
わたしたちは、出エジプト記の中の絵図を詳細に見てみましょう。外側から幕屋の三部分を見ると、外庭と聖所と至聖所があります。これは人の三部分の体、魂、霊に対応しています。これはまた、イスラエル人がエジプトを出て、荒野を経過し、カナンの良き地に到達するという行程にも符号しています。

実際には、これら三つの場所、すなわちエジプト、荒野、カナンの地は、わたしたちのキリストの経験の三つの段階を表しています。第一段階のエジプトで、わたしたちは贖う方としてのキリストを享受します。第二段階の荒野で、わたしたちは日々の食物の供給としてのキリストを享受します。そして第三の最後の段階のカナンで、わたしたちは、多くの項目すべてを含む方としてのキリストを享受します。わたしたちは、すべてを含む良き地としてのキリストを享受します。

幕屋の外庭は、すべてのイスラエル人が見ることができ、みなが入ることができる場所です。すべてのささげ物が、そこで神へとささげられます。人の体は外庭のようであり、それは人が見ることのできる命です。人はこの体の中で、神の命じられたことを行ないます。さらに進んで入ると、聖所があります。ここには、ただ祭司しか入ることができません。犠牲の血と、陳列されるパンと、ともし火をともす油と、香壇で燃やす香を神にささげます。これは人の魂に相当します。すなわち、人の内側の命であり、人の思い、意志、感情などを含み、光で満ちています。ちょうど祭司が出入りして、神に仕えているのと同じように、とてもはっきりとしたものです。聖所へ入ると、神に近づいてはいますが、最も近いというわけではありません。なぜなら、まだ垂れ幕の外側にいて、神の御前へと行ったのではないからです。

神の臨在と栄光は外庭にはありませんし、聖所の中にさえもありません。神の臨在と栄光は至聖所の中にあります。神の具体的表現であるキリストの予表としての契約の箱は、至聖所の中にあります。これが示しているのは、神の臨在と神の栄光は、わたしたちの霊の中にあり、わたしたちの霊は、良き地と至聖所の両方の実際であるということです。キリストを全き方法で享受し、キリストの中で安息を得るために、わたしたちは良き地に入らなければなりません。すなわち、わたしたちは外庭から聖所へと前進し、次に聖所を通過して至聖所の中に入らなければなりません。これが、魂を通過して霊の中に入るということです。

神は至聖所に住まわれます。大祭司だけが一年に一度、至聖所へと入る以外は、誰も入ることができませんでした。この垂れ幕の後ろにある至聖所、高き方の隠れ場、神の住まいとは、すなわち人の霊です。

祭司の働きは至聖所での啓示に基づく
神は至聖所の中におられます。ですから神の住まいで最も聖別された場所は至聖所です。聖所と外庭のすべての行動と、仕え、服し、頼るものは至聖所によります。大祭司の行なうすべてのことは、その前にある聖所にあり、至聖所へと入ったとしても何も行なうことがないかのようです。外庭での働きも聖所の祭司が管理しています。しかし、神の民の中で見られるすべての活動はすべて、大祭司が至聖所の中で、胸当てと、ウリムとトンミムによって神の導きを受けることによります。これはまた神の創造された秩序‥(一)霊、(二)魂、(三)体でもあります。また次のようにも言います。体は魂の支配を受けます。魂には多くの思い、感情、意志の活動や働きがあり、すべては霊の支配を受けています。また人が堕落した後に、この順序は乱されました。今日、わたしたちは再生された者であり、この秩序を回復すべきです。

ここの霊的な意義は、それほど難解なものではありません。わたしたちの霊は、至聖所が幕屋の中の最も内側の部分であるように、わたしたちの最も深い部分です。幕屋の外側には外庭があります。内側には幕屋があり、その最も内側には至聖所があります。同様に、わたしたち人の中の最も内側の部分は、わたしたちの霊です。わたしたちの霊は至聖所であり、その霊となったキリストの住まいです(テモテへの第二の手紙四章二十二節)。わたしたちのすべての活動と働きは、わたしたちの霊から始められたものであるべきです。

至聖所の原則
旧約の時代には物質の至聖所があり、すべてが明らかでした。今日、わたしたちが神の住まいとなることは、奥義の啓示です。わたしたちの祭壇はどこにあるのでしょうか? わたしたちの燭台はどこにあるのでしょうか? わたしたちの契約の箱はどこにあるのでしょうか? 主に感謝します。新約の啓示を通して、この奥義はわたしたちに実際となりました。

「兄弟たちよ、わたしたちはイエスの血によって、大胆に至聖所へ入ります」(ヘブル人への手紙十章十九節)
至聖所の原則は人が神の御前で生きることができるということです。旧約の記載によると、大祭司だけが至聖所へと入ることができました。しかしヘブル人への手紙の啓示によれば、キリストの贖いの血が、彼を信じた者に対して至聖所を開きました(十章十九節―二二節)。すべての贖われた人は、神の御前へと来ることができます。またそこにとどまり、神と一である交わりを享受します。

使徒行伝の中で、わたしたちは、祭司の体系の奉仕の完全な記録を見ることができます。主が昇天された後の最初の十日間は、エルサレムのその部屋は真に至聖所でした(一章十二節―十四節)。弟子たちは主の御前で生きていました。決まりから言えば、彼らは祭司ではありませんでした。しかし霊的に言えば、彼らは真の祭司でした。彼らは、時間や、命や、すべてを主の御前で費やしていました。ペンテコステの日が来た時に、彼らは主と一となりました。

「その方の中で、あなたがたもまた共に建造されて、霊の中にある神の住まいへと至るのです」(エペソ人への手紙二章二二節)
主イエスが肉体と成られた時に、彼は人の間に幕屋を張られました(ヨハネによる福音書一章十四節)。幕屋はおもに人が住むためではなく、神の住まいのためでした。今日、キリストご自身はその霊です。その霊はまたわたしたちの霊の中におられます(ローマ人への手紙八章十六節)。ですから、神の霊はわたしたちの中に住まわれ、わたしたちの霊は神の住まいとなりました。

至聖所のもう一つの原則とは、霊の中にあります。わたしたちは、パウロがコリントに在る召会に宛てた二つの手紙の中で、パウロと彼の同労者はこのような人たちであったことを見ることができます。彼らは、キリストを経験することにおいて、最も深い者たちでした。これらの経験は、エジプトにおいてではなく、また荒野においてでもなく、カナンの良き地におけるものです。彼らは、すでに良き地へと入り、霊の中で生活し、毎時毎秒、キリストを経験します。これらの経験は、肉体の中ではなく、魂の中でもなく、霊の中のものです。

パウロは肉体に属する知恵を用いたのではなく、霊的な知恵を用いました。それは神ご自身です。これらの経験は、霊の中、至聖所の中のものです。霊の中にいることは信仰による必要があります。これは目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものです(コリント人への第一の手紙二章九節)。

わたしたちが至聖所に、霊の中にいればいるほど簡単になり、単純になれるということを、わたしたちはパウロから見ることができます。わたしたちは、動機において単純であり、目標においても単純であり、すべての願いも単純である必要があります。また自己に信頼せず、神に信頼すべきです。

わたしたちの会話、人となり、この世での生活、すべてにおいて、肉的な知恵によらず、神の恵みによる必要があります(コリント人への第二の手紙一章十二節)。このことは、わたしたちがすべての行ないをやめ、今、神にわたしたちの中で働いていただき、わたしたちの霊から、魂と体に至るまで、わたしたちの全存在が神の働きの下に置かれる必要があることを言っています。このような人が常に至聖所において生きている人です。もしわたしたちが思いの中にいて、召会生活の実行が、はたして正しいかどうかと思っているなら、聖徒たちとの分裂を生み出し、荒野、霊の外にいるでしょう。わたしたちが霊の中にいればいるほど、主の臨在の中にいて、至聖所の中にいて、また聖徒たちと共に、さらに建造されます。

神の住まいの建造のために至聖所を経験する
契約の箱は至聖所の中で唯一の内容です(出エジプト記四〇章三節、二〇節ー二一節)。この意味は、神の臨在のある至聖所で、すべてを含む具体的表現としての、神のキリストを除いては何もないということです。至聖所での経験というのは、何か別なものではなく、このキリストを経験することです。わたしたちは、キリストを食物、光、かおり高い香として、聖所で経験します。しかし至聖所では、キリストは証しの箱であり、さらに深く豊かなキリストです。わたしたちはそのキリストを経験します。

契約の箱は、キリストを予表します。わたしたちは、幕屋の至聖所へと入り、そこでの契約の箱の経験を必要とします。その経験が、わたしたちをどの面も金で覆われている、適正な枠板とします。ただ契約の箱の板だけが両面とも金で覆われています。聖所の中の臨在[備え]のパンの机は、ただ片面だけが金で覆われていました。ですから聖所の中では、覆う働きはまだ完成していません。わたしたちは、契約の箱の経験へと前進し、神の建造のために適正になるために、神聖な金で内側も外側も覆われ、完全にされる必要があります。

幕屋自体の板は、わたしたちの契約の箱の経験を通して生み出されたものです。ですから、幕屋と契約の箱の板は、完全に金で覆われていました。このようにわたしたちは、神の建造のために、正しくて適合した材料となります。至聖所の中でのみ、わたしたちは成就され、神の建造に用いられるものとなることができます。

使徒パウロは言います、「わたしは賢い建築家のように……あなたがたは神の宮であって、神の霊があなたがたの中に住んでおられることを、知らないのですか? ……神のその宮は聖なるものであり、あなたがたはそのようなものであるからです」(コリント人への第一の手紙三章十節十六節―十七節)。また使徒ペテロも言っています、「……あなたがた自身も生ける石として、霊の家に建造されていきながら、聖なる祭司の体系となって」(ペテロへの第一の手紙二章四節―五節)。これは新約の使徒たちが、モーセが受けたのと同じビジョンを受けたことを見せています。それは、神が欲しておられるのは、彼の住まいとしての召会を建造することであるというビジョンです。今日の召会生活は至聖所であり、贖われ、再生し、更新し、造り変えられた聖徒たちの生きた構成であり、彼らが神の建造の尊い材料となり、霊の中にある神の住まいとなるべきです。

使徒ヨハネは、霊の中で神の建造の究極的な完成―新エルサレム―のビジョンを見ました。「わたしはまた聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように整えられて、天から出て神から下って来るのを見た。そして、御座から大きな声がこう言うのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にある.……神自ら彼らと共にいて、……それは神の栄光を持っていた。……都は正方形であり、その長さと幅は同じである。……一万二千スタディアであり、その長さと幅と高さとはみな等しい。……わたしはその中に宮を見なかった.主なる神、全能者と小羊が、その宮だからである。都の中では、太陽も月も輝く必要がない.神の栄光がそれを照らし、小羊がそのともし火だからである。諸国民はその光によって歩き、地の王たちは彼らの栄光をそこに携えて来る。……俗なもの、また忌むべきことと偽りを行なう者は、決してそこに入ることはない.……」(啓示録二一章二節―三節十一節十六節二二節―二四節二七節)。

啓示録のこの段落の言葉は、完全に旧約の幕屋の成就です。罪悪、肉、この世などの消極的な事、物は、すべて幕屋の外にあります。またその都―新エルサレム―の長さと幅は同じであるということなどは、新エルサレム全体が至聖所であるということです。

旧約の中では、神の幕屋は宮の前身です。宮は幕屋の拡大です。これは寸法から説明することができます。幕屋の中の至聖所の長さ、その高さ、幅は十キュビトの立方体です。宮の中の至聖所の長さと幅は、二十キュビトの立方体です。また新エルサレムは神の幕屋(啓示録二一章三節)、神の宮です。

神の宮となるということは、新天新地の中では、神の宮が拡大して都となることが必要であることを示しています。新エルサレムの寸法もまた長さと幅が同じです(十六節)。これは新エルサレムが至聖所であることを示しています。

拡大された至聖所
新エルサレムの長さと幅と高さは、一万二千スタディアです。一万二千というのは十二の千倍です。十二は神の行政の中の絶対的な完全と、永遠の完備を表徴します。一万二千は、このように千倍も完全で、完備な状況を表徴しています。ですから、新エルサレムは至聖所の究極的な拡大です。

旧約の歴史によれば、イスラエル人は、良き地において、神の王国の中心である都を建造しました。また神の住まいとしての宮を建造しました。この絵図から、わたしたちは、神のみこころを見ます。それは、神がイスラエル人をエジプトから導き出した目的は、人を良き地へともたらし、神の住まいを建造させることでした。同様に、幕屋を顧みるために、祭司は外庭と聖所において多くの事を行ないます。幕屋は拡大された神の住まいとしてのキリストを予表します。このことは、わたしたちが祭司の体系としてキリストを豊かに経験した後、続けて全召会、すなわちキリストのからだを顧みて、キリストのからだを、地上での神の住まいとする必要があるということを言っています。

わたしたちの霊の中のすべてのこと、至聖所の中でのキリストの経験は、最終的には召会、神が安息される家のためです。聖なる都である新エルサレムは、神の幕屋としての、また神の住まいとしての至聖所の拡大、究極的完成です。それはまた、宮の拡大であり、贖われた聖徒たちの住まいのためです。新天新地の中で、新エルサレムは神と人の相互の住まいです。神はわたしたちの住まいとなり、わたしたちもまた、神の住まいとなり、そして永遠へと至ります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第2巻より引用

 

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