遠くから幕屋に近づく人は、まず細糸の亜麻布を見るでしょう。幕屋の最も顕著な特徴は、外庭の細糸の亜麻布のあげばりです。このあげばりは幕屋の外側の表現と境界です。亜麻布は純白です。そして外庭の細糸の亜麻布のあげばりは、キリストが神の義であり、召会への義となったことを示します(コリント人への第一の手紙第一章三〇節)。また召会から、その境界と表現として生かし出されます。亜麻布は義を表徴しています。その意味は、遠くから幕屋に近づく人は、まず義を見るという意味です。幕屋と外庭の外観は、外側の人たちには細糸の亜麻布のもの、義のものです。同じように、今日、神の王国としての召会の外観は義であり、キリストのために用意された花嫁の外観は義であり(啓示録第十九章八節)、永遠における新しい天と新しい地には義の表現があるでしょう(ペテロへの第二の手紙第三章十三節)。
正確に聖書の中の義を認識するには、わたしたちは、それらに関する御言葉から助けを得て、さらに深く「義」の内容を理解する必要があります。
聖書の中の義の内容
新約の務めはその霊の務めであり、また義の務めである
コリント人への第二の手紙第三章八節と九節でパウロは、新契約の務めはその霊の務め、また義とする務めであると言います。旧契約の務めは死と罪定めのものでした。死はその霊と相対し、罪定めは義とすることと相対します。ここでの「義とする務め」とは、原文によれば「義の務め」です。新契約の務めは命のためのその霊の務め、義とする務めです。わたしたちは、この務めが義の務めであるとは何を意味するのかを尋ねる必要があります。
義は命をもたらし、命は義をもたらす
パウロは、旧契約の務めは死に属しており、それゆえ罪定めするものであったと言います。しかしわたしたちの考えでは、罪定めがまず来て死が続きます。しかしながら、パウロは罪定めの前に死を述べています。新約では、命が義をもたらし、また義が命をもたらします。一方で、義がまず来て命が続くかもしれません。もう一方で、命は義に先立ち、義をもたらすかもしれません。ですから、義と命について二つの側があります。すなわち、命へと至る義の側と義へと至る命の側です。同じ原則で、聖書には死へと至る罪定めと、罪定めという結果になる死があります。
罪人が神に来るとき、その罪人は罪定めされ、この罪定めは死という結果になります。これが死へと至る罪定めです。これは一つの側です。もう一つの側は、わたしたちが死の状態にある可能性があり、この状態は罪定めという結果になるということです。これが罪定めへと至る死です。一つの側から、死へと至る罪定めがあります。もう一つの側で、罪定めへと至る死があります。コリント人への第二の手紙第三章でパウロは第二の側の観点から、すなわち、罪定めという結果になる死の状態、状況について語っています。
わたしたちが救われる前、わたしたちであるすべてとわたしたちが行なったすべては死の中にありました。それがわたしたちの状況でした。そのような状況の結果は罪定めでした。神はわたしたちの過去のあらゆる面を罪定めします。今日でさえ、もし旧創造の中に生き続けるなら、わたしたちは死の状態、神の罪定めの下にある状況にあるでしょう。旧創造全体は神の罪定めの下にあります。しかし新契約の務めは来てその霊をわたしたちの中へと分け与えます。すなわち、わたしたちを再生し、生かします。ですから、命を分け与えるその霊は、義という結果になります。
仮にある罪人が悔い改め、主イエスを信じるとします。直ちに彼は義とされます。もはや彼は罪定めされません。なぜなら、神の義が彼に与えられるからです。これは命へと至る義です。そのような悔い改めた罪人は神の義を受け入れて義とされるので、命を持ちます。これは一つの側です。今や彼は命を持っており、この命によって生きるなら、その結果は義です。これはもう一つの側であり、義へと至る命の側です。新契約の務めは、わたしたちを神にもたらして、わたしたちが義とされるだけではありません。それはわたしたちをある状態、状況へともたらして、義の生活をさせます。これは、新約の務めがその霊をわたしたちに供給して、わたしたちが義の生活をすることができるようにすることを意味します。その霊は命の供給であり、義は神の表現です。
律法と王国と義の関係
聖書はしばしば律法の義について語ります。律法の義とは何でしょうか? 律法は神が何であるかの絵です。ローマ人への手紙第十四章十七節でパウロは、神の王国は義であると言います。正当な召会生活は神の王国の生活であり、この王国は義です。聖書で、義は神の律法を行なうことです。ローマ人への手紙第八章四節で、わたしたちが霊にしたがって歩くとき、律法の義なる要求がわたしたちにおいて成就されると言います。ですから、義は律法の成就であり、律法は神のかたち、表現です。これは、義が神の表現であることを意味します。ですから、義は神のかたちです。わたしたちは霊にしたがって歩くとき、確かに十戒で言っているように神ご自身以外のいかなる神も持たないでしょう。偶像を持たず、神の御名をみだりに掲げず、わたしたちが神に属しているしるしを持ち、他のすべての戒めを行なうでしょう。これは義の生活をすることです。この義、律法の成就は神の表現です。
義の生活をすることは王国の中で生きることです。このような生活は、支配され、規制される生活です。あなたの日ごとのクリスチャン生活は、王国の中の生活でしょうか? わたしたちの多くは、わたしたちの日ごとの生活が王国の中の生活、すなわち、あらゆることが規制され、支配され、統治されている生活ではないことに同意しなければなりません。もしわたしたちが物質の事柄に不注意であり、人に対して正しくなく、話す方法がだらしないのであれば、どうしてわたしたちの生活は王国の中の生活であると言うことができるでしょうか? さらに、わたしたちは正確でない証しをするかもしれないし、むさぼるかもしれません。その結果、わたしたちは義ではありません。わたしたちの生活に何の規範、規則、支配もありません。もしこうであれば、わたしたちは神の王国の民ではありません。
召会は神の義、すなわち王国の実際を現し出す
今日、地上で、神の民を除くなら、義により神を表現するものはいませんし、神によって義とされることなく、命の結果はありません。その反対に、あらゆるものが罪定めされています。神はこの地を見つめるとき、それを罪定めします。なぜなら全地は死の下にあるからです。死があらゆる所にあるので、罪定めが入って来ます。しかしながら、神の贖われた民、召会について、状況は大いに異なります。召会は命の霊で満ちており、この命の霊は完全に義である状況、状態になります。この状態はあらゆる方法で、あらゆる面で神によって義とされることができます。これは命における神の表現である義です。そのような義の状態が次の時代へと続くでしょう。すでに指摘したように、小羊の婚姻のために用意された花嫁は義を着るでしょう。彼女の全体の外観は命の表現であるでしょう。彼女には、死や罪定めは何もないでしょう。あらゆるものが命と義からであるでしょう。この義は神の要求の成就と、神の統治の下での規範、規制を表徴します。再び言いますが、この義は義なる神の表現です。
召会は義なる領域の中にあり、義は召会の境界である
幕屋は白い亜麻布の領域の中に、すなわち、義の領域の中に張られました。これは、義が幕屋の領域となったことを意味します。召会も義の領域の中に存在します。こういうわけでパウロはコリントに在る召会に、罪深い人を召会生活から除き去るように命じたのです。召会は神の王国であり、神の王国は義であるので、召会の中に無秩序があるべきではありません。召会は義の領域の中になければなりません。
さらに、この義は召会の境界でもあります。召会の外側には混乱、無秩序、汚れがありますが、召会の内側であらゆることは清く、正しい秩序の中にあります。召会の外側で、何も神の規範の下にありませんが、召会の内側であらゆるものはその霊の制御と規則の下にあります。新契約の務めはその霊の務めであり、それはその霊を信者の中へと供給します。この霊は命の供給をもたらし、それは義という結果になります。そして義は義なる神の表現となります。
白い亜麻布が青銅の柱の上にかかっていた
出エジプト記第二七章で、亜麻布が青銅の柱の上にかかっていたと言います。この絵は神の義が神の裁きから来ることを示します。外側から、わたしたちが見るおもなものは亜麻布です。しかしわたしたちが庭の内側に来るとき、最も際立ったものは青銅です。青銅の祭壇、青銅の柱、青銅の台座、すべては神の義なる裁きを表徴しています。これは、神の義なる裁きが神の義という結果になることを示します。
召会生活の中のあらゆるものが、神の裁きの下にある
外庭の絵は、あらゆるものが神の裁きの下にあることを示してします。しかし神によって裁かれるものは何であれ、義となります。召会生活の中で、あらゆるもの、すなわちわたしたちの性質、わたしたちの行動、わたしたちの言葉は、神の義の下になければなりません。もしわたしたちが神の裁きの下にいないなら、だれに対しても正しくあることはできません。あなたは両親に対して正しくあろうとするなら、神の裁きの下にいる必要があります。あなたは夫や妻に対して正しくあろうとするなら、やはり神の裁きの下にいなければなりません。わたしたちの義、わたしたちの白い亜麻布は、青銅の柱の上にかかっていなければなりません。
わたしたちは、堕落した人です。わたしたちは何であれ、何を行なっても、何を言っても、何を持っていても、神の罪定めの下にあります。わたしたちと関係があるあらゆるものは、裁かれなければなりません。わたしたちは堕落しているので、良い気質を持っていても悪い気質を持っていても、裁かれなければなりません。高ぶる者もへりくだった者も裁かれる必要があります。わたしたちはどのような種類の人であっても、裁かれる必要があります。従順な者も不従順な者もみな裁かれなければなりません。
もし自分自身を義としようとするなら、わたしたちは困難を持つでしょう。召会生活の中で問題をひき起こす者は、自分自身を義とする者です。自分自身を義とするのではなく、わたしたちは自分自身を神の裁きの下に置く必要があります。わたしたちはこれを行なうなら、他の人たちに対して問題を持たないでしょう。わたしたちは神の裁きの下にあるなら、わたしたちはどこにいても、召会生活の中で問題を持たないでしょう。しかし、もしわたしたちが神の裁きの下にいないなら、召会生活の中でどこにいても、問題を持つでしょう。わたしたちはどこに行っても、召会を悩ますでしょう。わたしたちは性急な人であっても緩慢な人であっても、高慢であってもへりくだっていても、問題をひき起こすでしょう。ですから、わたしたちは神の裁きの下にいて、白い亜麻布を持たなければなりません。ただ神の裁きだけが義をもたらします。
わたしは、聖徒たちに話すことの上で神の裁きを経験したと、証しすることができます。ときどき、わたしは他の人たちと語った後、天然的な方法で、あるいは完全に純粋ではない態度で語ったことで、神によって裁かれました。そしてわたしは静かにして、何も言わないと決心しました。しかしながら、わたしは静かにしていようとしていたとき、わたしの静かにしていることのゆえに裁かれました。なぜなら、わたしの沈黙が天然的であったからです。ある時点で、わたしは何かを言うべきでしたが、そうしなかったことで裁かれました。ですから、わたしは天然の命で語っても静かにしていても、神の裁きを経験しました。神の裁きは単なる教えではなく、わたしたちの経験的なものです。
義となるのは神の裁きにかかっている
義であるのは簡単な事柄ではありません。義であることは神の裁きにかかっています。青銅の柱がなければ、亜麻布を掛けるための場所はないでしょう。この意義は、神の裁きがないなら、わたしたちは義を持つことができないということです。もし神によって裁かれていないなら、わたしたちはだれに対しても義しくあることはできません。
神の住まいは義の領域にあって、義をその境界として持っていなければなりません。しかしながら、この義は、わたしたちが神の義なる裁きの下にいるときにのみ存在することができるのです。神の裁きが義を生み出します。義は神の表現であり、神の住まいの境界と領域となります。
詩歌(安らかに住む家あり) 習志野に在る教会作成
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第1巻より引用