金で覆われたアカシア材の枠板

真理

幕屋の枠板の絵図
幕屋のおおいの下に、金で覆われたアカシア材の枠板から成る壁がありました。これらの枠板は、ほぞと台座によりまっすぐに立ち、かんと横木によって結合され、そして幕屋の全体が建て上げられて、団体的な実体となります。これらの枠板は金で覆われたアカシア材を用いて造られました。わたしたちは、この詳細な絵を見る必要があります。枠板が立つことができる力は金によるのではありません。それはアカシア材によります。金は尊いのですが、必要な立つ力を持つには柔らかすぎます。ですから堅固なアカシア材が枠板の立つ力となっています。しかし枠板全体の団体的な表現というのは、アカシア材ではなく、栄光の金です。人が幕屋を見たときには、木造の構造物を見るのではなく、金の建造物を見るのです。

この絵の中で、アカシア材は、基礎の材料として、立つための強い、キリストにある新創造の再生され引き上げられた人性を表徴します。ですからアカシア材は、枠板の基礎の材料です。

これらの枠板は、信者たちが共に建てられて神の住まいとなることを予表します(エペソ人への手紙第二章二二節)。ですから、わたしたちは確信を持って、幕屋は個人的なキリストだけでなく、団体のキリストも予表すると言います。わたしたちは救われる前、神の幕屋の枠板ではありませんでした。わたしたちはアカシア材を持っておらず、また金で覆われていませんでした。天然の命によれば、わたしたちは枠板ではありません。しかし復活の中の神聖な命によれば、わたしたちは幕屋の枠板です。今やわたしたちは、金で覆われたアカシア材となって、建造され神の団体の住まいとなります。

枠板は契約の箱と同じように、アカシア材と金の二つの要素で構成されます。これは、枠板が箱の拡大また拡張であることを示します。それらは実質において箱と同じであり、木と金の二つの性質を伴います。これが描写しているのは、わたしたち信者が、幕屋の壁の構成要素であり、キリストの拡大、彼の拡張であるという事実です。わたしたちは、からだの肢体として、彼の複製、継続、拡増、複写、増加です。わたしたちはまた彼の拡大と拡張です。人の体が彼の頭の拡張と拡大であるように、わたしたち、キリストのからだは、かしらなるキリストの拡大、継続、拡張、増加です。ですから、幕屋のすべての枠板は箱の拡張と拡大です。

わたしたちも「金で覆われたアカシア材」であるべきである
わたしは救われた後、再生されたことを知りましたが、何が自分の内側に起こったのか何の理解も持ちませんでした。わたしは、金で覆われたアカシア材の枠板となったことを認識しませんでした。わたしはただ、救われた、それで今後、最善を尽くして神の栄光を現すべきであると認識しただけでした。この観念は、もちろん、積極的です。わたしたちが救われたことを知り、栄光を神にもたらすことを願うのはすばらしいのです。しかしながら、この知識は天然的です。それは何の神聖な光も含みません。わたしたちが救われ再生されたとき、ある変化がわたしたちの存在の中に起こったことを認識するのは極めて重要です。わたしたちは堕落し、ますます低く沈んでいきました。しかしわたしたちがキリストを信じたとき、彼はわたしたちの中へと入って来られ、わたしたちは浮かび上がるようになりました。わたしたちは性質に変化を経験しました。なぜなら、新しい要素がわたしたちの存在中へと加えられたからです。この要素はキリストご自身にほかなりません。こうして、わたしたちは再生を通して金で覆われたアカシア材となりました。金で覆われたアカシア材からなる枠板となりました。わたしたちは引き上げられたイエスの人性と彼の神聖な性質を持っています。今やわたしたちの新しい存在は、箱の拡大の一部分です。

クリスチャンとして、わたしたちは救われただけでなく、またわたしたちの性質と存在において変えられました。わたしたちは内側に、アカシア材で表徴される引き上げられた人の性質と、金で表徴される覆う神聖な性質を持っています。そのような新しい存在を所有しない者はだれも、キリストにあるわたしたちの兄弟や姉妹ではありません。神によって選ばれ、彼によって再生された者はみな、この二つの性質、すなわちアカシア材と金を持っています。

再生を通して、わたしたちの人性は更新され、強化されました。例えば、再生はわたしたちをさらに賢明に、さらに思慮深く理解あるものにします。もしわたしが決して救われず再生されていなかったなら、だれによっても、あるいは何によっても容易に打ち破られ得ました。しかし今や、再生を通して、わたしたちはアカシア材となりました。わたしたちの意志はとても強く、罪に抵抗します。テモテへの第二の手紙第一章七節によれば、神がわたしたちに賜わったのは、臆する霊ではなく、力と、愛と、冷静な思いとの霊です。神の救いは真にわたしたちを造り変えました。それはわたしたちを新しい人にしました。

再生を通して、わたしたちはイエスの引き上げられた人性を持っています。他の人はわたしたちを理解するのが難しいことを見いだすかもしれません。一方で、わたしたちは普通の人であるように見えます。もう一方で、わたしたちは他の人と異なっています。なぜなら、わたしたちは神聖な命と神聖な性質を持っているからです。神聖な性質は、わたしたちの人性において表現されます。これはアカシア材を覆う金によって予表されています。

あなたは金で覆われたアカシア材について聞くとき、クリスチャンとして、自分がそのような枠板であると信じるのは難しいことを見いだすかもしれません。あなたは、自分は依然として弱いと言いたくなるかもしれません。もしあなたが、自分は弱いと思い、自分は弱いと言い表すなら、事実、弱くなるでしょう。経験において、あなたが何であるかは、あなたが思い言うとおりのものになるでしょう。ですから、あなたが思っていることを変えることは極めて重要です。もはやあなたは自分自身を軟弱無力なものと考えるべきではありません。あなたは信仰の中で、自分は金で覆われたアカシア材の枠板であると言い表さなければなりません。あなたの生まれつきのものにしたがって語ってはなりません。あなたの信仰にしたがって語りなさい。もしあなたが、自分は弱いと言うなら、弱くなります。もしあなたが、ある特別な状況を処理する方法がないと言うなら、あなたはそれを処理する道を持たないでしょう。しかしあなたが、自分は強く、困難な状況を処理する最上の道を持っていると宣言するなら、あなたは強くなり、またその道を持つでしょう。

今やわたしたちはこれらの賜物を燃え立たせ、神がわたしたちに賜わったのは、臆する霊ではなく、力と、愛と、冷静な思いとの霊であることを認識しなければなりません。わたしたちは、自分が再生を通して何であるかを見て、これを宣言しなければなりません。自分自身を見つめてはなりません。主の言葉の上に立ち、その上で行動しなさい。主イエスがペテロに、舟から出て水の上を歩いて主の所に来るように告げられたとき、ペテロはそうしました(マタイによる福音書第十四章二八節―二九節)。彼はキリストの言葉にしたがって水の上を歩きました。しかし彼が環境を見つめたとき、彼の信仰は消えました。わたしたちは第一の事柄でのペテロのようであるべきであり、第二の事柄のようであるべきではありません。主の言葉にしたがって、わたしたちは信仰の中で、自分は金で覆われたアカシア材の枠板であると言うべきです。

わたしにはもう一枚の枠板が必要である
それぞれの枠板の長さは十キュビト、枠板の幅は一キュビト半でした。それぞれの枠板の幅は半分の単位でした。三キュビトの半分が示すのは、あらゆる信者が半分であり、他の人と符合して三キュビトを形成し、神の住まいを建造することを必要とするということです。

枠板として、わたしたちのだれも完全ではありません。召会生活の中で、結婚生活でのように、わたしたちはみな半分です。わたしたちは一キュビト半であり、他の枠板で全体的な単位とする必要があります。召会生活で何年にもわたってわたしが学んできたのは、自分は独立できないこと、単独の枠板であることはできないことです。わたしは組み合わされる必要があります。すなわち、わたしは他の半分、他の枠板で全体的な単位とする必要があります。

結婚生活は、二人三脚レースによって例証することができます。このレースで各組の走者は、一つの足は自由であり、もう一つの足はパートナーの足の一つに結ばれます。うまくレースを走るのは、各組が良い協力の中で共に働くことにかかっています。二人は一人の人であるかのように走らなければなりません。しかしながら、結婚生活で、夫と妻が一であるのは容易ではありません。妻は自由に意見を表明するかもしれませんし、夫は気むずかしく要求するかもしれません。ですから、夫婦が真の一の中で生きているのではなく、分裂があります。同じ問題が召会生活の中にしばしば見いだされます。召会の奉仕を最も駄目にするのは意見の表明です。集会所の掃除をする事柄においてさえ、聖徒たちは多くの異なる意見を持つかもしれません。召会生活の中で、他の人たちと組み合わされ、符合するのはとても難しいのです。わたしたちが他の枠板と符合することができるのはただ、金で覆われたアカシア材を経験するときです。

ある聖徒たちは進んで召会の中で奉仕しますが、事をすべて自分だけで行ないたがります。ある人はこう言いさえするかもしれません、「もし兄弟たちがある事をわたしに行なわせたいなら、わたしに一人で行なわせるべきです。わたしが行なっていることをだれにも邪魔させないでください」。このように召会に奉仕する人たちは、召会の奉仕を独断で自分の思う通りに行ないます。しかしながら、わたしたちはみな召会の中で、分け合う方法で物事を行なうことを学ばなければなりません。何も個人的にわたしたちの手に保たれるべきではありません。ある兄弟はある事柄に対して忠実に熱心に責任を担うかもしれません。それにもかかわらず、彼はあまりにも個人主義的で、奉仕の事柄を個人的なものにしすぎているかもしれません。彼は召会の奉仕のこの面に進んで他の人たちにあずからせないかもしれません。私的に個人的に召会に奉仕することは、互いに結合されない単独の枠板として奉仕することです。しかしながら、幕屋は結び付けられた多くの枠板で建てられました。わたしたちが多くの枠板の一つにすぎないこと、半分の単位にすぎないこと、他の枠板がわたしたちを全体的にすることを必要とすることを、わたしたちは認識する必要があります。

環と横木の結合
枠板が立っているのはほぞと台座によりますが、そのつなぎ、あるいは結合は環と横木によります。出エジプト記第二六章二九節は環について語ります。「そして、枠板を金で覆い、横木の支えとして金の環を作り、横木を金で覆わなければならない」。予表で、金の環はその霊の初期の賜物を表徴します。リベカはイサクと婚約したとき、金の輪を受け取りました(創世記第二四章)。同じように、ほうとう息子が父の家に帰って来たとき、父は彼に、義としてのキリストを表徴する衣と、その霊を表徴する指輪を与えました(ルカによる福音書第十五章十一節-二二節)。今日、指輪は婚約や結婚のしるしとして用いられます。多くの結婚式の主要な面は指輪の交換です。わたしたちは救われた時、その霊の初期の賜物を金の指輪として受けました。わたしたちはその霊を証印、担保、手付金、保証、わたしたちの永遠の分け前としての神の前味わいとして受けました。その霊は担保と保証としてわたしたちに与えられました。これは金の輪によって表徴されます。

横木はつなぐ力のためにアカシア材で作られ(二六節)、結合するために金で覆われています(二九節)。これは、エペソ人への手紙第四章三節で語られているその霊の一と関係があります。エペソ人への手紙第四章で、その霊の一が、謙虚や愛のような人性の美徳の文脈の中で述べられています。これらの美徳はアカシア材によって表徴されています。その霊の一はキリストの神性と関係があるだけでなく、また彼の人性を含みます。神の建造のために、わたしたちはキリストの標準にしたがっている謙虚、親切、愛を持たなければなりません。言い換えれば、わたしたちは結合する横木の内側でアカシア材であろうとするなら、イエス的な人でなければなりません。その時わたしたちは真の一を持つでしょう。環は純粋に金でできていますが、横木は二つの性質、すなわち金で覆われたアカシア材から成っています。これが示すのは、結合する霊が、わたしたちの贖われ引き上げられた人性の美徳とミングリングされているということです。

詩歌(安らかに住む家あり) 習志野に在る教会作成

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第1巻より引用