幕 屋 ―― 細やかでまた栄光なる神・人イエス

真理

幕屋は天幕でした。天幕は一時的で、移動できる住まいでした。
聖書の記録によれば、幕屋、神の天幕に床はありませんでした。
天幕は持ち運びできるものであったので、地面に据えられました。
四十年の間、イスラエルの子たちは荒野で宿営し、神は彼らと共に宿営しておられました。
神の民の天幕は、幕屋の周りに設立されました。
民数記の最初のいくつかの記載で、
わたしたちは十二部族が幕屋の周りの四方向に宿営したことを見ます。
ですから、荒野で神と民はいずれも天幕に住んだのです。
新約の時代のクリスチャンにとって、
幕屋はどのような意義を持つのでしょうか?

出エジプト記第二六章一節と六節は幕屋について語っています。「また、あなたは幕屋を、り合わせた細糸の亜麻布、青色と紫色といろの撚り糸の十枚の幕で作らなければならない……一つの幕屋になるようにしなければならない」。幕屋には四層のおおいがありました。第一層、最も内側の層から、キリストのすばらしい絵を見ることができます。

細やかで完全な人
幕屋のおおいの第一層、最も内側の層の撚り合わせた細糸の亜麻布の十枚の幕は、キリストの細やかな人性を予表します。わたしたちはまた、それは細やかで完全な人としてのキリストを予表すると言ってもよいでしょう。

十枚の幕は、細糸の亜麻布で作られました。啓示録第十九章八節によれば、細糸の亜麻布は、義なる行為を表徴します。亜麻布は細糸だけでなく、また撚り合わせていたと言います。細糸であることは均質であることを表徴し、撚り合わせていることは亜麻が少しもたるんでいなかったことを示します。キリストの行動は決して粗野ではなく、むしろ、常に細やかであったのです。その反対に、わたしたちの行動はしばしばたるんでおり、正しく対処されて撚り合わされていませんでした。

わたしたちは四福音書の啓示から、細やかで完全で完備な方である主イエスが行われるあらゆることは、意義深いということを見ることができます。彼には決して不均衡がなく、常に抑制され制御されています。彼にわずかな粗野の痕跡さえ見いだすことはできません。だれも細やかさにおいて主イエスに比較することはできません。

神の栄光を現す人
出エジプト記はまた、幕は巧みな職人のわざで、それらにケルビムが織り出されていることを語っています(第二六章一節)。ケルビムは、イエスに現された神の栄光を表徴します。ケルビムは、被造物に現された神の栄光を意味します。どれほど多くのケルビムが亜麻布の幕の上に織り出されたかが告げられていないことは、ちょうど箱の罪を覆うふたの上のケルビムの寸法が与えられていないということと同じです。このことは、被造物に現された神の栄光が計り知れないことを示します。いずれの場合も聖書の記録がないのは、神の栄光の現れが人の測りを超えていることを示しています。

わたしたちはエゼキエル書から、ケルビムが生き物であり、その中に神の栄光が見られることを知ります。主イエスは地上におられたとき、人として神聖な栄光を現している被造物でした。聖書は、キリストが創造主と被造物の両方であることを啓示しています。コロサイ人への手紙第一章十五節によれば、キリストは被造物の中で最初に生まれた方です。主イエスは真の人として、血、肉、骨の体を持っておられました。ですから、キリストは彼の人性において被造物でしたが、神の栄光がその被造物である人の上で現されました。

亜麻布の幕の上のケルビムは、巧みな職人、あるいはしゅう職人のわざでした。ここの職人は、刺繍の工芸に巧みな者を意味します。刺繍職人のわざは、主イエスにおける聖霊の構成する働きを表徴します。ですから、聖霊が巧みな職人、刺繍職人です。今日、聖霊はわたしたちの上で刺繍のわざを行なっておられます。彼は大小多くの「針」を用いて、このわざを成し遂げられます。

十枚のつなぎ合わされた幕
幕屋の全体では十枚の幕があります。それは五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせられています(出エジプト記第二六章三節)。ですから、二連のそれぞれ五枚の幕がありました。五は責任の数です。互いにつなぎ合わされた五枚の幕は、継続する命を表徴します。これらの組は、継続する命の中で示された責任を表徴します。一連はただ一枚の幕から成るのではなく、それぞれ他とつながっている五枚の幕でできていました。これは、四福音書に啓示されているような主イエスの命が、継続する命であったことを描写します。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネはすべて、主イエスの命には何の欠け目もなかったことで同意しています。さらに、二連の五枚の幕は継続する命の証しを示し、主イエスが全体的で完全な人であることを証しします。その一連の端にある幕の縁に青色の五十の輪があったことを告げています。輪は結合のために役立つことを表徴し、青色は天的であるものを指し示します。例えば、ある兄弟が大胆さと安定の美徳を持っているとします。しかしながら、これらの美徳を結合することを困難にする欠け目がその間にあるかもしれません。しかし主イエスにおいて、大胆さはへりくだりと、へりくだりは忍耐と、忍耐は親切と結合されています。主イエスのすべての美徳は結合されています。それらの間には欠け目がありません。

「また、五十の金の留め金を作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせて、一つの幕屋になるようにしなければならない」(六節)。金の留め金は神聖な性質の結合する力を表徴します。ここの五十の数は完全な責任を表徴します。互いに幕をつなぎ合わせて一つの幕屋にすることは、それが証しを一つにすることを表徴します。イエスの人性の結合する力は彼の神聖な性質からです。同じように、今日、召会生活の中で、わたしたちは神聖な性質の中でのみ結合する力を持ちます。人の命にしたがうなら結合する力を持ちません。

四福音書は、主イエスのすべての美徳が一つの証しを形成することを啓示しています。これは幕屋を一つにする幕の結合の意義です。この結合の結果として、一つの完全、全体、全部の証しがあるのです。

まとめ
幕屋の幕は一つの絵図であり、わたしたちに人性の中の主イエスをさらに深く認識させるものです。ある人たちは、ごく若い時から、主イエスについての物語を聞いてきました。しかしながら、わたしたちはキリストについての聖書の物語に親しんでいるからといって、主イエスに対する正しい十分な認識を持っていると思うべきではありません。幕屋の幕に関するこれらの聖書の節から、主の全体的で完全な人性の詳細の描写を見ます。キリストの人性の多くの面は言葉で言い表せないので、わたしたちは幕屋の第一のおおいによって描写された主の人性の絵図を見る必要があります。

キリストの人性の詳細を記述する言葉はありませんが、わたしたちはこれらの節について祈ることによっていくつかの理解を得ることができます。わたしたちはここの詳細の意義を考えれば考えるほど、主が彼の人性において何とすばらしいパースンであるかをますます認識します。わたしたちは彼を、撚り合わせた細糸の亜麻布に、青色、紫色、緋色に、ケルビムに、すべての輪と留め金に見ます。わたしたちはみなそのように詳細に主イエスを知る必要があります。

わたしたちは幕屋の第一層のおおいを考えるとき、共に留め合わされた幕が単なるおおいではなく、保護のおおいであることを見るでしょう。このおおいはその下にあるあらゆるものを保護します。天幕、幕屋は単なる住まいではありません。それは容器でもあります。それは箱、机、しょくだい、香壇を入れており、すべての枠板を覆っています。わたしたちは板によって予表され、板は幕によって覆われているので、第一層のおおいはわたしたちを覆い、保護すると言ってよいでしょう。このおおいはまたわたしたちを抱擁しています。ですから、主イエスの人性はわたしたちを覆い、保護し、抱擁します。日ごとにわたしたちは神の天幕のおおいの下にあり、それによって保護されています。さらに、わたしたちはこのおおいによって抱擁され、その内側に含まれてさえいます。ここの、主イエスのおおい、保護、抱擁の下で、わたしたちはキリストを箱として、パンのある机として、燭台として享受します。

すべての聖徒たちが、これらの予表によって表徴された主の人性の細やかな点を評価するようになることを、わたしは望みます。わたしたちは幕屋の中へと入って来るとき、その天井、第一のおおいが人性における主イエスの内なる表現であることを見ます。亜麻布、青色、紫色、緋色、ケルビム、輪、留め金は、この表現のすべての部分です。キリストの中へと入って来ていない人たちは、そのような美しさと栄光の中の彼を見ることはできません。

しかしわたしたちは内側からキリストを見るとき、彼が天的であり、王的であり、贖う方であり、栄光であることを知ります。幕屋の第一のおおいにおけるキリストの描写のゆえに、主を賛美します!

詩歌(安らかに住む家あり) 習志野に在る教会作成

安らかに住む家あり

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第1巻より引用

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