エホバはモーセに語って言われた、
「イスラエルの子たちに告げて、わたしのために挙げるささげ物を持って来させなさい。
心から進んで行なうすべての人から、あなたがたはわたしの挙げるささげ物を受け取らなければならない。
彼らから受け取る挙げるささげ物は、次のものである.すなわち、金と銀と青銅、
また青色と紫色と緋色の撚り糸、また細糸の亜麻布、またやぎの毛、
また赤く染めた雄羊の皮、またじゅごんの皮、またアカシア材、
明かりのための油、塗り油とかおり高い香のための香料、
エポデと胸当てにはめ込む縞めのうと宝石。
彼らにわたしのために聖なる所を造らせなさい.それは、わたしが彼らの中に住むためである。
わたしがあなたに示すすべてのこと、幕屋の型とそのすべての調度品の型にしたがって、
あなたがたはそれを作らなければならない。
(出エジプト記第二五章一節から九節)
出エジプト記第二五章において、神は幕屋とその中にある器具のビジョンを啓示し始めた時に、まず幕屋を建造する材料を啓示しました。一節から七節で神はモーセに、幕屋を建造するのに用いられる材料、基本的な要素を啓示しました。その材料はすべて、わたしたちが召会を建造することで用いるべき基本的な要素を代表しています。この要素はキリストご自身です。すべての材料は、キリストのパースンと働きの美徳を指します。彼が彼のパースンにおいて何であるか、また彼がすでに何を行なったか、また何を行なうかの働きを表徴します。もしこれらの要素に欠けるなら、わたしたちは神の住まいを正しく建造することはできません。ですからわたしたちは徹底的にこれらのすべての材料を知る必要があります。
わたしたちが得て、享受し、経験したキリストは、わたしたちが神にささげたささげ物である
エホバはモーセに言います、「イスラエルの子たちに告げて、わたしのために挙げるささげ物を持って来させなさい。心から進んで行なうすべての人から、あなたがたはわたしの挙げるささげ物を受け取らなければならない」。旧約によれば、ささげ物は、神によって創造され、彼によって備えられ、しかもわたしたちによって獲得され、所有され、享受されたものです。あるイスラエル人が小羊を神にささげたとします。小羊は神によって創造され、彼によって備えられましたが、それをささげる人は、それを正当な方法で獲得しなければなりませんでした。正当な方法で小羊を所有した後、彼はそれを享受し、経験しなければなりませんでした。そして彼はこの小羊を神にささげることができました。ささげ物を神にささげることは経験の事柄です。神によって備えられたすべての材料は、わたしたちの所有、享受、経験とならなければなりません。そして、わたしたちの経験を通して、わたしたちはこれらの材料を挙げるささげ物として神にささげる権利と地位を持ちます。
キリストは神によって定められて用意された建造する材料です。キリストはこの建造する材料ですが、神はこの材料を直接用いて、彼の住まいを建造するのではありません。そうではなく、神はキリストをわたしたちに与えて、わたしたちが彼を獲得し、彼を享受し、彼を経験するようにされます。わたしたちは集会で機能することによってわたしたちの霊を解放するとき、キリストをわたしたちの内容として持つ必要があります。もしわたしたちがキリストをわたしたちの内容とすることなく『主を賛美します』と叫ぶだけであるなら、キリストの有り余る豊かさを神にささげているのではありません。このキリストは客観的ではありません。彼は主観的なキリストです。集会でわたしたちはこの尊いキリストを御父に、召会を建造するための材料としてささげるべきです。
『わたしのために挙げるささげ物を持って来させなさい』
旧約で挙げるささげ物は、神の御前に引き上げられたささげ物を指しています。挙げるささげ物は天に引き上げられたキリスト、昇天におけるキリストを指しています。揺り動かすささげ物は復活におけるキリストを予表します。わたしたちは挙げるささげ物を持とうとするなら、天のキリストを経験しなければなりません。キリストのパースンと働きのすべての美徳は、復活の特徴の中で、天上の地位で、地上での神の住まいを建造するために、挙げるささげ物として神にささげられます。わたしたちがささげる材料は、復活の特徴と天的な地位を持っていなければなりません。
わたしたちはこれを見るなら、組織の道を取らないでしょう。組織化することは天然的です。それは復活と何の関係もありません。召会を建造する材料は、復活の特徴に満ちていなければなりません。わたしたちの愛でさえ天然の愛であるべきではなく、復活の中の愛であるべきです。あなたはある聖徒に対して愛を表現しようとするとき、この愛は天然か、それとも復活の中にあるかを識別する必要があります。あなたは自分の愛があなたの天然の味わい、傾向、目的にしたがっているか、それとも復活の特徴のものであるかを尋ねる必要があります。それが復活の中にあるなら、これは天然の命が十字架につけられ葬られたことを意味します。復活の中にある愛は、自動的に天的な地位にあります。
召会はどのような天然の材料をもっても、またキリストをもってさえ直接、建造されるのではありません。そうではなく、それはわたしたちの経験となったキリストをもって建造されます。召会が建造されるのは、単に神によって用意されたキリストをもってではなく、復活の中で、また天上でわたしたちによって所有され、享受され、経験されたキリストをもってです。わたしたちはキリストの復活と昇天の豊富な経験を必要とします。わたしたちは天然的、あるいは地的であるべきではありません。その反対に、わたしたちは復活の中にあり、また天上にあるべきです。
わたしたちは、キリストを所有し、キリストを獲得し、キリストを享受し、キリストを復活した方としてだけでなく、昇天した方としても経験する必要があります。わたしたちは復活におけるキリストを知る必要があります。パウロのように、わたしたちはキリストと「彼の復活の力」を知ることを切望すべきです(ピリピ人への手紙第三章十節)。もう一方で、わたしたちは昇天におけるキリストを経験しなければなりません。パウロはエペソ人への手紙第一章二〇節と二一節で、昇天したキリストについて語り、その所で、神はキリストを死人の中から復活させ、「彼を天上でご自身の右に座らせ、すべての支配、権威、力、主権、そしてこの時代ばかりではなく、来たるべき時代においても唱えられるあらゆる名を超えて、はるかに高くされました」と言っています。わたしたちが昇天したキリスト、天上におけるキリストを経験すればするほど、彼はますますわたしたちの所有となります。彼はわたしたちの特別な宝となり、わたしたちはそれを神の住まいの建造のための材料として神にささげます。わたしたちは言うべきです、「主よ、わたしたちはあなたを愛するので、あなたの住まいの建造のためにわたしたちの尊い宝と所有を挙げるささげ物としてささげたいのです」。
幕屋を建造する三種類の材料
十二種類の材料が幕屋を建造するのに用いられました。これらの材料は三つに分類できます。鉱物はキリストの建造の命を表徴します(コリント人への第一の手紙第三章九節―十二節)。植物はキリストの命の産出を表徴します(ヨハネによる福音書第十二章二四節)。動物はキリストの贖う命を表徴します(ヨハネによる福音書第一章二九節)。贖う命は生み出す命のためであり、生み出す命は建造のためであることを見せています。鉱物が第一の部類として述べられたという事実が示しているのは、キリストであるものは何であれ、彼が行なったこと、また行なっていることは何であれ、すべて建造のためであるということです(マタイによる福音書第十六章十八節)。
鉱物
建造が神の目標です。神聖な啓示の究極的完成は、金、宝石、真珠で建造された新エルサレムです。聖書はこれに関して完全に首尾一貫しています。出エジプト記第二五章一節から九節の鉱物は神の建造のためです。コリント人への第一の手紙第三章十節と十一節で、パウロは賢い建築家のように土台を据えた、この土台はイエス・キリストであると言っています。そして彼は、「どのようにその上に建てるか、各自は注意しなさい」と言います(十節)。十二節でパウロは続けて言います、「ところが、その土台の上に、人が金、銀、宝石、木、草、刈り株をもって建てるなら」。この節でパウロが鉱物、すなわち金、銀、宝石について語っているのに注意してください。金、銀、宝石で建てないで、多くのクリスチャンは木、草、刈り株のような価値のない、燃やすのだけに良い材料を用います。主の回復は今日の宗教と絶対に異なっています。回復の中でわたしたちは木、草、刈り株を拒否します。しかしこれらの劣悪な材料は、多くのクリスチャンによって歓迎されているだけでなく、評価され、称賛され、高く上げられ、広められています。わたしたちは回復の中で、巨大な堆積の木、草、刈り株よりも、むしろ少量の金、銀、宝石を持ちたいのです。
金はキリストの神聖な性質を表徴する
出エジプト記第二五章一節から九節で述べられた鉱物の第一は金です。金はキリストの神聖な性質を表徴し、それは純粋で永続します。ナザレ人イエスの中には神聖な性質がありましたが、この「金」は彼の内側に隠されていました。宗教家たちは主イエスに当惑しました。彼らは、彼が大工であることを知っており、ある人は彼の弟たちを知ってさえいました。それにもかかわらず、彼らは、どうして彼がある事を行ない、言うことができるのかと思いました。彼らの戸惑いの原因は、このナザレ人の内側に隠された神聖な性質でした。わたしたちはキリストの隠された神聖な性質を経験する必要があります。例えば、ある兄弟は夫、父親、あるいは従業員として行なうすべてにおいて、彼の内側に隠されたキリストの神聖な性質を持つべきです。他の人は彼について不思議に思い、彼には重みと価値あるものがあると感じるかもしれません。
わたしたちの間の若い人たちでさえ、純粋な永続する神聖な性質におけるキリストを経験する必要があります。そのとき彼らは学校や近隣の他の人に、重みと価値あるものを所有しているという印象を与えるでしょう。彼らは話や振る舞いにおいて、称賛すべきものを内側に持っているという印象を伝えるでしょう。主に感謝します。わたしたちの若い人たちの多くがそのような証しを担っています。
わたしたちはキリストの神聖な性質について経験し所有しているものを、集会にもたらして神にささげるべきです。まだ高校生である人たちは、自分はそのような挙げるささげ物を建造のために神にささげるには若すぎると思うべきではありません。若い人たちがこのように機能するとき、多くの人が啓発され建造されます。わたしたちはみな金、すなわちキリストの神聖な性質の経験を必要とします。そのときわたしたちは、経験したキリストのこの要素を挙げるささげ物として神にささげる必要があります。わたしたちは彼を経験し、彼を所有し、そして神の住まいを建造するために彼を神にささげる必要があります。
銀はキリストの贖いの働きを表徴する
銀、鉱物の二番目は、キリストの贖いの働きを表徴します。わたしたちはこの贖いの働きを、浅薄な方法で理解すべきではありません。贖いは終結と置き換えを含みます。わたしたちは神によって彼ご自身のために創造され、神によって彼ご自身のためであるように選ばれました。しかしながら、わたしたちは堕落して失われたので、わたしたちを贖うキリストを必要とします。堕落した被造物として、わたしたちはまた終わらされる必要もあります。ですから、十字架上でキリストはわたしたちを十字架につけました。彼はわたしたちを終わらせました。さらに、キリストは彼の贖いを通してご自身をわたしたちの中へと分け与え、わたしたちの置き換えとなられます。このすべて、すなわち贖い、終結、置き換えは、銀によって表徴されます。銀は、わたしたちが贖われ、終わらされ、置き換えられたことを証しします。
青銅は神の裁きのテストを表徴する
第三の鉱物―青銅は神の裁きのテストを表徴します。こういう理由で、外庭の祭壇は金ではなく、青銅で築かれたのです。祭壇はテストする手段また場所です。そのようなものとして、それはわたしたちが神によってテストされる手段と場所の両方としての十字架を予表します。キリストは人として何度もテストされました。彼は地上での全生涯を通してテストされ、祭司たち、ヘロデ、ピラトの前に立って試みられたとき、テストされ、死を宣言されました。さらに、キリストは神によってテストされました。キリストは生涯の毎日、神のテストの下にありました。
日ごとにわたしたちも神のテストの下にあります。わたしたちが家庭で、職場で、学校で過ごす種類の生活は、神のテストを受けています。ある兄弟が妻に言うことは神によってテストされ、学校での教師やクラスメートに対する若い人の態度もテストされるでしょう。神はわたしたちの心の中にある動機、意図、すべてをテストされるでしょう。わたしたちは神のテストを経験するとき、金や銀だけでなく、青銅も獲得します。これはわたしたちを異なる種類の人、すなわち、振る舞い、語り、態度を表現する方法について不注意ではない人にするでしょう。青銅を経験する人は、十字架の下にあり、神のテストの下にある人です。
神のテストの下で、若い人は学校である事を言おうとし、あるいは行なおうとするとき、神によってテストされるでしょう。ある兄弟も妻との関係で神のテストを経験するでしょう。仮に、彼が彼女に強い言葉を言おうとします。その時点で、主は彼をテストし、彼はそのような言葉を言うべきでないことを認識します。妻に消極的な言葉を言うのではなく、その兄弟は主に積極的な言葉を言い、彼にこう告げるかもしれません、「主よ、あなたは何と賢明で、何と善いことでしょう! 主よ、わたしはあなたを愛し、わたしの家族を愛します」。そのような経験を通して、その兄弟は青銅の経験を獲得するでしょう。わたしたちによって経験され所有されるこの青銅は、やはり神の幕屋を建造するために用いられる材料です。
縞めのうと他の宝石
第四種類目の鉱物は縞めのうと他の宝石です。縞めのうは赤色でした。この縞めのうは、その霊の造り変える働きの基礎としての、命のために流されたキリストの血を表徴します。他の宝石は、キリストの贖いに基づいた、聖霊の造り変える働きのさまざまな面を表徴します。
わたしたちはみなその霊の造り変えを経験する必要があります。例えば、わたしたちは自分の両親、親族、近所の人たち、特に召会の兄弟姉妹を愛する必要があります。しかしながら、神はわたしたちの天然の愛を受け入れません。彼の目に、わたしたちの天然の愛は土くれであって、宝石ではありません。わたしたちは自分の天然の愛についてとても積極的に感じるかもしれませんが、神にとってそれは忌まわしく醜いのです。わたしたちの愛は造り変えられる必要があります。わたしたちは、キリストの贖い、終結、置き換えを基礎とする、その霊によって造り変えられている愛を必要とします。そのときわたしたちは他の人を純粋な愛、聖霊の尊い造り変える働きの産物である愛をもって愛するでしょう。このようにして他の人を愛することは、天然の方法で彼らを愛することと大いに異なっています。わたしたちは、わたしたちの天然の道徳、倫理、性格、振る舞いに満足すべきではありません。
これらのものはすべて造り変えられる必要があります。まずわたしたちは贖われ、終わらされ、置き換えられ、そして聖霊によって新陳代謝的に造り変えられなければなりません。これが宝石の経験です。
植物について
植物の命は生み出すため、産出のためです。キリストは、生み出し産出する命の本質的な要因です。彼の命はとても生産的であり、彼は彼の命をわたしたちに分け与えます。ヨハネによる福音書第十二章二四節によれば、彼は唯一の小麦の粒であり、地に落ちて死んで、多くの穀粒としてのわたしたちを生み出しました。これは、産出し、生み出す植物の命としてのキリストです。
青色、紫色、緋色の撚り糸、細糸
出エジプト記第二五章四節は、「青色と紫色と緋色の撚り糸」について語ります。この生み出す命の最初の表現は亜麻布であり、それはキリストの行為を表徴します。青色の亜麻布は、キリストの生み出す命がわたしたちに命を分け与えるだけでなく、青色によって表徴されるように、天的である性格と振る舞いを生み出すことも表徴します。他の人はわたしたちを見るとき、わたしたちが地的ではなく、天的な性質を持っているという感覚を持つべきです。わたしたちは天的な外観、青空の外観を持ちます。
紫色の亜麻布は、王であることを表徴します。わたしたちは振る舞いにおいて、王であり、王的である性格を現し出すべきです。青少年の信者でさえ、振る舞いにおいて威厳があり王的であるべきです。彼らが言い、行なうことの中に、ある威厳と王であることがあるべきです。わたしたちの行動において天的で王的な性格を持つことは、わたしたち自身を改善するわたしたちの努力から来るのではありません。わたしたちは自己改善についての宗教的、哲学的、天然的な教えから転換しなければなりません。わたしたちは、日常生活で青色と紫色の亜麻布の経験を持つ者となるまで、キリストをわたしたちの天上、王であること、威厳として経験する必要があります。
幕屋のために、緋色の亜麻布の必要もあります。緋色は、わたしたちの贖いのために流されたキリストの血を表徴します。わたしたちは、自分が罪深く、キリストの尊い血の清めを必要とすることを認識しているという証しを、常に担うべきです。しばしばわたしたちは主に転換して言う必要があります、「主よ、わたしを清めてください。わたしはたとえ何の罪も意識しなくても、依然として清くないことを知っています。主よ、わたしは天然的であり、あまりに多く旧創造の中におり、依然として肉的です。わたしは何とあなたの清めを必要とすることでしょう!」。他の人は、わたしたちの天的な外観や王的な性格を称賛するかもしれませんが、わたしたちは罪深く、常に主の尊い血の清めを必要とするという認識を持つべきです。これが緋色の亜麻布の経験を持つことです。仮に、ある若い人の親に対する態度が、自分が常に正しく、親が悪いというものであるとします。彼は言うかもしれません、「お父さん、わたしは決してあなたを怒らせませんでした。わたしは家族をみな愛しており、常に他の人のために進んで事を行なっています」。このような態度を持つことは、緋色の亜麻布に欠けることです。
幕屋に用いられた亜麻布が青色、紫色、緋色であっただけでなく、細糸でもあったことを示します。わたしたちの行動と振る舞いにおいて細やかであることは、わたしたちがあらゆる面で均衡がとれていることを意味します。例えば、わたしたちは笑ったり泣いたりするとき、均衡がとれているべきです。わたしたちは過度に制限なく笑ったり泣いたりすべきではありません。しかしながら、感情において抑制がなく、何の均衡もなく笑ったり泣いたりする人がいます。また他の人を愛しすぎる可能性もあります。適切な制限なしに愛することは、わたしたちが愛において粗雑であり、わたしたちの愛が均衡がとれていないことのしるしです。わたしたちの行動は均衡がとれているだけでなく、また完全でさらには美しくさえあるべきです。ある人はとてもへりくだっていますが、彼のへりくだりは美しくないかもしれません。わたしたちは美しいへりくだりを必要とします。わたしたちのすべての美徳と属性は、細糸の亜麻布、すなわち均質で、完全で、美しくあるべきです。
アカシア材、油と香料
幕屋を建造するのに用いられたアカシア材は、性格において強く標準において高い、キリストの人の性質を表徴します。キリストの人性は綿のようではありません。その反対に、それはアカシア材のようです。幕屋にはまた「明かりのための油」(六節)が必要です。油はキリストの霊を表徴します。わたしたちは何であっても何を行なっても、キリストの霊で浸透されているべきです。香料は、塗り油を作るためと、神の御前でたかれた香を作るのに用いられました。この香料はキリストの死と復活の効力と香りを予表します。わたしたちはこれらの香料を、わたしたちの日常生活の中で経験する必要があります。まず、キリストの死は消極的な事物を対処することで効力があります。それはすべての「ナンキン虫」を寄せ付けず撃退します。わたしたちが香料の効力を経験するとき、わたしたちの生活にはキリストの死と復活の香りがあるでしょう。
動物について―やぎの毛、雄羊の皮、じゅごんの皮
キリストの命はまた動物の命によっても予表されます。動物の命は贖いのためです。人が堕落する前、神は人が動物の肉を食べることを定めませんでした。人は神が創造の中で備えた果物、野菜、木の実で生きることができました。しかし人は堕落し、罪深く腐敗したので、贖いのために血を流すことと、養いと支えのために動物の肉も必要としました。これは、罪深い人が贖うキリスト、十字架上で血を流し、命を犠牲にしてわたしたちを贖ってくださったキリストを必要とすることを示します。キリストの贖いの命をもってわたしたちは育てられ、養われ、支えられて生きます。
建造の材料の中で動物の命の三つの面に言及します。それはやぎの毛、雄羊の皮、じゅごんの皮です。マタイによる福音書第二五章三三節と四一節によれば、やぎは罪人を表徴します。ですから、やぎの毛は、キリストが贖いの働きの中でわたしたちのために罪とされることを表徴します(コリント人への第二の手紙第五章二一節)。神はわたしたちのためにキリストを罪とされました。彼は罪がなく、罪深い性質を持たれませんでしたが、外観ではやぎのように見えました。
赤く染めた雄羊の皮は、血を流すことを通して達成されたキリストの贖いを表徴します。キリストは雄羊であって、わたしたちの罪のために十字架上で死なれました。彼は祭壇で神にささげられ、彼の血を流してわたしたちを罪から洗いました。じゅごんの皮は強く、丈夫で、長持ちします。それは苦難を担うときのキリストの強さを表徴します。その皮は幕屋のおおいとして用いられ、幕屋を保護するのに役立ちました。今日わたしたちは、わたしたちを覆い保護するじゅごんの皮としてのキリストを持っています。彼はあらゆる種類の苦難、損傷、困難を担われます。動物の命によって表徴された命において、キリストはまずわたしたちを贖い、そして試み、攻撃、問題、苦難に耐えることができるおおいと保護になられました。
詩歌(安らかに住む家あり) 習志野に在る教会作成
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第1巻より引用