彼は最後にメールで一つの言葉を送ってきました‥
「あなたはとてもすばらしいです。
わたしはあなたには神が必要だと思えません。あなたの人生は本当に完璧だと思います。」
この言葉がわたしに深く触れて、わたしを変えてしまうとは思いもしませんでした。
わたしは胸に手を当てて自問しました。
「もしわたしが本当に完璧ならば、なぜわたしには全く喜びが無いのでしょうか?」
主を信じる前
主を信じる前、わたしはある雑誌社で専任のライターをしていました。この仕事の関係で、わたしは多くの社会的に卓越した人物と出会いました。そのような成功した人たちを見て、わたしは、もしかしたらわたしもその中の一人になれるかもしれないと思いました。競争の激しい職場の中で、わたしは自分の信念である「必死さ」を守り続けました。わたしは数年努力し続ければ、その成功の波に乗り、人生がとてもきらびやかで美しいものになると思っていました。必死に働き、狂ったように友人を作り、名刺を整理し、ネットで資料を探し、企画についてのビジネス書を研究し、一週間に七日間働きました。十六時間を超えて働く日もあり、会社に携帯用ベッドを置くまでになりました。それは遅くまで仕事をする時、ちょっとした休憩に使えました。そういうわけで、わたしは若くして昇進し主管となりました。これがわたしが計画し、望んだ人生ですから、もちろん満足していました。しかしある日、一人でデスクの前に座り、大量の編集作業の他に、煩わしい管理業務をやる必要があり、突然何とも言えない脱力感が、ものすごい勢いでやってきました。精力旺盛に仕事をしていたわたしが、急に耐え難い疲れを感じるようになり、おごりたかぶっていた鶏冠が弱々しく垂れ下がるようでした。
飛ぶように走ってきた軌跡を思い返しながら、自分に尋ねました、「卒業してから絶えず突き進み、同級生でわたしのように努力して働いた者はいませんでした。わたしの一年の仕事は、他の人の三年分に相当しました。わたしは常に必死に、必死にあらゆる障害を乗り越えてきました。今、止まっていけないのでしょうか? 他の人が追い上げて来るのでしょうか? この道は、本当にわたしが求めたものなのでしょうか? あとどれくらい走れば良いのでしょうか?」
「神を求める」という考え
一人、がらんとしたオフィスで考え続け、心は沈み、疲れましたが、この時、「神を求める」という考えが自然に湧き上がりました。このことは他の人には説明できないことでした。自分の憤りのために心が穏やかではなく、天の神に、何故わたしにこのような道を用意したのか聞きたかったのかもしれません。直ちにわたしは、クリスチャンであったという印象のあった小学校の同級生に電話をしました。そして単刀直入に、「あなたはどうやってあなたの神に祈っていますか?」と尋ね、彼は「最初に『おお、主イエスよ!』と言ってから、最後に『主に感謝します!』と終わります。途中はあなたが自分で埋めてください」と言いました。「それだけですか?」わたしは答えがこんなにも予想外に簡単だとは思いませんでした。それから電話を切って、トイレに行って、数分間祈りました。人生で初めて神に向かって祈りました。知らぬ間に、心の中を渦巻き、引っかき回していた感覚が落ち着きました。
福音集会への参加
ある時、わたしはあるベンチャー企業に取材に行ったときに、そこにちょうどクリスチャンの方がいました。後日、そのクリスチャンの方とよく連絡を取るようになり、その人はわたしに福音を宣べ伝えました。プライドの高かったわたしの最初の反応は「ただ見て分かるほどに、ひどい状況の人にのみ信仰が必要です。わたしは良い状態なので、何も欠けたものはありません!」と言っていました。
彼はわたしを福音集会に誘いましたが、わたしは反応せず、彼が家庭集会に誘った時はわざと無視していました。わたしの冷淡さに、彼の辛抱強さは徐々に消耗され、最後にパソコンのやりとりで「あなたはとてもすばらしいです。あなたには神が必要ではないと感じました。あなたの人生はとても完璧です。」という言葉が書かれました。わたしはこの言葉がとても深くわたしに触れ、わたしを変えるとは思いもしませんでした。わたしは「もしわたしがそんなにも完璧なら、何故わたしには全く喜びが無いのか?」と自分の胸に手を当て、自問しました。
わたしは改めて彼に集会の場所を聞き、参加するようになり、みんなと詩歌を歌い、メッセージを読み、分け与えを聞くようになりました。わたしはこのような生活がとても不思議であることに気が付きました。地球上のある一角で、ある一群の人々は一種の生活を持ち、本当に誠実にお互いに向き合っています。さらにどの人々の顔もみな光と喜びに満ちていたのです。このことから、わたしは主を信じ受け入れました。バプテスマされた後、わたしの人生は大きく変わりました。以前はとてもプライドが高く、自信家で驕っていましたが、今では自分が大したことのないものだと思います。わたしのような人は全世界におそらく何千万人といると思います。以前は同僚としばしば衝突していましたが、主を信じてからは、人との付き合いにおいて、主がわたしの態度を柔和にしてくださいました。同僚はわたしの変化に驚き、わたしの誘いを受け入れ、召会の集会に来るようになり、主を信じました。もし主の恵みが無ければ、わたしは今日もこの世でのたうち回り、手段を選ばず、精力を尽くして名誉と富を追い求める人であったと思います。その最終的に行き着くところは想像もしたくありません。主に感謝します、主はわたしを救ってくださいました。正常でバランスの取れた人生を与えてくださいました。
詩歌(わが命に大変化あり) 習志野に在る教会作成
記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第1巻より引用