「神の恵み、神の奥義」

証し

わたしが習志野に在る教会へ初めて行ったのは、二〇一五年の九月の末の事です。九月の末でも残暑が厳しく、日中は三十度以上でした。その日は、わたしは用事があって商店街を歩いていると、一人の女性がパンフレットを配っていました。人通りも少なく誰も受け取る人はいません。わたしはちょっと同情して受け取り、帰宅してからそのパンフレットを見ました。そこに書いてある内容の意味はよく解りませんでしたが、とても印象に残りました。

四、五日してその事は忘れ、また商店街で同じ女性に会いました。その時はお互いに面識もありましたので、十五分ぐらい立ち話をしました。女性は熱心に教会へ来る様に誘いました。必ず救われるからといわれました。わたしは救われるという意味は解りませんでした。わたしは健康上の問題もなく悩みなどありません。しかし、その方の熱意に負け、一度行く約束をしました。一度行ってつまらなければ二度と行くまい、そんな軽い気持ちでした。約束の場所と時間を聞いて、初めて教会へ行きました。そして、着いて驚きました。これが教会なのでしょうか? 十字架もなく、単なるビルの一階で事務所のような感じでした。しかし教会らしからぬ雰囲気が、わたしを安心させました。中に入ると十四、五人のクリスチャンの方々が歓迎して下さいました。しかも食事付きでした。その日は解らないながらも神の事や聖書の事など話していただきました。帰る時、彼らに毎週出席しますと、約束してしまいました。以上が、わたしが教会へ行くきっかけでした。それから二ヶ月ぐらい通い続け、出席するのがだんだん楽しくなりましたが、一つ重荷を負う事になりました。それはクリスチャンの方々より「バプテスマを受けるように」と言われたことでした。わたしは未だそんな気など無かったので悩みました。それからしばらく集会へ出席する時は針のむしろに座っているような気持ちでした。しかし、神やクリスチャンの方々に、一年間待って貰い去年の九月の末に、やっとバプテスマを通して救われました。クリスチャンの方々の仲間入りが出来た思いです。わたしは毎週木曜日の夜の集会に出席するようになってから二年余りになります。わたしにとって、この日は大切な日となっています。友人、知人などの誘いは一切受け付けず、この期間一度しか欠席しませんでした。現在、神や聖書の事は信じるようになりました。この二年余りの間、何度かわたしにとって喜び(福音)がありました。それはある主日の集会の時のことです。ある男性のクリスチャンの方のメッセージの中でヨハネによる福音書第四章十三節と十四節の事を述べていました。

「イエスは答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、また渇く.しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない.わたしが与える水は、その人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至るのである』」。

わたしは聖書の中で、この御言葉が最も好きです。初めに商店街で会ったが女性が配ったパンフレットの中にこの言葉が無かったら、わたしは教会に来なかったかも知れません。メッセージを聞いて、わたしは感動し集会が終わったらこのクリスチャンの方に会ってその事を詳しく聞こうと思い、男性を探しましたが会えませんでした。でも来週の日曜日に必ず会えると思い、次の週の日曜日に出席したところ、「彼は用事があって成田に出かけたそうです」。と告げられました。残念でむなしい気分で、教会をいつもより遅く出ました。ところが、帰る途中に京成津田沼駅で、彼とばったり出会いました。これほど喜んだ事は有りませんでした。何故なら、わたしと彼が会えた事は、単なる偶然ではなかったからです。わたしが、その日に彼に会えなくて残念な思いでしたが、その会いたい願いがかなったからです。もし、その日に会うのでは無く、何日後かに会ったのでは、わたしの喜びは半減したことでしょう。メッセージをされたクリスチャンの方にとってはわたしに会った事は偶然に過ぎませんでした。しかし、わたしにとってこれ程の福音は何十年ぶりかの事です。しかも彼から後で聞いたことですが、彼はいつもJR線を利用しているのですが、その日はたまたま京成線を利用したそうです。わたしが教会をいつもより遅く出て、彼が京成線を利用しなかったら、絶対に会えません。こんな偶然が有り得ましょうか?

これこそ神の恵み、神の奥義です。わたしはこの感動と喜びを、誰かに話したく帰宅し、さっそく街頭福音の時の女性や、別のクリスチャンの方に電話で知らせました。二人共喜んで下さいました。次の日曜日の集会では、何十人かのクリスチャンの方々の前でも話しをし、共に喜びました。

また、今日この証しをお読みいただいている方々にも、わたしの喜びが伝わることに、主と共に感謝します。

主よ、イエスよ、感謝しています。