光が待ち望んでいる日々

証し

中国大陸からはるばるアメリカにやってきて生活して16年たちました。この長い年月の中で、わたしは東海岸から西海岸へと、また西海岸から東海岸へと移動して、人生における多くの光と雨風を経験しました。就学から就職に至るまで、家庭から仕事に至るまで、常に見えない手が暗やみの中でわたしのためにともし火をつけて、わたしの前の道を導いてきました。わたしはすべてのことにおいて順調であり、人から見て、それは誇りに思うべきでしたが、わたしは自分が何をつかんだのかが徐々にわからなくなってきました。

思いもよらずに、突き進んで博士になった

わたしは大学入試を免除できる工農兵学生の最後の期生として大学に入りました。1979年において大学卒業後、わたしは学校にとどまって助教授となりましたが、自分が工農兵の帽子をかぶっていることに対して実に心地良くないと感じていました。こういうわけで、1980年に留学試験に参加し、83年の年末にやっとアメリカのボストンにやってきました。

アメリカに来たばかりの頃、わたしの英語の程度は低く、自分の専門でさえ、初めから学ばなければならなかったので、修士課程を得ることができれば満足すると思っていました。少なくてもそうすれば、工農兵の帽子を脱ぐことができます。しかしながら、1年後に、わたしの指導教授は、わたしの成績は博士課程の資格試験を受けることができるとわたしに告げました。このことでわたしは非常に驚きました。なぜなら、わたしは博士課程を取ることを考えたこともなかったからです。また、自分の学力の基礎は弱く、資格試験を合格するとは思わなかったからです。しかしながら、指導教授の数回にわたる励ましのゆえに、試験に合格して、博士課程の候補者となりました。

試験に合格した後、わたしと夫は、子供を産むことに決めました。そして1986年9月に長女が生まれました。当時、わたしは実験を教え、研究する必要があり、夫もクラスに行く必要があったので、わたしたちは交互に子供を顧みました。幸いなことに、娘はとても従順に育ち、わたしはよく彼女を学校へ連れて行き、彼女はわたしの仕事場において自分で遊んだり、廊下まで歩いて、夢に満たされている学生たちを見たりしていました。わたしの指導教授とクラスメイトはみな彼女と遊ぶことが好きでした。このことによって、わたしたちの退屈な研究室にいくらかの活気をもたらしました。わたしの研究ははかどり、わたしは5年の間に6つの論文を発表し、これらの論文を集めてわたしの博士論文としました。

誇っている時期の混乱

1988年の年末にわたしはまた妊娠しました。翌年の1月にわたしは仕事のために履歴書を2部送りました。幸運なことに、わたしはこの2つの仕事からオファーを頂きました。一つはわたしが学んだことと関係するものであり、もう一つは全く関係なく、ただ担当の指導教授が有名な専門家であることを知っていました。わたしは彼が何を研究しているかを知りませんでしたが、彼の研究課題に対して興味を持ったので、彼と仕事することに決めました。当時、わたしは自分が何も分かっていないことを告げると、彼は興味を感じて学ぼうとするなら、問題ないと言ってくださいました。こうして、妊娠4ヶ月のわたしは、このオファーを受け入れ、3月から仕事することになりました。2月のとき、わたしは博士号の面接を順調に合格しました。3月、わたしたちはカリフォルニアに引っ越して仕事を始めました。わたしが妊娠しており、さらに3ヶ月後に出産することを指導教授が知ったとき、彼はわたしを困らせることもなく、逆にとても関心を持ってくださいました。

これまで歩んできた中で、背後に輝かしい光がわたしを守り、わたしを導いて人生の旅路を歩んでいるかのように感じました。しかしながら、この光が何であるのかを理解できませんでした。それは見えず、触れることもできません。だれがわたしの命の光であるのでしょうか? わたしの人生の追い求める目標は何でしょうか? 身分でしょうか? 知識でしょうか? 学位でしょうか? わたしはこれらすべてが意外にもわたしを満たすことができないと知りました! その年の9月、わたしは3ヶ月の息子を連れて、ボストンに戻って卒業式に参加しました。すべてのクラスメイト、友達はみなわたしを誇りに思い、また学校の雑誌は、息子を抱いて卒業証書授与を待っているわたしの写真を載せました。しかしながら、そのときわたしは少しも興奮することなく、さらには言い表せない喪失感がありました。

家庭、仕事は満足しているようであったが空しさを感じた

仕事をして5年がたち、指導教授はわたしが徐々に熟練して、離れるべきであると感じていましたが、当時は仕事を見つけるのが難しく、将来がどうなるのかがわかりませんでした。しかしながら、指導教授と彼の助手の助けにより、すぐに仕事が見つかり、わたしたち全家族はニュージャージー州に引っ越しました。仕事は順調であり、同僚とも仲良くしていました。家において、夫は私に対して親切であり、二人の子供も良い子でした。すべてに満足し、他の人にとってはうらやましいものであったのでしょうが、何か足りない感覚が常にわたしを覆っていました。いわゆる人生の光り輝く道は、ただのこの世の仮想の光であって、わたしの心の奥にはなお、混乱と空洞があり、真に何かを得ていませんでした!

ある偶然の機会に、わたしはマクドナルドで一人のクリスチャンの姉妹に出会い、彼女の家の集会に招かれました。そのとき、毎回の集会の後、わたしは喜びを感じていました。その週の仕事がどんなに疲れていたとしても、彼女の家で集会することを楽しみにしていました。これは、わたしが生涯はじめて、引き寄せられる不思議な力を感じたときでした。わたしは信仰と聖書について何も知りませんでしたが、兄弟姉妹から流れ出る愛がとても単純であり、この世にはないものであることを見ました!

人の生涯は肉のために走り回る犬のようであるべきか?

後にわたしはある集会に参加しました。ある兄弟は雪のそりを引っ張る犬のたとえを用いて、わたしたちの一生は雪のそりを引っ張る一匹の犬のようであると表現しました。その犬はそりの前で揺れている一塊の肉のために必死になって走ります。あるときは生涯かけてもその肉を得ることができなかったり、あるときはその肉を得てもまた失望したりしています。このたとえはわたしのことを言っているようでした! 毎回わたしが誇りと満足を感じるべきときに、失望と喪失感を感じるのはなぜなのだろうか? わたしは生涯、何のために走っているのだろうか?

兄弟がまた語ったことは、神の永遠のご計画の完成とは、夫と妻のような、神と人との愛の物語における結末です。神は人を愛し、人は神を愛し、最終的に一つとなり、神と人が共に満足を得ます。わたしが今まで欠けており、渇望していたのは、実は主の愛であったことを知りました。わたしの人生の真の目標は、神と人がミングリングされて一になることです。このとき、わたしはもはや人生の空しさと退屈を感じなくなりました。わたしは命における真の輝かしい光をつかみ取り、主の御名の中へとバプテスマすることに決めました。

神の救いは家族を単位とします。一人が救われれば、全家族が救われます。確かに信仰の祈りの中で、主イエスが彼の力ある御手を用いて、わたしたちの全家族が救われるように環境を案配したことをわたしは見ました。わたしの夫は転職する過程の中で、深く主に触れられ、しばらくすると彼もバプテスマしてクリスチャンになりました。

全家族と主が共に歩み、光の中を歩む

夫が主を受け入れた後に、やっとわたしたちはアメリカに来てから16年経つ中で最も幸いな日々を送り始めました。なぜなら仕事と生活のプレッシャーがあり、夫はアメリカに来てから常に落ち込んでおり、冷淡で悲観的であり、心を閉じていたからです。しかし、主の愛は環境に対する彼の見方と態度を変え、積極性をもって消極性に置き換えて生活に対して完全に新しい認識を彼に持たせました。夫が主を信じた後、彼は子供の良さに注意を払い、徐々に励ましをもってののしることに置き換えました。子供たちもこのことによってさらに父親と親密になりました。わたしたちの全家族は、彼がこのように変えられたことを喜びました。実にこれは人にはできないことです! 何とわたしたちは主イエスを力強くつかんで、この驚くべき光である方と共に歩み、光の中を歩む必要があることでしょうか? これは何という祝福でしょう!

詩歌(単純な信頼)習志野に在る教会作成

記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第1巻より引用