朽ちる食物のために働くのではない
ヨハネによる福音書 第6章において、主イエスはあるしるしを行ない、五つのパンと二匹の魚を用いて五千人を養い、なおも余剰がありました。その夜、主イエスと弟子たちは群衆を離れ、カペナウムという所に行きました。二日目、群衆はイエスと彼の弟子たちがいないのを見ると、船に乗って彼を捜しに行きました。その後、彼らは海で主イエスと弟子たちを見いだしました。主イエスは彼らに言いました、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.あなたがたがわたしを捜し求めるのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためにではなく、永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい.……まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.……わたしの父が、天からのまことのパンを与えてくださるのである」(26―27節、32節)。群衆は主イエスに言いました、「主よ、このパンをいつもわたしたちに与えてください」。主はまた彼らに言いました、「わたしが命のパンである.わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしの中へと信じる者はいつまでも決して渇くことはない」(34―35節)。
飢えている群衆は主から食物を得て飢えを満たすことを願う
主が群衆に語った言葉から見ることができますが、群衆は飢えており、主から物質の食物を得て飢えを満たすことを願っていました。食物は人を満腹させることができます。ですから、原則的に、人を満腹させるもの、自分の必要を満たすために追い求めるものはみな食物です。あなたが金銭を追い求めるなら、金銭はあなたの食物です。あなたが学問を追い求めるなら、学問はあなたの食物です。あなたが家の事業を追い求めるなら、家の事業があなたの食物です。あなたが服装のファッションを追い求めるなら、服装のファッションがあなたの食物です。あなたが満足を得ることができると思って追い求めているものはみな、あなたの食物です。これらの食物は、テレビ、運動、音楽、娯楽なども含みます。今日、この世のすべての人はこの食物のために働いていると言うことができます。
物質的な食物は「朽ちる」もの
しかしながら、主イエスは彼らに告げました、「朽ちる食物のために働くのではない」。この「朽ちる」という言葉は非常に重い単語です。主イエスから見て、これらの食物、すなわち物質的なものはみな朽ちるものです。すばらしい衣服があるとしますが、あなたがそれを着なくても、そこに置いておけば徐々に朽ちていきます。最も美味しい食物があるとしますが、あなたは食べなくても、徐々に腐敗していきます。名声、地位も多くて数十年たてば過去のことになります。
主が言おうとしていることは、あなたがたは、現在のものだけを見て、将来のものを見ておらず、形あるものだけを見て、形のないものを見ておらず、地のものだけを見て、天のものを見ておらず、体だけを顧みて、魂を顧みておらず、暫時的なものだけを顧みて、永遠のものを顧みていない者であるということです。あなたがたは物質的な物を追い求めていますが、霊的なものを追い求めていません。しかしながら、あなたがたが追い求めているものはすべて朽ちるものです。ですから、あなたがたは物質的な食物を追い求めないでください。この朽ちる食物のために働かないでください。
中国の北の地方で、富は三代を超えないということわざがあります。この世代はあなたが富んで、次の世代は彼が富んで、さらに次の世代はわたしが富みます。あなたがどのように行なっても、一世代一世代富むことを守ることができません。不思議なことですが、この富む事柄は、人々の間で行き巡っています。学問、地位のようなものも、一つとして常に誰かの上にとどまることはありません。ただ人の上を少し経過するだけです。人生のすべては、短く、一瞬のうちに消え去るので、みな朽ちるものです。
朽ちる食物は真に人を満たすことはできない
惜しいことに、人々はこれらの朽ちる食物によって欺かれています。これらのものはみな朽ちるものであり、永存することができないものですが、人々は常にこれらの朽ちるものを追い求め、目を覚まして立ち返ろうとしません。人々は常に物質のものによって欺かれています。今日人々は、物質のものは現実であり、物質のものは現金に換えることができると叫んでいます。しかし、お聞きしますが、物質のものはいつまで現金に換えることができるのでしょうか? 物質のものはいつまで現実であるのでしょうか? それらを換え続けても、現実であっても、最終的になくなるのではないでしょうか?
なくならないものはありません。一人のすばらしい息子も、ある日はいなくなり、葬られます。すばらしい家庭も、不思議なことに、ある日なくなってしまいます。夫婦間の良い感情も、どうしたのかわかりませんが、ある日なくなってしまいます。なぜなら、これらはみな朽ちる食物であるからです! 人にとってそれは一つの欺きです! あなたがこれらを得たとしても、あなたはなお、空しいと感じます。これらのものは真にあなたを満たすことができないのは、あなたに欠けているもの、必要なものはこれらではないからです。
人々は自分に必要があることを感じますが、何が必要であるかを知らずに、ある間違った観念を持っています。それは、物質的なものが人を満たすことができると思い、力を尽くして物質の事物を追い求めることです。このことは、当時、主を尋ね求めた人たちのようであり、彼らは飢えていると感じていますが、自分たちの真の必要が何であるかを知らず、必要なのは物質のパンであると思っています。しかし、彼らは、自分たちが必要なのは永遠の命のパンであることを知りません。こういうわけで、主イエスは、朽ちる食物のために働いてはならないと彼らに告げました。
永遠の命に至る食物(キリスト)のために働きなさい
主イエスが語っていたことは、彼らの真の必要は物質の食物ではなく、永遠の命であることを彼らに見せるためでした。この命は、破壊することのできない、永遠に至る命です。主イエスは、この永遠に至る命の食物が彼ご自身であることを見せました。彼は、天から下ってきたこの世の人に命を与える方であり、彼は命のパンです。彼の所に来たものは、永遠に飢えることはありません。彼の中へと信じた者は、永遠に渇くことはありません。彼は人が必要な食物であり、彼だけが人に供給することができ、人に真の満足を得させることができます。彼だけが人の命となることができ、人を永遠に生きさせることができます。彼が人に与えるものは、物質のパンではなく、命のパンです。物質のものではなく、霊的な命です。
人の真の必要は命です。命がなければ、人生のすべては終わりです。なぜなら、人の行ないと趣味はみな命によります。人生において欠け目があるのは、命に欠けているからです。人生に必要があるのは、人の命に問題があるからです。人の命はすべて、欠け目のある空しい命であり、人生の必要を満たすことができません。また人の命はすべて、短くて死にゆく命であり、永遠に生きることができません。主イエスの命のみ、豊満で充実し、永遠に至るものであり、人生のすべての必要を満たすことができ、永遠に生きることができます。主イエスの命は彼ご自身です。彼は人の中に入り、人の命となり、人の供給となり、人の満足となります。ですから、彼はこのように言うことができます、「わたしに来る者は決して飢えることがなく」。飢えないということは、欠けることがなく、空しくないことです。飢えないということは、満腹し、満足しているということです。彼は、わたしたちがこの永遠の命に至る食物のために働くように告げています。彼は、わたしたちが彼を選び、彼を受け入れ、彼を得るように告げています。
親愛なる友人のみなさん、わたしたちは賢い人となる必要があります。賢い人は良い選択をします。なぜあなたは最上のものを選ばずに、二次的なものを選ぶのでしょうか? なぜあなたは永遠に至るものがあるのに選ばず、朽ちるものを選ぶのでしょうか? 数千年の人類歴史において、このことはすでに証明されているのに、なぜわたしたちはなおも物質のものによって欺かれているのでしょうか? なぜわたしたちはまだ目を覚まさないのでしょうか? なぜわたしたちはすぐにその永遠の命に至る食物を選ばないのでしょうか? この食物はキリストご自身です。彼がわたしたちの真の必要です。