この世代の描写

福音メッセージ

主イエスは言われました、「ところで、わたしはこの世代を何にたとえようか? それは、小さい子供たちが市場に座って、他の子供たちに呼びかけるのに似ている.彼らは言う、『わたしたちはあなたがたに笛を吹いたのに、あなたがたは踊らなかった.弔いの歌を歌ったのに、嘆き悲しむことはなかった』」(マタイ11・16-17)。

この世代は子供の遊戯のようである
今日の社会は競争社会であることをわたしたちは否むことができません。わたしたちはその中に生きているので、当然競争から逃れることができません。金儲け、昇進、高い地位に就くことなどに関する職場におけるすべては、極めて大きな誘惑です。全世界の人は、就学であれ、または就職であれ、みな一つのことのためにあります。それは、社会において一つの地位を得るためです。こういうわけで、人々は絶えず進取的になっています。しかしながら、聖書ではこのように言っています、「世と世の情欲は過ぎ去っていきます」(Ⅰヨハネ二・十七)。主から見て、この世のすべては子供たちの間の遊戯にすぎません。

しかしながら、この世の人はこの世代のすべてを大いなるすばらしいことであると見ています。人がさらに高い学位を得ようとするのは、さらに良い生活を持ちたいからです。さらに良い生活はさらに多くの享受を得ることを意味します。ある人は仕事で昇進するのは、さらに多くのお金を稼ぐためであり、さらに多くの物質的な享受を得るためです。人はきれいな服、豪華な車、この世の娯楽を愛するのは、これらが人の魂に享受を与えるからです。それだけでなく、ある人はすでに家を一軒持っているのに、五、六軒の家を持っている人をねたみます。すでにとても高い水準の環境にいるのに、なおも上に昇り続け、最高の権力、名誉、富を得ようとしています。この世代に対する世の人の展望は、さらに良くなり、さらに多く得るということです。すなわち、さらに良い生活、さらに良い家、さらに良い車、さらに良い…、さらに多くの…ものを得ることです。しかし、今日人の目に見える物、手に触れられる物はみな過ぎ去ります。人は物がなくならないことを望みますが、ある日、たとえ人の両手に宝、金銀が満ちていたとしても、死に打ち勝つことはできません。この世の人が切望している「未来」というのは、ただの短いこの世代です。

ある人はこのように証ししました、「わたしはよく他の人と組んで、ヒマラヤ山脈の中を旅します。あるとき、仲間の一人ののどが渇き、湿地の間に水を見つけて飲もうとしました。しかし、彼の兄は彼を止めて言いました、『そこに行ってしまったなら、泥にはまって戻って来れなくなります。わずか五マイル先には村があるので、少し我慢して、そこに着いてから飲みましょう!』。わたしたちはみな同じように止めようと勧めましたが、彼は聞き入れませんでした。彼は、『ここには泥がなく、ここの水も凍っています』と言いました。彼は水辺まで行き、泥は少ししか沈まなかったので、水を飲むことができました。しかし、戻って来ようとしたとき、泥の中に沈み始め、ひざにまで達しました。少し動こうとしたら、腰のあたりまで沈み、その後ゆっくり首元まで沈みました。彼の命は、まもなく終わろうとしていました。わたしたちには彼を救い出す方法がなく、だれもそこに行こうとしませんでした。なぜなら、そこに行く人はみな同じ危険に遭ってしまうからです。彼はこのような状況になって、叫んで号泣し、みなの警告を聞かなかったことを後悔しましたが遅すぎました」。これは、多くの人がこの世の物質的なものを愛しても彼らの心の渇きを満たすことができないことを知っているのに、またその危険を知りながらもそれをなおも愛することのようです。こうして彼らは、あの泥沼にはまった人のように最終的に滅びてしまいます。

主イエスは言われました、「この世代を何にたとえようか? それは、小さい子供たちが市場に座って、他の子供たちに呼びかけるのに似ている.彼らは言う、『わたしたちはあなたがたに笛を吹いたのに、あなたがたは踊らなかった.弔いの歌を歌ったのに、嘆き悲しむことはなかった』」(マタイ十一・十六―十七)。通常、子供たちは後先を考えずに目の前にある良いものを求めます。この世代の人はこの世のことを重んじますが、将来のことを見落としています。この世に対する人の展望とこの世に対する主の展望は異なっています。それは、主がこの世に来られて「笛を吹いた」、すなわち王国の福音を宣べ伝えたが、世の人は救いの喜びのゆえに「踊らなかった」ことと同じです。主は「弔いの歌を歌っ」て人が悔い改めるようにと望まれましたが、人は罪の悲しみで「嘆き悲しむこと」はしませんでした。神は世の人が悔い改めることを望みましたが、彼らは聞き入れませんでした。神の恵みは世の人に救いを与えますが、彼らは受け入れませんでした。主イエスはこの世代を軽く見られており、この世代は子供の遊戯でしかないというように見ておられます。主が重んじておられるのは、将来の結果です。

福音の嘆き
福音は人が重んじているものをこの世代から将来へと向けさせ、人の展望をこの世代から将来へと向けさせます。人がただこの世代だけを重んじているとき、人は自分の道徳の問題を感じません。人が将来を重んじるとき、人の良心は見いだされ、直ちに自分に罪があると感じるようになります。外見上輝かしく、麗しくても、いつも心に安息がなく、労苦し、重荷を負っていることはないでしょうか? 人は日々外側の物質的な享受を追い求めていますが、自分は罪の中にいると感じていないでしょうか? あの隠れた嗜好、ひそかに行なっている不道徳なことは、すべて自分によるのでしょうか?

ヘブル人への手紙第九章二七節は言いますが、「人が一度死ぬことと、その後、裁きが定められているように」人は死から逃れられず、神の裁きからも逃れられることはできません。死は一つの関門であり、人がこの関門を経過すると必ず裁きを受けます。聖書は将来に関する一つの事実をわたしたちに告げています。それは将来に関する事柄であるので、多くの人は注意を払いません。この事実とは、裁きです。罪が大きくても、小さくても、文明的であっても、野蛮であっても、見た目が良い罪であっても、見た目が良くない罪であっても、社会的に非難を受けている人であっても、社会的に好評である人であっても、いずれにしても、みな神の裁きを受けます。人は自分がいつ死ぬのかを知ることができず、またいつ裁きを受けるのかを知ることができません。もし、今日人はなおも罪を犯し、なおもこの世のために生き、なおも自分の快楽のために追い求め、なおも罪を犯すことを職業としているなら、裁きの問題に注意を払わなければなりません。「裁き」の原文は、「罪定め」と同じ字であり、「死ぬことと、その後、裁きが定められている」は、「死ぬことと、その後、罪定めが定められている」と訳すことができます。罪を犯した結果は神に裁かれて罪定めされることです。この事に関して、だれ一人逃れることができません。

ですから主が人に宣べ伝えた福音は、第一に人に向かって嘆くことです。嘆く第一の理由は、人は自分に罪があることを自覚していないということです。ヨハネの第一の手紙第一章八節は言います、「もし、自分には罪がないと言うなら、わたしたちは自分を欺いている」。通常、人はみな他の人を欺きますが、自分を欺こうとしません。しかし、無意識に人は自分を欺いています。自分には罪がないと言う人は、自分を欺いています。自分には罪がないという人は、神の救いを拒んでいます。それによって、主イエスの恵みは彼に臨むことができなくなり、彼は救いの機会を失ってしまいます。どれだけの人が今自分には罪がないと言っているでしょうか? 彼らは自分が道徳的な人、宗教家、この世ではとても良い人であると思っており、自分が行なっていることは良心にしたがっていると思っています。彼らは自分を良い人であると思っており、自分には罪がないと言っています。多くの人は常にこのように言っています、「わたしには何の罪があるのか? わたしの罪はどこにあるのか?」。これは、まことに自分を欺いています。人は自分を欺いているゆえに、滅亡の途上にいながら自覚していません。自分に罪があることを感じていないので、依然として神に背いて滅亡に向かう道を選んでしまっています。

しかし、別の選択をした人もいます。それは罪がまことであり、明確な事実であることを知り、救い主を必要としました。彼は、神の御子が人の罪を担われたことを知りました。彼は、神の御子が人を贖うためにご自身の血を流されたことを知りました。彼は、罪の問題が解決されると裁きの問題も解決されることを知りました。ここに方法があり、ここに救いがあります。

こういうわけで、主の福音は人に向かって嘆くことであり、人が自覚し、信じて悔い改めることができることを望んでいます。この世の人が追い求めている目標は、常に他のものであり、人は神に背き、神を必要とせず、神を追い求めません。以前、人は何を行なっても神を得ることはできませんでしたが、人が悔い改めて神に立ち返ったことによって、神と共に歩む生活ができるようになりました。ですから、福音である主がこの世の人に臨んだことは、人が神に立ち返り、悔い改めることによって思いを変え、人生の追求を転換するように神が願っているということです。救い主はただ一人であり、それはイエスです。救いもただ一つの道しかなく、それは主イエスを信じることです。「この方(イエス)のほかに、救いはありません.わたしたちが救われるべき名は、この名のほか、天下のだれにも与えられていないからです」(使徒四・十二)。人が悔い改めて彼を信じ、救い主としての彼を受け入れたなら、もはや罪定めされず、罪の中に生きることはなくなるでしょう。

福音の笛を吹く
福音の目的は、悪い知らせをわたしたちの前にもたらして、わたしたちは死んで裁きを受けることを告げることではありません。もし福音にただ消極面の嘆きしかなければ、福音は「災いの音」になってしまいます。福音が福音であるのは、その嘆きがその笛を吹かせるからです。笛を吹くことは人を喜ばせるためです。なぜならこの主イエスはわたしたちの罪のために十字架上に釘づけられたからです。福音があらかじめ裁きを人に見せるのは、人にはある必要があり、それは罪を担ってくださる救い主が必要であるということを見せるためです。わたしたちには罪があり、裁きを受けるべきです。しかし聖書は、神の御子がわたしたちの罪のために死なれたことを告げています。この言葉は、わたしたちの口において、とても甘いです。わたしたちの耳には、音楽よりも心地良く聞こえます。わたしたちの思いにおいて、詩のようにとても美しいものです。神の御子が来てわたしに代わって死なれ、十字架上でわたしの罪を担われ、わたしに代わって罪の刑罰を受けられました。こうして、わたしは救われ、自由になりました。これは福音です!

アメリカの南北戦争のとき、ある二人の兄弟がおり、一人が北方に住んでおり、もう一人が南方に住んでおり、それぞれ政府に徴兵されました。あるとき、南方軍が敗れて、多くの兵士が北方軍に捕虜とされました。その兄は捕虜を監視する責任を負っており、捕虜の中に彼の弟がいることを見いだしました。昼間のとき、彼は何もできませんでしたが、夜になって彼は自分の服を脱いで彼の弟に着させて逃しました(なぜならそのときの捕虜は、二日目に処刑されるからです)。彼は弟の服を着て、弟に代わって捕虜となりました。二日目の朝にこの兄は処刑されました。だれかが処刑された者がその本人ではないことを見いだしましたが(本人を再び捕らえることもできましたが)、法律の手続きにより、彼の兄はすでに彼に代わって死に、一人が二回死ぬことはできないので、彼を去らせるほかありませんでした。この物語から、イエスがわたしたちのために死なれたことの小さな表れをわたしたちは見ることができます。

イエスは社会に奉仕するために来られたのではなく、博愛平等主義を唱えているわけでもなく、人の模範となるために来られたわけでもありません。これは福音ではありません。聖書がわたしたちに告げているのは、イエスがわたしたちに代わって裁きを受けられたということです。本来わたしたちが死ぬべきでしたが、イエスはわたしたちに代わって死なれました。主イエスは十字架上で言われました、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」(マタイ二七・四六)。彼がわたしたちの罪を担われたので、そのとき神は彼を離れざるを得ませんでした。主が天から来られたのは、わたしたちが天へと行くことができるようにするためです。彼が神から離れてこの世に来られたのは、わたしたちが神に近づくことができるようにするためです。彼が貧しくなられたのは、わたしたちが富むことができるようにするためです。彼が地上に来られたのは、わたしたちが地から離れることできるようにするためです。彼が来られてわたしたちの罪を担われたのは、わたしたちが罪から逃れられるようにするためです。彼がわたしたちに代わって裁きを受けられたのは、彼を信じるわたしたちがみな、裁きから逃れられるようにするためです。この主イエスがわたしたちの裁きを担われ、わたしたちに代わって刑罰を受けられました。

友人のみなさん、もし、あなたが神を必要とするなら、ただ心の中で信じて、あなたの救い主として彼を受け入れてください。彼はあなたのすべての罪を赦され、あなたに永遠の命を与えてくださいます。この永遠の命があなたの中に入ると、あなたの人生に満足があるようになります。これらのことは、わたしたちを喜ばせるものであり、これらの言葉は、実に音楽のようです。聖書の中で、「ヨベル」という言葉があり(レビ二五・十)、この言葉は、叫び、喜び、角笛を鳴り響かせる、告げ知らせるなどの意味を含みます。神がわたしたちに与えられた救いはヨベルであって、悲しみを告げ知らせることではなく、哀歌を宣言することでもなく、福音を宣べ伝えることであり、それは神をわたしたちに告げ知らせる大きな喜びのメッセージです。

人の反応
しかしながら、世の人は主イエスの嘆きに対して理解することなく、むしろそれは狂った行ないであると言い、精神病を患っていると考えています。ある人は、これは罪であり、あれも罪であるという主を信じる人の証しを聞いたとき、クリスチャンは狂っていると言いました。しかし、友人のみなさん、あなたの良心は一度でも、あなたは罪人であると告げたことがないでしょうか? 静まった夜にあなたが良心に触れたとき、自分に罪があると感じたことはなかったでしょうか? あなたがとても苦しいとき、罪の問題とその解決法を考えたことはなかったでしょうか? あなたが一人でいるとき、将来起ころうとしていることを考えたことはなかったでしょうか? あなたの生涯において、人はどこから来て、どこへ行こうとしているのかを尋ねたことはなかったでしょうか? あなたの良心はそんなに鈍っていないと信じます。あなたの良心は必ずあなたの状況を告げているはずです。周りにいるあなたを愛する者は、もはや神のない生活をすることがないようにと、あなたに向けて嘆き、思い起こさせているのです。もし、あなたが滅びの恐ろしさを見たなら、悲しんで悔い改め、もはや麻痺させられている生活をしないでしょう。

また世の人は福音の笛を吹くことを受け入れず、それはとんでもない無駄遣いであると言います。主イエスが彼らに笛を吹いたのは、救いを罪人にもたらし、彼らがその中で喜びを得るためです。彼は喜んで人と共に食べ飲みしましたが、主イエスは食をむさぼる者であると世の人は言います(マタイ十一・十九)。この世の人はクリスチャンの喜びの生活に対しても批判します。彼らは、クリスチャンがよく集まり、生活の中で喜びのゆえに賛美していることを見慣れていません。彼らはクリスチャンが笛を吹くことを受け入れず、むしろ彼らは時間を無駄にしていると言います。彼らは、「なぜ集会することに多くの時間を費やすのに、本を読んで、残業してお金を稼ぐことに時間を多く使わないのか? なぜ集会に行くのか?」と言います。クリスチャンがこのように集会し、聖書を読み、祈ることはすべて無駄であり、時間の無駄遣い、体力の無駄遣い、財力の無駄遣いであると彼らは思っています。

知恵のある者の選択
福音に対する一般の人の反応は、みな受け入れたくないというものです。しかしながら、死は定められており、裁きも定められていることをわたしたちは見ました。しかし、神はわたしたちを愛され、わたしたちのために救いを備えてくださいました。彼の御子はすでにわたしたちのために死なれました。ですから友人のみなさん、今日イエス・キリストをあなたがたの救い主として受け入れてください。わたしたちは知恵のある選択をしなければなりません。わたしたちは将来を重んじるべきであり、この世に重きをおくべきでありません。わたしたちはキリストを必要としており、罪の中の喜びを必要としていません。福音が嘆くとき、わたしたちは悲しみ、福音が笛を吹くとき、わたしたちは踊ります。わたしたちは悲しんで悔い改める心をもって福音の嘆きに応じ、喜びの感情をもって福音の笛を吹くことに応じます。すべての親愛なる友人がみな知恵のある選択をして、この世の描写をはっきりと認識し、速やかにこの神をあなたがたの救い主として受け入れますように。この知恵のある選択は、あなたがたをかつてない喜びの味わいへともたらすことを信じます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第7巻より引用

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