だれが律法を行なうことができるのか?

福音メッセージ

人が堕落したとき、罪が人の中に入ってきました。しかしながら、人は自分がどれほど邪悪であるかを理解していませんでした。このゆえに、神は人に律法を与え、人が罪深いことが暴露されるようにしなければなりませんでした。人は律法の要求によって暴露されましたが、依然として自分が罪深いことを認めませんでした。逆に人は不当に律法を用いました。それは、このように言っているかのようでした、「律法はすばらしい。わたしはそのすべての要求を満たそう」。実際に人は律法を守ろうとすればするほど、ますます律法に違反します。人が律法に違反すればするほどほど、ますます暴露されます。ですから、人には罪の問題があるだけでなく、律法の問題もあります。

人の本性――
律法を行なうことができない
聖書の記載において、イスラエル人がエジプトの地を出た後、シナイの荒野にやってきました。そのとき、モーセはエホバ・神のすべての言葉、おきてを民に聞かせました。民はみな共に答えて言いました、「エホバが語られたことをみな、わたしたちは行ないます」(出十九・八)。これは積極的な応答のようでしたが、それは彼らが自分を認識していないことを示しています。彼らはまもなく神の言葉からそれてしまいました。モーセがシナイ山で神と共にいたとき、神は民をテストし、民に試練を与えました。民はモーセが山から下りて来るのが遅いのを見て、アロンに向かって集まって来て、彼に言いました、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください.わたしたちをエジプトの地から連れ上った人、あのモーセがどうなったのか、わからないからです」(三二・一)。こうしてアロンは子牛を鋳造しました。彼らは、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ!」(四節)と言いました。神は以前、偶像を造ってはならず、それらにひれ伏してはならないと彼らに命じられました(二〇・四―五)。しかしながら、このときにイスラエル人は偶像礼拝の罪に陥っていました。彼らの口では神の命令を行なうと聞こえの良いように言っていましたが、神は彼らができないことを認識するのを願いました! これは、人が善を行なうことができ、律法を行なうことができると思っていることを示しています。これは人が自分を知らないことの最も有力な証明です。

福音書で語られていましたが、主イエスが地上におられたとき、富んでいるある若者がやってきて、彼に尋ねました、「先生、永遠の命を持つためには、どんな善い事をすればよいでしょうか?」。その日、主イエスは彼に言われました、「もしあなたが命に入りたいなら、戒めを守りなさい」。彼はイエスに言いました、「どの戒めですか?」。イエスは言われました、「殺してはならない.姦淫してはならない.盗んではならない.偽証してはならない.あなたの父と母を敬え.自分のようにあなたの隣人を愛せよ」。その若者は彼に言いました、「それらの事はすべて守ってきました。まだ何が欠けていますか?」。イエスは彼に言われました、「もしあなたが完全でありたいなら、行ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい.……そして来て、わたしに従いなさい」。その若者は、この言を聞いて、悲しみながら立ち去って行きました。彼は多くの資産を持っていたからでした(マタイ十九・十六―二二ルカ十八・十八―二三)。

主イエスがその若者に難題を出した目的は、人は律法を行なうことができないことを彼に知らせたかったのです。人は善を行なうことができると思っていますが、人にはまったくできないことを知りませんでした。あなたは良い行ないができると思うでしょうか? あなたは親を愛することができると思うでしょうか? 実はあなたはなおも自分を愛しているのです。あなたは罪深い試みに打ち勝つことができるでしょうか? 実際に、人は少しの罪に抵抗することもできません。小さな試みにも打ち勝つことができません。ある人は強敵に勝つことができますが、弱い女に勝つことができません。ある人は千万の軍隊に勝つことができますが、一本のたばこ、一つの賭博の牌、一杯の酒に勝つことができません。不当な飲食、淫行、賭博は、体を傷つけ、名誉を損なわせ、家庭を崩壊させ、妻と子に迷惑をかけることを知らない人はいるでしょうか? しかしこの試みがくるとき、人は惑わされ、罠にはまってしまいます。あなたは今、なおもそれから逃れることを期待し、もがいているかもしれませんが、依然として失敗し、無駄に終わっています! かんしゃくは小さいことのようですが、だれがそれに打ち勝つことができるのでしょうか? 情欲という人にまとわりつき、人を悩ますものに打ち勝つことができる人はいるでしょうか? あなたの意志は堅いかもしれませんが、情欲はさらに力強いです! 今日において、多くの人の生活はまさに情欲によって左右され、支配されています。

あなたが善を行なおうと願うとき、自由に行なわせない力があなたの内側にあるということをあなたはすでに見いだしているかもしれません。結果として、あなたは「善をしようと欲するのですが、善を行ない出すことはないからです」(ローマ七・十八)。あなたは善を行なうことができないだけでなく、悪にも打ち勝つことができません。あなたが口で約束することは、必ずあなたの手で行ない、脚で歩むようになるとは限りません。人は律法を行なおうとしますが、人の力ではできず、心で願ってもできません。

律法は人の状況を
明らかにするためである
神が律法を与えたのは、イスラエル人に守らせるためではなく、イスラエル人の真の状況を明らかにするためです。律法の機能は鏡のようであり、人の罪の性質と邪悪な行ないを暴露します。律法が入り込んできたのは、違犯が増し加わるためです(ローマ五・二〇)。同じように使徒パウロは言います、「律法によらなければ、わたしは罪を知りませんでした.『あなたはむさぼってはならない』と律法が言わなかったなら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」(七・七)。これは、パウロが律法を見る前にむさぼりがなかったことを言っているのではありません。以前から彼にはむさぼりがありました。彼には常にむさぼりがあり、またよくむさぼっていましたが、彼は知りませんでした。律法が彼に告げるまで彼はそれを知りませんでした。ですから、律法は人が本来行なっていないことを行なわせたのではなく、ただ人がすでに持っているものを現し出しただけです。ですから、神が人に律法を与えたのは、人に守らせるためではなく、違反させるためでした。しかし、それは人に違反させる機会を与えるのではなく、人が違反することを見せるためです。律法は、神がすでに見たものを人にも見せます。

こういうわけで、今日人が神の律法を守らなくても、自分はどれだけ腐敗しているかをあまり感じません。人が律法を行なおうとするときに、やっと人は罪がどこにあるのかを知り、罪がどれだけ邪悪で腐敗しているのか知り、人がどうしても律法を守ることができないことを知ります。

すべての人はみな律法に違反した
律法は人に自分の内側がどうであるのか、特に人の内側がすべて罪であることを見せています。人が物を盗まなければ、律法に盗みというものはなかったでしょう。人が物を盗むので、律法に盗んではならないという項目があります。律法の存在は罪があるからであり、人に罪があるから、律法が入り込んできました。

神がシナイ山で与えた律法のおもな内容は十の戒めです。前半の五つの戒めは、他の神々を持ってはならないことから親を敬うことまで述べています(出二〇・三―十二)。後半の五つの戒めは、殺し、姦淫、盗み、偽りの証し、むさぼりをしてはならないことを述べています(十三―十七節)。律法は、人がみな戒めを破ることを暴露します。例えば、最初の三つの戒めは、他の神々を持ってはならないこと、いかなる偶像も持ってはならないことを求めています(三―七節)。これは一つの事実を暴露しています。すなわち、多くの事物は人にとってみな偶像であるということです。物質の像を造ってはならないことを旧約はわたしたちに告げていますが、新約では、むさぼりでさえ偶像礼拝であるということをわたしたちに告げています(コロサイ三・五)。この他に、人は常に、また生まれつきうそをつきます。ある人が電話をして、「あなたの父親は家にいますか?」と尋ねると、相手は、「彼は家にいません」と答えますが、彼の父はそこで新聞を読んでいます。人は常に互いにうそをつきます。子供は親にうそをつき、夫と妻は互いにうそをつきます。人はまたよくむさぼってはならないという戒めを破ります。わたしたちは他の人の財産がわたしたちよりも多いことを見ると、彼らが持っているものをむさぼります。ある人は高価な車をむさぼります。学校では、男の子がクラスメートの高い鉛筆をむさぼります。律法は、わたしたちが親を敬うべきであることを告げていますが、堕落した人であるわたしたちは、しばしば親を敬う行動をしません。これはみな、律法の前における人の状況を告げており、だれひとり律法の前に立つことはできません。

神の律法は愛、光、聖、義であり、人の罪を明らかにし、人を罪定めします。律法が現れるときは人を恐れさせます。同じように、神がシナイ山で律法を与えるときも、火の中で下られました。その光景はとても恐ろしく、雷、いなずま、濃い雲、角笛が非常に大きく鳴り響き、その場にいたイスラエル人はみな震え、遠くに立って、近づこうとせず、さらに彼らは死ぬことを恐れたので、神ではなく、モーセが彼らと話すように求めました(出十九・十六―十九、二〇・十八―十九)。神は聖、義であり、また栄光に満ちています。彼は十の戒めを与えましたが(三―十七節)、だれもその要求に到達することができません。ですから、世の人はみな罪を犯し、神の義に触れ、神の激怒の下に陥ってしまいました。神の激怒は轟音を伴う雷のように、人の上に落雷しようとしています(エペソ二・一―三ヨハネ三・三六)。

神の救い
神は宇宙を管理されている主であり、すべてのことに対して彼には規則、法則、決まりがあります。神は少しも乱れておらず、少しの妥協もありません。しかしながら、彼が創造された人は、彼の律法に違反してしまいました。彼は、親を敬いなさいと語られましたが、人は親に逆らいました。彼は、人を愛しなさいと語られましたが、人は互いに憎んでいます。彼は、誠実になって、偽ってはならない、または偽りの証しをして他の人を欺いてはならないと語られましたが、今日の社会において、あらゆるところは虚偽と偽りの言葉に満たされています。ですから、地上における人の行ないは、完全に神の法規に違反しています。このような状況において、宇宙の主の御前はおろか、国の政府の前でさえ、民が法律を違反したなら、制裁を受けます。神の義と彼の律法によれば、彼は人を制裁し、人を死に渡さなければなりませんでした。しかしながら、彼の心は人をとても愛しており、人を得なければなりませんでした。ですから、神ご自身が人の中に入って来られ、イエスという人と成られ、人に代わって人の地位に立ちました。

律法の最後の要求、すなわち最高の要求は死です。同じように、人が国の法を犯したとき、処刑されるべきです。この人が処刑された後、法律はもはや何も行なうことができません。律法の要求は死までであり、死んでしまったなら、すべてが解決されます。ですから、主イエスの死は律法を結びます。彼は十字架上で、わたしたちに代わって神の裁きを受け、わたしたちに代わって神の刑罰を受け、わたしたちに代わって死の苦しみを受け、神の義の要求を満たされました。神の救いは功績をあげ、徳を持って罪を贖うのではなく、彼の不思議な置き換えによります。この置き換えは贖いです。キリストはわたしたちに代わって律法の罪定めと刑罰を受けられ、律法における死ののろいからわたしたちを贖い、律法の罪定めから逃れさせてくださいました。

神の命は律法を行なうことができる
神が律法を用いてわたしたちが罪人であることを明らかにした目的は、わたしたちが救われるためです。また、人の命は律法を守ることができないということをわたしたちに見させるためです。神のすべての命令、すべての要求は、人が行なうことができません。ただ神だけができます! 聖書は言います、「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいから贖い出してくださいました.……わたしたちが信仰を通して、約束されたその霊を受けるためなのです」(ガラテヤ三・十三―十四)。わたしたちが約束されたその霊を受けたということは、実は神ご自身をわたしたちの中に受け入れ、わたしたちの命とすべてとするということです。旧約では、人は努力して神の命令を行ないました。今は神の霊が人の内側にいることによって、人は行なうことができます。以前は、律法を与えるのは神であり、力を使って守るのはわたしたちでした。今は、律法を与えるのはなおも神ですが、力を出してこの律法を守るのも神です。キリストはわたしたちの中に入ってきてわたしたちの命となったのは、わたしたちが神の要求を行なうことができるようにするためです。

わたしたちは自分ができないということを見るだけでなく、さらに神はできるということを見る必要があります! あの若者はただ自分ができないことを見ただけでした。実際に、彼は悲しみながら立ち去って行く必要はありませんでした。彼はこのように言うことができました、「主よ、わたしにはできません。わたしは本当にできません。わたしを救ってください!」。もし、人は自分が善を行なうことができないと認めるなら、すべてが良くなります。主の目的は、自分ができないことを人に見せることです。常に神は人に自分の真の状況を見せています。自分ができないなら、終わりであるとは思わないでください。人ができないことは、神ができることの始まりであり、神ができることを現し出すときです。キリストの命がわたしたちの中に入ってきてわたしたちの命となるとき、自然に外側の生活が変わってきます。神の命が人の内側で人に代わって生活することによってのみ、人は律法を行なうことができます。これが福音です。神の福音は、これを犯してはならず、あれを犯してはならないというものではありません。それは、あなたが地を這う草のようであり、常に地を這い、日々自分に対して、「罪を犯してはならない、罪を犯してはならない!」と言っているようなものです。これは福音ではありません! 神がわたしたちの中に入ってきて生き、彼の要求を満たすのです。これが福音です!

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第5巻より引用

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