人類六千年の歴史から見ることができますが、一つの民族が文明的であれ、野蛮であれ、人の内側には神を礼拝する渇望があります。なぜなら、人の内側には霊があるからです。これは、人に胃があるので、食事をする必要があるということと同じです。同様に、わたしたち人の内側には霊的な胃、すなわち、わたしたちの霊があるので、わたしたちは神に対する必要があります。たとえ人が堕落し、神から離れたとしても、人の深いところにある霊は、依然として神を尋ね求め、神を礼拝する傾向があります。こういうわけで人は暗やみの中で模索し、真の神を見いだせなかったので、神を礼拝する方式、方法、儀式、規則を自分で発明しました。これが宗教の起源です。それでは、人の発明した宗教と神の救いはどこが違うのでしょうか?
人の宗教
宗教はみな人の発明である
聖書はわたしたちに見せていますが、神が人を造られたとき、神に触れ、神を受け入れ、さらに神を入れて神を表現するために、人に霊を与えられました。このゆえに、人の内側には神に対する必要があります。この神を必要とする感覚は生まれながら持っているものであり、神が造られたものであって、自然と人の内側にあります。本来、神は人のすべてであるべきでした。しかし、人が神の御顔から離れ、遠く神から隔離されたので、人の深みにある最も大きい必要が満たされませんでした。このとき、人は各面の必要を満たすためにあらゆる文化を発明しました。人は精神における喜びと享受が必要であったので、楽器を造り、音楽を発明し、自分で楽しみました。また、人が堕落した後、地は呪われ、地からの産出が制限されたので、人は腹を満たす必要のために、争いを始めました。さらに人は身の安全と保障の必要のために、刀、剣、槍、矛などの武器を造りました。しかしながら、人の最も深いところにある霊の神に対する必要は、始終満たされることがなかったので、宗教を発明しました。
宗教はすでに人類の第二世代において生まれました。そのとき、アダムとエバの長男であるカインは神を礼拝しようとしましたが、彼は自分が地で耕して得た産物を神にささげて神を喜ばせようとしました。しかしながら、人が初めて罪を犯して堕落した後、アダムとエバは自分たちが裸であることを恥ずかしく感じて、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰を覆うものを作りましたが、神はそのようなおおいを認めませんでした。こういうわけで、神は罪のためのささげものとして小羊をほふり、小羊の皮で衣を作って彼らを覆いました。これは、神は血を流すささげものを用いて彼の義の要求を満たしたこと、またその犠牲の皮を用いて堕落した裸の人を覆ったことを示しています。神の定められた救いは、動物の血を流すことを通して、罪のための犠牲をささげることによって、人が神に受け入れられることができるということです。しかし、カインは自分の観念にしたがって、神を礼拝する自分の方法を発明しました。それには、血が流されることはなく、犠牲の皮のおおいもないので、神を喜ばせることはできませんでした。カインは自分の意見にしたがって神に仕え、人の思いにおける宗教を発明しました。これは、人が神に対する自分の想像と観念に基づいて発明した神を礼拝する方法です。
歴代において、無数のカインの追従者は、あらゆる時代にそれぞれの宗教を発明しました。また、ある宗教は無神論の宗教です。わたしたちがよく知っている主要な宗教の中で、儒教は実際に宗教ではなく、一種の倫理の哲学であり、孔子が創立した倫理の哲学です。孔子は鬼や神を敬っており、そこから離れて専ら倫理を語り、人の基準としています。仏教の中には神はおらず、仏教が重んじていることは善を行ない、徳を積み重ね、修練して仏となることです。道教は修練し、仙人となり、人性を変えることを重んじており、同じように神はありません。これはもう一種類の宗教であり、神のない人を元とする宗教です。
人を元とする宗教は、人が自分の経験の中で、自分が堕落し、罪があり、人生はむなしいことを見いだしたので、人性を改良する宗教を発明し、あらゆる人為的な方法を通して、自分を罪から逃れるように救い出そうとします。現在のこの世における多くの宗教にはみな一つの共通点があります。それは人に善を勧めることです。しかしながら、今の問題は人が善を行ないたいか、行ないたくないか、行なうか、行なわないかではなく、善を行なう力が人にあるかどうかです。勧めて、導く者がいるかどうかの問題ではなく、人が善の事柄を行なうことができるかどうかの問題です。実際において、宗教はさらに多く教えを得て、さらに多く勧めるだけであって、人を罪から離れるように助けることができず、ただ罪の中で自分を苦しませています。
宗教は人の行ないを重んじる
すべての宗教は、神を元とするものであれ、人を元とするものであれ、みな崇拝と教えがあります。「宗」の意味は、一人の神、または人を崇拝することです。儒教は孔子を崇拝し、仏教は釈迦を崇拝し、道教は老子を崇拝します。いずれにしても崇拝があります。「教」は「宗」において崇拝している方に基づいた教えを実行し、どのようにして神を礼拝するか、またはどのように振る舞うかを人に教えます。宗教の重きはみな、人工的な修行と人に善を勧めることによって良い結果を得ることにあります。例えば、「善を積み重ねた者には喜ばしいことが起こる」は、この思想です。多くの人は、クリスチャンの信仰も人に善を勧めることに過ぎないと思っていますが、実はこれは神が人に行なってほしいことではありません。逆にそれは、サタンの混乱から出てきており、あらゆる宗教を用いて神の救いを遮っています。
すべてカインのように、宗教に重きを置いて、神を喜ばせようとする人は、神に受け入れられません。なぜなら、人の天然の存在はすでに不純であるからです(アダムが神に創られたときは純粋でしたが、堕落によって、神の敵であるサタンは彼自身、すなわちあの邪悪な者を人の中に注入しました)。ですから、人が自分によって行動するどんなときも、悪魔と連合しています。人が良いことを行なうときでさえそうです。カインが地の産物を供え物として神にささげるとき、サタンも彼の行動の中にかかわっています。神が彼の供え物に目をとめられなかったことをカインが知ったとき、彼は「ひどく怒って顔を伏せ」ました(創四・五)。最終的にカインは彼の弟であるアベルを殺しました(八節)。それは人の第二の堕落です。ここから見ることができますが、人が自分の思いによって善を行ない、良いことを行なおうとするなら、結果として、必然的にサタンの策略に引っかかり、滅びに至るでしょう。
宗教は人を神から離れさせる
人の第一の堕落は、アダムが神以外のものを自分の中に受け入れたことであり、人の第二の堕落は、人が宗教を発明したことから始まります。この堕落は罪を犯すことから始まったのではなく、人の観念にしたがって神を礼拝したことから始まりました。これはわたしたちに見せていますが、人が作った宗教は人を堕落から救い出すことはできず、逆に堕落を続けさせ、結果として人を殺す行動を起こしました。こういうわけで、宗教に重きを置く者はみな神と交わることができず、逆に神から離れ、さらに罪に陥って、神の救いに対する認識を損ないます。
神の救い
神の啓示による
アダムが堕落した後、神は、犠牲をほふって血を流して人のために罪の贖いを行なうように指示されました。この犠牲が血を流して罪を贖うことは、神が始められたものであり、神の指示です。アダムとエバはこの福音を彼らの子供であるカインとアベルに伝えたに違いありません。そこで神がどのようにして彼らを創造されたのか、どのようにして善悪知識の木を食べてはならないと彼らに命じられたのか、どのようにして彼らは神に聞き従わず、その木の実を食べたのか、またどのようにして恐れおののいて死の判決を待ったのか、どのようにして神が来て彼らに福音を伝えられ、女の子孫が蛇の頭を打ち砕く約束をされたのかを彼らに告げたことでしょう。この他に、どのようにして神は犠牲としての小羊をほふり、皮を衣にして彼らの裸を覆って彼らが神の御前に立ち、神と交わりを持つことができるようにされたかを、アダムとエバは子供たちに告げたに違いありません。次男であるアベルはこのような福音を聞いた後、神の指示に従って羊を飼う者となり、羊をささげ物としてささげました。当時の人は肉を食べなかったので、このようなアベルのささげ物は、彼自身の必要からではなく、神の必要から出てきたものであり、また神が啓示されたものです。ですから、アベルのささげ物は神に受け入れられました。
カインの側では、彼はこのように考えていたに違いありません、「もし、わたしが誠心誠意でわたしの仕事をもって神にささげるなら、彼はわたしを喜ばれるはずです」。しかし、カインのささげ物は彼自身の発明した宗教活動であり、人が神の救いの道から離れて、苦行を志すことと同じです。ですから、聖書はこのように告げています、神は「カインと彼のささげ物には全く目をとめられなかった」(創四・五)。神はこのようにカインに告げたかのようでした、「あなたはいくらか敬虔なことを行ないましたが、これはわたしに対する奉仕ではない。あなたはあなた自身の観念で奉仕をしている。わたしはこの供え物を受け入れない」。今日のあらゆる宗教において、多くの新しく発明した方法があります。このような発明はすべて人の主張です。
救いはキリストの贖いと
救いを信じることに重きがある
アベルは「彼の羊の群れの初子から、すなわち、その脂肪の部分からささげ物を持って来た」(四節)。アベルは血を流すささげ物が必要であることを知っていました。彼が脂肪をささげたことは、犠牲がすでにほふられ、血がすでに流されたことを表します。彼は、自分が堕落した両親から生まれ、神の目に邪悪で、罪深く、汚れていることを知っていました。アベルは「信仰」によって、神にささげました(ヘブル十一・四)。アベルは、両親から福音の宣べ伝えを聞き、それらの言葉から信仰を得たに違いありません。彼はこのような信仰を持っていたので、この信仰を活用し、またこの信仰に基づいて神にささげました。アベルがささげたささげ物である小羊はキリストの予表です。ですから、アベルは彼のおおいとしてのキリストを受け入れ、神に義とされたのです。
アベルが行なったことは新約の福音と完全に一致します。この福音はわたしたちに告げていますが、神に受け入れられ、神を満足させるために、人はキリストの血の清めを必要とし、またキリストご自身に覆われる必要があります。なぜなら、人はどんな修行をしても、良いことを行なっても、人の罪を解決することはできません。キリストが死んで血を流さなければ、人の罪を解決することができません。また、キリストは死人の中から復活し、命を与える霊と成られたので、彼は生ける霊であり、生ける命です。わたしたちが彼を信じると、彼の霊と命はわたしたちの中に入って来られて、わたしたちの力となり、わたしたちを救われます。キリストの「贖い」は、わたしたちに代わってわたしたちの犯した罪を解決することができます。彼の「救い」は、わたしたちが続けて罪に打ち勝ち、罪から離れる力を与えてくださいます。ですから、わたしたちは善を行なう決心や、自分によって神に仕える考えを忘れるべきです。また自己を拒絶し、自己を捨て、自己をわきに置き、彼をわたしたちのおおいとするべきです。わたしたちがこのように行なうなら、罪から離れ、罪に打ち勝つだけでなく、彼の神聖な、高い命によって生きることができます。
救いは人に神を得させる
神が人のために備えた救いの中には一つの意義が含まれており、それは神のご計画を完成させることです。神のご計画は、彼ご自身を人の中へと造り込むことです。神が彼ご自身を人の中へと造り込む道は、彼の命を通してです。創世記第三章において、人は堕落しました。アダムと彼の妻は死の宣告を待っていたはずでしたが、神は来て、女の子孫が蛇(サタン)の頭を打ち砕く約束をされました。これは、彼らが死なないだけでなく、さらに子孫を得ることを啓示しています! アダムとエバは福音を信じたので、アダムは彼の妻をエバ(「生きる」を意味する)と呼び、エバは彼の息子をカイン(「得た」を意味する)と呼び、「わたしは一人の人、エホバを得た」と言いました。しかし、このように言ったことは早すぎたようです。それは四千年後に、処女マリアが産んだ一人の子、ベツレヘムの飼葉桶で生まれた子がその「女の子孫」であり、彼の名は「イエス」と呼ばれ、「エホバ救い主」を意味します。
本来全人類はみな死んでおり、生きている者は一人もいません。しかし、人が神の福音を聞いて受け入れた後、命を得ました! わたしたちは神の救いを受け入れ、キリスト・イエスを信じ、すなわち神の命をわたしたちの中へと受け入れました。この地上で第一の家庭は福音の家です。父であるアダム、母であるエバ、二人目の息子であるアベルはみな福音を信じ、神の救いの約束を受け入れて、神の救いの道を得ました。ヘブル人への手紙第十一章四節は言います、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、このことを通して義なる者という証しを得ました.神が彼の供え物に対して証しされたからです.彼は死にましたが、信仰を通して、今もなお語っています」。わたしたちはみなアベルの追従者になるべきです。
キリストを信じることは
キリスト教を信じることではない
それぞれの宗教にはその教主がおりますが、クリスチャンが宣べ伝えているこの神は、キリスト教の教主ではありません。彼は全人類の救い主です。なぜなら、彼はこの唯一の真の神であられるからです。彼はあの万物を創造し、宇宙を管理される主権ある方であり、彼は生ける神であられます。彼は最高の愛を持っておられ、最も大いなるものであり、義であり、聖別であり、全知全能の神でもあられます。二千年前に、彼はイエスという名の人と成り、地上で三十三年半生活されました。そして彼は十字架につけられ、全人類のために贖いを成就されました。彼には罪がなかったのですが、全人類の罪を担うために、十字架上で死なれました。三日後、彼は死人の中から復活し、命を与える霊と成られました。彼は霊であるので、今や遍在しておられます。彼は、彼を信じて受け入れたすべての人の中に入り、神聖で永遠の命を人に分与し、彼のご計画を完成されます。
ですから、クリスチャンが信じている神は、創造の神であるだけでなく、贖いの神でもあり、さらには命を分与する神です。彼は人の外側にいる神であるだけでなく、人の内側で、人の中へと入り、人と結合し、ミングリングし、人に命を与え、人を造り変える神であられます。この方は外側にいる客観的な神であるだけでなく、あらゆる手順を経て、今や人の中へと入って人の命となり、人に主観的な経験を与えることができる神でもあります。
キリストを信じることは宗教を信じることではなく、教主を礼拝することでもなく、この救い主をわたしたちの中へと受け入れることです。彼はわたしたちに永遠の命を与えられ、わたしたちに新しい命、すなわち神聖な命を得させます。この神聖な命はすべてを超越し、キリストが地上で生きたような生活を生かし出すことができます。それは、愛、光、聖、義の生活であり、人に対して無限の愛を持ち、無限の赦しを持ちます。親愛なる友人のみなさん、あなたがこのキリストを信じ、このキリストを得て、神聖で永遠の命を得ることができますように。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第4巻より引用