ルカによる福音書第四章は告げていますが、主イエスはユダヤ人の会堂ですべての人に対してある一箇所の聖書を読まれました、「主の霊がわたしの上にある.彼が貧しい人たちに福音を宣べ伝えるように、わたしに油を塗られたからである.彼はわたしを遣わして、捕らわれ人たちには解放を、盲人たちには視力が回復されることを告げ知らせ、圧迫されている人たちを解放して去らせ、主の受け入れる年、ヨベルの年を告げ知らせるのである」(十八―十九節)。読み終えた後、彼は彼らに対して言われました、「今日この聖書は、あなたがたが耳にしたとき、成就した」(二一節)。すべての人は彼を称賛し、彼の口から出る恵みの言に驚きました(二二節)。
主イエスはここで、神がこの世に彼を遣わした使命を宣言されました。神が主イエスをこの世に遣わされたのは、彼が貧しい人に福音を宣べ伝え、捕らわれ人には解放を、盲人たちには視力が回復されることを告げ知らせ、圧迫されている人たちを解放して去らせ、ヨベルの年を告げ知らせるようにするためでした。
「福音!」 「解放!」 「視力の回復!」 「自由!」 「ヨベル!」 「受け入れ!」これらはまことに恵みの言であり、まことにすばらしい恵みの言です。これらのことは、神がどのようなお方であるかを告げています。わたしたちに対するこれらの恵みの言は、天の心がどのような愛の心であるのかを告げています。
貧しい人たちは福音を得る
ルカによる福音書第四章は何種類かの人について語っています。それは貧しい人、捕らわれ人、盲人、圧迫されている人です。実は、これらは何種類もの人ではなく、一人の人のいくつかの状況です。人は貧しく、捕らわれており、盲目であり、圧迫されています。人が神を失うとき、貧しくなります。貧しくなった結果、人は捕らわれます。捕らわれた後、圧迫されます。この他に、人はまた盲目になります。
主は貧しい人に福音を宣べ伝えることを告げられました。福音を宣べ伝えることの原文の意味は、良き訪れを告げること、良き知らせを告げることです。ここで言う貧しい人について、ある人は、それは物質的に貧しい人であると思っています。彼らは、物質的に貧しい人が福音を必要としていると思っています。しかしながら、真に貧しい人とはお金がない人に言及しているのではありません。今日の億万長者を見てください。彼らは財物を持っていますが、彼らの深みにある空しさは満たされてはいません。彼らは貧しくないのでしょうか? 「お金しかないほど貧しい」ということわざがあります。論理的に言うと、この言葉は意味が通じませんが、この言葉はお金以外に何もないことを表しています。お金しかないほど貧しいということは、何と貧しいことでしょう! このような人は、物質的に何の欠乏もありませんが、内側に少しの充実もなく、満足もありません。このような人はさらに貧しいのです。
ですから、貧しさとは何でしょうか? ここの貧しさは、財物において欠乏していることを指しているのではなく、天の、霊的で、神聖な事柄において貧しいことを指しており、人が神に欠けており、神の祝福に欠けており、命と平安に欠けており、永遠の命に欠けていることを指しています。このような人は、主から見て、完全に何も持っていない貧乏人です。聖書は、人は神を入れる器として造られたことをわたしたちに見せています(ローマ九・二三―二四)。神を入れないなら、人には財産がないという意味です。ですから、神を内容としない人は貧しく、空しい器であるということです。わたしたちはみなこのような空しい経験をしたことがあります。わたしたちの衣、食、住がどんなに優れていて、心地良くても、どれだけ財物を持っていたとしても、どれだけ高い成就や深い造詣を得たとしても、わたしたちの内側にはやむことのない空しさ、満たされない感覚があります。これは、器であるわたしたちに内容が欠けていることを告げています。わたしたちは空であり、貧しいのです。
主の恵みの言は、貧しい人に福音が宣べ伝えられることを最初に告げています。この福音は、わたしたちに神と神が与える祝福を得させ、命を得させ、平安を得させ、永遠の命を享受させます。
捕らわれ人たちが解放される
表面的に見て、人々には自由があります。実は、全世界に自由である人は一人もおらず、みなサタンの権威の下で捕虜とされ、罪の奴隷となっており、自由がありません。ヨハネの第一の手紙第五章十九節は言います、「全世界は邪悪な者の中に横たわっていることを、わたしたちは知っています」。この世の人はみな邪悪な者であるサタンの権力の領域の中におり、彼の占有と支配の下にいます。
サタンは人を捕虜とし、罪は人を奴隷とします。罪とは何でしょうか? 一般的に、通常の認識では、姦淫、淫行は罪であり、売春、賭博は罪であり、殺人、放火は罪であり、親不孝は罪であり、窃盗、強奪は罪であり、偽り、詐欺は罪です。これらはすべて罪です。しかし、根本的に罪は人の内側にある内在的なものです。殺人、放火は外側の罪の行ないであって、人の内側の罪が行なったものであり、表現されたものです。それは、単に罪の結果であると言うことができますが、罪の本体ではありません。
ローマ人への手紙第七章二〇節は、人の中に罪が住んでいることを告げています。わたしたちは、一つのテーブルが家の中に置かれていると言いますが、テーブルが家の中に住んでいると言う人はだれもいません。家に住んでいるのは、みな生けるパースンです。しかし、ここで罪がわたしたちの中に住んでいると告げていることは、わたしたちの中で罪は生けるパースンであることを表しています。人生において、多くの事柄は人によりません。なぜなら、人の内側には罪の勢力、制御、制限があり、人を迫害し、行ないたくないことを人に行なわせます。たとえば、ある人は賭博する嗜好をやめたいと思っていますが、それを抑えることができません。たとえ彼が罪を犯すことは良いことではないと感じ、もはや罪を犯したくないという少しの願いを持ったとしても、罪は人の内側で人から離れず、行ないたくないことを人に強いて行なわせます。わたしたちはみな知っていますが、全世界のどこにも罪を犯すことを専門的に教える犯罪学校は存在しません。親も子供たちに小さい頃から罪を犯すことを教えません。しかしながら、不思議なことに子供が大きくなると、だれも教えなくても自然に罪を犯すことができます。これは、罪が人の中で人に罪を犯すようにさせているからです。
主の恵みの言はわたしたちに告げていますが、捕らわれ人たちが解放されます。主は神の御子であられ、彼が現れたのは悪魔のわざを破壊するためです(Ⅰヨハネ三・八)。主はすでに十字架上で悪魔を滅ぼしたので、今日彼は人における悪魔の勢力を取り除き、悪魔の権威から人を解放することができます。たとえば、人が強盗に捕らわれているとします。人を強盗の権威から解放し、救い出すために、さらに大きな力で強盗を征服しなければなりません。
盲人たちは視力が回復する
盲人は、目が見えず、失明しているという意味です。盲人は光が見えません。太陽の光、月の光、星の光、ともし火の光があったとしても、彼は暗やみの中にいます。ですから、盲人は暗やみの中にいる人であり、暗やみの中で行動し、暗やみの中で模索している人です。わたしたちは生まれながら外側の目は見えるかもしれませんが、内側の目は失明しており、神と霊的な事柄に対して少しも見えることはなく、完全に盲目です。
人はみな、自分は聡明であり、多くのことを理解しており、哲学を理解し、科学を理解し、この原理を知り、あの定理を知っていると思っています。しかし、人は神の事柄を理解せず、キリストの救いを知りません。自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのかを知りません。自分が歩んでいる道を知らず、人生の意義も知りません。今日、多くの記事、雑誌、書物であらゆる主張と学説を述べて、人生はどうであるべきかを告げています。ある人はこのように言って、ある人はあのように言って、ある者はこの点に触れ、ある者はあの点に触れ、ある者は新しい視点を唱え、ある者は社会の現状を批判しています。ある者は人生に対して悲観的で、この世に生きている意義がないと感じ、生きれば生きるほど、ますます苦悩が増えていくので、ついには自殺という方法でこの苦悩の命を終わらせようとします。ですから、最終的にそれらの主張、学説は暗やみの中での模索であり、答えがないということをわたしたちは認めなければなりません。実は、人は少しも神を知らず、宇宙の由来を知らず、人生の意義を知らず、人生の結末を知らず、悪魔のわなを知りません。これらすべての知らないことは、人が盲目であることを証明します。
主の恵みの言は、盲人は視力を回復することができることを告げています。ルカによる福音書第一章七八節から七九節は言います、「わたしたちの神のあわれみ深い慈しみのゆえに、昇る太陽が高い所からわたしたちを訪れ、暗やみの中に、また死の影の中に座っている者に輝き、わたしたちの足を平安の道へと導きます」。ヨハネによる福音書第一章四節は言います、「彼の中に命があった.この命は人の光であった」。第八章十二節において、主イエスご自身が言われました、「わたしは世の光である.わたしに従う者は……命の光を持つ」。主は光であり、彼は人の心の目を照らして、人が神を知り、宇宙の由来を知り、また人生の意義と結末に対して徹底的な理解を持ち、悪魔サタンのわなと策略を知るようにしてくださいます。
圧迫されている人たちが解放される
主はまた圧迫されている人たちを解放します。人は圧迫されており、サタンの手の下で、捕虜であるだけでなく、圧迫されている人であって、自由はなく、大きい重荷がのしかかっているようです。人が受けている圧迫は、家庭、事業、学業の重荷のような環境における重荷があり、また病の重荷があります。また心理的な面において、満たされない、安息がない、楽しくない、自然でない、自由でないというようなことがありますが、これらはみな心理上の重荷です。ある人たちは身体面に重荷はなく、生活は充実し、健康で、事業、職業、学業はみな思い通りになっていますが、彼らの心理においてまだ重荷があります。心配事というのは抜け出すことができない人の悩みであるように、それは人を圧迫し、不自由にし、人が喜ぶことができないようにします。人の思いの中には常によくわからない心配事があり、人の内側に平安がないようにします。ある人は体においても、心理においても重荷はありませんが、あるとき良心は自分に罪があり、死、火の池、神の裁きを恐れることを感じます。彼は、神がやってきて彼の人生を問いただすことを恐れます。これは良心の重荷です。こういうわけで、圧迫の下にいない者はだれもいません。
主の恵みの言は、圧迫されている人たちが解放されることを告げています。主は人の体における重荷を解放させることができます。たとえば、からだの病に関して、主はいやすことができます。すべての弱さと苦しみを主は担うことができます。ですから、彼はこのように言っておられます、「すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える」(マタイ十一・二八)。主は心理において、人を満たし、喜ばせることができます。彼は人の心理における圧迫を取り除くことができます。キリストは人に代わって、罪の刑罰を担い、人の良心における重荷を解決し、人の良心がもはや圧迫されないようにしてくださいました。多くの人は罪の刑罰を恐れ、火の池に入ることを恐れますが、主を受け入れるとすぐに良心が平安になります。
主の受け入れる年、ヨベルの年を告げ知らせる
「ヨベル」という言葉は、辞典の中にありません。それは聖書を訳すときに作られたものです。聖書で初めてヨベルについて述べられたのは、レビ記第二五章十節です、「あなたがたは五十年目の年を聖別し、全土にわたってすべての住民に、解放をふれ示さなければならない。それはあなたがたにとってヨベルである.あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族に帰らなければならない」。第二五章の規定によれば、地を完全に売ることはできず、多くて五十年は売ることができます。五十年目のヨベルがやってきたとき地は、元の主に返さなければなりません。また、自分自身を売って奴隷となった者も解放され、もはや奴隷ではなくなります。言い換えれば、ヨベルのときは解放を宣言し、失われた嗣業が戻り、奴隷が解放されるということです。
これは人の真実な状況の絵です。人は自分の嗣業を売っただけでなく、自分自身を奴隷として売りました。人が罪を犯してから、人類全体の日々は悲しく、災いで、平安、喜び、自由、光がありません。人の状況は、前に述べた四つの点、すなわち貧しい、捕らわれている、盲目である、圧迫されている状況のようです。人は堕落の中で彼らの嗣業としての神を失い、自分自身を罪の奴隷としてサタンに売りました。今や主イエスがやって来られ、堕落した人を連れ戻し、彼らの神聖な嗣業としての神に帰させ、人をサタンと罪の奴隷から解放します。
主の恵みの言は、今がヨベルであることを告げています。主が来られた後、彼の恵みの言は人類の歴史が悲しい時期からヨベルの年に変わることを告げました。「ヨベル」は喜ばしい幸いであり、「の年」は時期を指しています。主が来られた後、人類の歴史は時代が変わりました。アダムの堕落によって、人類の歴史は悲しい時代に入りました。キリストが来られると、人類の歴史に喜ばしい時代が始まりました。ヨベルの年は喜び叫ぶときであり、人は完全な解放、安息、喜びを得ます。ヨベルの年において、貧しい人は一人もなく、みな満たされ飽き足ります。ヨベルの年において、だれも捕らわれていません。そうではなく、すべての捕らわれた人たちはみな解放され、神の享受へと連れ戻されます。
神の受け入れる年、ヨベルの年はこのような喜ばしい幸いな年です。アダムの罪によって、神は人を拒絶し、人を罪定めされました。しかし、キリストがやって来られたとき、彼の贖いによって、神は人を赦しただけでなく、さらに積極面において人を受け入れられました。受け入れることは、神が人と親しくなること、人と神における以前の問題を解決すること、人を喜ぶことを含みます。主イエスの恵みの言において、彼はわたしたちに六つの事柄を得させてくださいました。それは、福音、解放、見えること、自由、ヨベル、神の受け入れることです。
どのようにして主の恵みの言を受け入れるか
まず、わたしたちは主が語られた状況を認める必要があります。すなわち、わたしたちは貧しく、捕らわれており、盲目であり、圧迫されており、悲しい者であることを認めるということです。もし、自分の地位と状況を認めないなら、決して主イエスを救い主として受け入れないでしょう。たとえば、ある人は自分が罪の中にいて、罪に制限され、良心に罪の訴えがあり、罪の刑罰を恐れているなら、自然に救い主を見いだそうとします。
第二に、わたしたちは主の言葉を信じる必要があります。これは福音を信じることです。福音がもたらされるのは解放、見えること、自由、ヨベル、神が受け入れることです。また、信じることは、主の言葉にしたがって受け入れることです。ヨハネによる福音書第一章十二節は言います、「すべて彼(主イエス)を受け入れた者、すなわち、御名の中へと信じる者」。これは、受け入れることは信じることを示しています。ですから、信じることは、賛成するだけでなく、認めるだけでなく、受け入れることです。信じることは、賛成と認めることを含みますが、信じること自体は受け入れることです。賛成しても、必ずしも受け入れるとは限りません。認めても、必ずしも受け入れるとは限りません。しかし、受け入れるなら、必ず賛成し、また認めます。ですから、信じることは、受け入れることでなければなりません。
主は言われました、「主の霊がわたしの上にある.彼が貧しい人たちに福音を宣べ伝えるように、わたしに油を塗られたからである.彼はわたしを遣わして、捕らわれ人たちには解放を、盲人たちには視力が回復されることを告げ知らせ、圧迫されている人たちを解放して去らせ、主の受け入れる年、ヨベルの年を告げ知らせるのである」(ルカ四・十八―十九)。わたしたちはこのようにして信じて受け入れます。わたしたちはこのように祈ることができます、「主イエスよ、わたしに福音を告げてくださり、感謝します。わたしはあなたの恵みの言を信じて受け入れます。わたしは自分が貧しく、捕らわれており、盲目で、圧迫されていることをあなたに認めます。わたしは救い主としてあなたを受け入れます。わたしを奴隷状態から解放し、盲目から視力を回復し、圧迫から自由にし、悲しみの年から喜びに変えてください。わたしが喜び歓喜し、あなたに受け入れられ、あなたと親しくなるようにしてください」。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第2巻より引用