旧約聖書の列王紀下でシリア王の軍勢の長ナアマンがらい病を患い、後にいやされる物語が述べられています。
ナアマンの地位
ナアマンはシリア王の軍勢の長であり、シリア王の前で大いに尊重されていました。なぜなら、ナアマンは彼の国のために多くの戦いに勝ち、また力ある勇士であったからです。彼は高い地位を持ち、また能力のある者であり、今日の社会の中で権威を持っている優秀な多くの上層階級の者のようです。しかしながら、このような高い地位を持っているナアマンは全身にらい病を患いました。
ナアマンの状況――らい病を患っている
らい病は汚れた病であり、らい病を患った者の体に腫れ物、吹き出物、あるいは光る斑点が出てきます(参照、レビ記十三・二)。実はらい病は人の内側から出てきたのではなく、外部から入ってきたものであり、ある病原菌の侵入によるものであり、それが内側から出てきます。旧約によれば、らい病は何かの原因の結果であり、その原因とは神の権威、神の代理権威、神の法則、神のご計画と案配に反逆することです。
らい病は罪を表徴します。聖書における最初の罪の事例は、サタンが神に反逆することであり、その反逆が現在の宇宙における罪となっています。サタンが反逆する前、罪のようなものはありませんでした。聖書における罪の意味は反逆です。ですから、罪は神に反逆し、神の代理権威に反逆し、神のご計画、案配、管理、行政に反逆することです。この反逆はサタン自身が発明し、始めたものです。最終的に罪は人類の間にやってきました。「こういうわけで、一人の人を通して罪がこの世に入り」(ローマ五・十二)。この罪、すなわちらい病はすでに人の中に入ったので、人の中から出てきます。結果として、わたしたちはみな、らい病にかかった者となりました。わたしたちが神に反逆する事柄を行なうとき、それはらい病となります。
サタンが発明した罪は、アダムを通して人の中に入り、わたしたちをらい病にかかった者とならせました。今や、らい病は多くの異なる罪の行ないを生み出しています。それは現し出され、表現し出された反逆です。わたしたちはみな認めなければなりませんが、わたしたちはかつて神の権威に反逆し、彼の代理権威に反逆しました。それだけでなく、わたしたちは常に神の法則に反逆しています。最後に、わたしたちはまた神のご計画と案配に反逆しています。ですから、神の目にわたしたちはらい病にかかった者となりました。らい病はわたしたちの中に入り、それからわたしたちの中から出てきます。
大将軍ナアマンは王の前でとても権威を持っていましたが、全身らい病にかかりました。同じように、今日において多くの人は高い地位にいますが、罪に満たされています。らい病によって人は神に近づくことができず、罪によって人と神は交わりができなくなってしまいました。
福音を聞く
ナアマンがらい病に苦しんでいるとき、ある人が彼に良き知らせを告げました。かつて、シリア人は隊を組んで出て行ったとき、イスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、彼女をナアマンの妻に仕えさせました。この少女はナアマンの病状を知って、彼女の女主人に、イスラエルには預言者エリシャがおり、ナアマンのらい病をいやすことができることを告げました(列王紀下五・一―三)。ナアマンがそのことを聞くと、シリアの王に報告し、いやしを受ける許可を求めました。なぜならこれはナアマンにとって、まことに大きな喜ばしい知らせであったからです。これが福音です。今日多くの偉大な人物のそばに多くのキリストを信じている「少女」がいます。彼らはただの雑用係であり、ただの小さな女しもべであり、さらには人に軽んじられている小さな人物であるかもしれませんが、彼らは福音をあなたに宣べ伝えることができ、あなたを救い、あなたのすべての罪を除き去ることができる救い主がいることをあなたに告げます。
救い主と救いの方法
シリアの王はナアマンがイスラエルに行っていやされることを許可し、いくつかのやりとりを経て、ナアマンは馬と戦車を従えて来て、預言者エリシャの家の入口に立ちました。このとき、エリシャは彼に使いを出して言いました、「行って、ヨルダンの中で七たび洗いなさい.そうすれば、あなたの肉は元に戻って、あなたは清くなります」(列王下五・十)。
エリシャはキリストを予表します。彼はナアマンにヨルダン川で七回洗うように告げましたが、それは人がキリストの死に入ることによって清められることができるということを表徴します。神の遣わした救い主はキリストであり、神が備えられた救いの方法はキリストの死です。わたしたちはキリストの死を受け入れなければなりません。そうすれば、わたしたちの罪は解決され、わたしたちのらい病も清められます。
いやしを得る道
ナアマンがエリシャの語ったいやしの方法を聞いたとき、それはあまりにも一般的であったので、憤って自分の意見をたくさん述べて、帰ろうとさえしました。しかし彼のしもべが彼を説得して言いました、「預言者があなたに大きな事をするよう告げたなら、あなたはそれをなさらなかったでしょうか? まして彼はあなたに、『洗って清くなりなさい』と言うだけではありませんか?」。こういうわけでナアマンはエリシャの言葉にしたがって行ない、最終的に彼はいやされました。ここで見ることができますが、神がいやしの道をわたしたちに啓示したとき、わたしたちは四つの事柄に注意しなければなりません。
この世の方法を捨てる
イスラエルの地にあるヨルダン川で洗って清められることをナアマンが聞いたとき、彼は怒って言いました、「ダマスコの川(ダマスコはシリアの一部)アバナとパルパルは、イスラエルのすべての水より良いではないか?」。しかし、最終的にナアマンはイスラエルの地にあるヨルダン川へ行かなければいやされることができませんでした。なぜなら、異邦の川(宗教の方法)は捨て去られなければならず、キリスト(キリストの死を含む)を得ることによってのみいやされることができるからです。
へりくだる
ナアマンは高ぶっていたので、もう少しでいやされる機会を失うところでした。
主の言葉を信じる
ナアマンがいやされたのは、預言者エリシャの言葉を信じて従ったからです。今日、一人の罪人が救われるためには、主イエスの言葉を信じて従わなければなりません。
主の死を受け入れて水の中でバプテスマする
ナアマンがヨルダン川で七回洗ったことは、(一)キリストの死を受け入れることを予表し、(二)キリストと結合されたことを予表します。それは、主が告げたように、「信じてバプテスマされる者は救われる」(マルコ十六・十六)ということです。ですから、信じた者はバプテスマされなければなりません。ナアマンがエリシャの言葉を信じて、その日にヨルダン川で七回洗ったように、今日わたしたちも主の言葉を信じてバプテスマされるべきです。
救いの結果
ナアマンはヨルダン川で、神の人エリシャの言葉にしたがって、七回洗いました。すると彼の肉は元に戻って、幼子の肉のようになり、清くなりました。同じように、わたしたちが主を信じてバプテスマされると再生され、新しく生まれた様が現し出されます。そして古い生活がバプテスマの水(ヨルダン川)に葬られたなら、水から出て来るときに新しい生活を持つべきです。こうするなら、わたしたちはナアマンのように、らい病(罪)から清められ、救われて新しい命を得ることができます。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第1巻より引用