神は霊であり、人は霊を持っている

福音メッセージ

聖書は、神は霊であり、人は霊を持っていることを告げています。
霊はとても抽象的で、目に見えることはなく、触れることもできませんが、感じることができ、経験することができます。
これはクリスチャンの信仰の奥義であり、クリスチャンの力の源です。

人は神に触れる器官がある

ヨハネによる福音書第4章24節は言います、「神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」。ここの聖書は、神は霊であり、人は霊を持っていることを示しています。この世の人は、人は五感を持っていることを知っています。目は視覚、耳は聴覚、鼻は臭覚、口は味覚、皮膚は触覚です。しかし、聖書がわたしたちに告げているのは、人の心の奥深くに、霊というもう一つの器官があるということです(ゼカリヤ書第12章1節)。この器官はもっぱら神に触れるために用いられます。

人々はよくこのように言います、「わたしは神を見たことがないし、触れたこともないので、宇宙には神はいません」。しかし、実際に神がいないのではなく、人が間違った器官を用いたからです。人には五官以外に、霊という第六官があり、この器官はもっぱら神を感じ取るために用いられます。もし、人がこの器官を用いて真の神と接触しようとするなら、必ず彼に触れることができます。惜しいことに、どのようにしてこの器官を用いて真の神を尋ね求めるかを知る人は少ないのです。霊であるこの器官を用いることは、あなたの誠実な心で神に開いて語り、心の中で話したいことを真実に、包み隠さずに完全に神に告げることです。声を出しても良いし、出さなくても良いのですが、真実な心でなければなりません。あなたが真実に心の奥深くから神に祈り、主イエスの名を呼び求めるとき、あなたは霊を用いており、神の霊に触れることができます。人の有限の脳では霊を理解することができませんが、生活の中で神は霊であり、人は霊を持っていることを経験することができます。

主イエスは神であり、霊である

主イエスは、神が肉体と成って人の救い主となった方であり、命としての彼を人に得させます。彼は十字架上でご自身を捨て、血を流し、一面で人の罪を贖い、もう一面で人に彼の命を解き放ち、死から復活して命を与える霊と成られました(コリント人への第1の手紙第15章45節後半)。それによって彼は人の霊と接触することができるようになりました。この霊が人の中に入るとき、人は命としての彼を得ることができます。

主イエスは神であり、霊であり、永遠に存在し、遍在しておられます。ですから、どんなときでも、どこにいても、だれかが彼の言葉を信じて彼を救い主として受け入れたなら、霊である彼は必ず人の内側に入って彼の命を人に得させ、救いを得させることができます。同じような原理がわたしたちの日常生活の中にあります。たとえば、あなたがラジオのスイッチを付け、チャンネルを合わせるなら、空中の電波を受け取ることができます。この電波はすでに空中に満ちており、どこにいたとしてもラジオを付けるなら、その中で起こる事柄にあずかることができます。同じように、主イエスは聖霊の中で宇宙に広がって満ちており、どんなときも、ラジオのような人の心がスイッチを入れて彼に合わせるなら(すなわち悔い改めて彼を信じて受け入れること)、彼は必ず人の中に入ってきて、命の機能をもたらし、内側からの生ける救いを人に得させます。もし試したなら、これは何とすばらしい霊であるのか、何と実際的であるのかを知ります!

神は命を与える霊と成り、人に臨んだ

この神は人に臨み、人の中に入ることを願っているので、彼は命を与える霊と成られました。どこかである人が彼を呼び求めるなら、彼はその人の中に入り、人の内側で働かれます。あなたは罪に打ち勝ちたいでしょうか? あなたは生活が正常でありたいでしょうか? あなたは人として公明正大でありたいでしょうか? 決心することは意味がありません。修行しても意味がありません。苦行を積んでも意味がありません。救いの方法は一つだけであり、それは主イエスを呼び求めることです。そうすれば彼は直ちにあなたの中に入ります。彼があなたの中に入るとすぐにあなたのすべての罪は落ちていきます。彼があなたの中に入るとすぐにあなたのすべての私欲は消滅します。彼があなたの中に入るとすぐにあなたは正常な人となり、公明正大な人となります。彼があなたの中に入ると、愛せなかったものが愛せるようになります。耐えることができなかったことが耐えられるようになります。許すことが難しかったことが容易に許せるようになります。担うことができなかったことが容易に担えるようになります。彼があなたの中に入ると、あなたの全存在が変わります。なぜなら、彼は神であり、彼があなたの中に入るとあなたの命となって、あなたの霊と結合し、あなたを力で満たすからです。

救われたくない者が救われる

かつてある若い女の人がウオッチマン・ニー兄弟に挑戦してこのように述べました。彼女はまだ若いので救われる必要がなく、もっと楽しみたいので、自分が歩みたい道から離れて楽しみがない厳粛な生活をしたくないということです。ニー兄弟は彼女に言いました、「祈りましょう!」。彼女は答えました、「何を祈るのでしょうか?」。ニー兄弟は言いました、「先ほどわたしに告げたことを主に告げるのです」。彼女は数歩退いて言いました、「おお、わたしはそのようにはできません」。ニー兄弟は言いました、「できます。彼は罪人の友であることをあなたは知っていますか?」。この言葉は彼女に触れ、彼女は本当に主に向かって、特別な祈りをして、彼女は救われたくないこと、もっと多く楽しみたいことを主に告げました。不思議なことに、そのときから主は彼女の心の中で働き始め、二日後に彼女は救われました。

悔い改めたくない者も救われる

かつてある学生はニー兄弟に言いましたが、彼にとって主を信じるのは早すぎるということ、また彼はもっと罪の喜びを味わいたいということです。彼はまた言いました、「十字架上の強盗が救われたのは、決定的なときに悔い改めたからです。わたしはまだ若く、あと四十年ほど待って、よく楽しんでから悔い改めても遅くありません」。ニー兄弟は言いました、「今わたしに言ったことをあなたは主に告げることができます。彼は、あなたのような悔い改めたくない罪人の友です。……あなたの心がどのように思っていても、あなたは主に告げることができます。彼はあなたを助けます」。最終的に彼は祈り、また神に向かって彼が悔い改めて救われることを願っていないことを告げましたが、彼は自分には一人の救い主が必要であることを知っていました。彼は神に助けを呼び求めたので、主は彼の心の中で悔い改めの働きを行ないました。そして彼は祈り終えた後、救われた人となりました。

救われることにふさわしくない者も救われる

伝道者であるチャールズ・フィニー(Charles Finney)が伝道しているとき、集会後にある人が彼を家まで招きました。その人は言いました、「わたしはこの銃で二人を殺したことがあります。わたしのような者にも希望はありますか?」。フィニーは言いました、「イエスの血はわたしたちのすべての罪を洗い清めてくださいます」。彼はまた言いました、「フィニーさん、この家の後ろにはわたしが経営している酒場があり、多くの酒好きな人を引き入れています。わたしは酒好きな人たちから彼らの最後の一文のお金までだまし取り、彼らの妻と子供が飢えようが、貧しかろうがかまいませんでした。ある者は子供を抱えながらわたしに懇願しましたが、わたしは彼らを追い出しました。わたしのような者にもまだ希望がありますか?」。彼は続けて言いました、「もう一つの問題があります。この家の反対側に一つの賭博場があり、欺きと邪悪に満ちており、わたしたちはそこで人々のお金を最後の一文までだまし取りました。それによってある人は自殺したり、ある人は仕事を失ったりしました。わたしのような人にはまだ希望がありますか?」。フィニーは言いました、「神は言われました。彼の御子イエスの血はあなたのすべての罪を洗い清めます」。「もう一つの問題があります。十三年前にわたしはある美しい女に出会い、彼女をだまして妻としました。後にわたしはよく酒に酔って彼女に暴力を振るい、彼女に死ぬほどつらい思いをさせました。わたしのような者にはまだ希望がありますか?」。フィニーはその人の肩をつかんで揺らしながら言いました、「あなたが言っていることは何と暗いことでしょう! しかし神は言われました、『イエスの血はあなたのすべての罪を洗い清めます』」。次の日の朝、その人は職場へ行き、椅子、机を破壊しました。酒場へ行き、酒、酒の用具などを壊しました。また賭博場へ行って賭博用具を砕き、炉の中に投げ入れました。そして家に帰って妻を抱きしめながら号泣しました。その晩、彼は妻と子供を集会に連れて行き、彼の全家族の救い主としてイエスを受け入れました。

神を信じない者も救われる

ウオッチマン・ニー兄弟はある伝道集会の中で、年配の友達である心理学の教授に会いました。彼は言いました、「わたしに福音を伝えても無駄です。なぜならわたしは神を信じないからです」。ニー兄弟は言いました、「あなたが祈るなら、神を見いだします」。彼は言いました、「わたしはどうしたら祈ることができるのでしょうか?」。ニー兄弟は言いました、「わたしには一つの祈りの文章があり、あなたも祈ることができます。あなたはこのように言うことができます、『神よ、神がいなければ、わたしの祈りは意味がありません。もし神がいるなら、わたしに知らせてください』」。相手は答えて言いました、「キリストと神の仮設に関して、それは何でしょうか?」。ニー兄弟は言いました、「これらの祈りの上に、これらの質問を加えて神に答えさせればよいのです」。そして一冊の聖書を彼に残して別れました。二日目の伝道が終わり、ニー兄弟は救われたい者は立つように促したとき、最初に立ち上がったのがその方でした。彼は言いました、「あなたが去った後、わたしはあなたが提案した祈りにしたがって祈ることがなぜできないのかと自問しました。わたしはこの件に関して誠実にならなければなりませんでした。もし、神がおられて、彼を信じないなら、わたしは愚かです。こういうわけでわたしはひざまずいて祈りました。祈っているとき、一人の神がおられることをわたしは感じました。それからヨハネによる福音書を読みました。それは真に自分の目でイエスを見た者が書いたものです。こうしてわたしはイエスが神の御子であることを信じたので、救われました」。

友人のみなさん! ただ誠実な心でイエスに祈るなら、必ず不思議な転機があります。神の救いは、霊である彼があなたとわたしの霊の中に入り、わたしたちと結合することです。あなたが彼に開き、あなたの罪を認め、あなたの罪の汚れを注ぎ出し、彼をあなたの中へと受け入れるなら、彼の霊はあなたを満たします。あなたはこのように信じるなら、このように祈るなら、彼は必ずあなたの中に入り、あなたを最後まで救ってくださいます。

詩歌(主われを導く) 習志野に在る教会作成

主われを導く

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第5期第4巻より引用

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