人の命はとても限りがあって、もろいです。外側では、他の人が自分より優れていることに耐えられず、内側では、多くの果てしない憂いや理解できない悩みがあります。そして人類の歴史は恨み、争い、ねたみ、悩み、嫉妬、私利私欲などが織り交ざってできた哀れな絵となりました。
「そして言葉の争いをしないようにと、神の御前で彼らに厳かに命じなさい.そのようなものは何の益にもならず、聞く者を荒廃に至らせるだけです」(テモテへの第2の手紙第2章14節)。
「論議と言い争いに病みつきになっているのです.そこから、ねたみ、争い、そしり、邪悪なさい疑心が生じ」(テモテへの第1の手紙第6章4節)。
創世記第4章において記載された人類歴史初の殺害の源は、嫉妬、争いによります。そのとき、アダムとエバはカインとアベルを生みました。「アベルは羊を飼う者となったが、カインは土地を耕す者となった。ある時期になって、カインは、土地の実りの中からエホバへのささげ物を持って来た。また、アベルも彼の羊の群れの初子から、すなわち、その脂肪の部分からささげ物を持って来た。エホバは、アベルと彼のささげ物に目をとめられた。しかし、カインと彼のささげ物には全く目をとめられなかった。そこでカインは、ひどく怒って顔を伏せた。エホバはカインに言われた、『なぜあなたは怒るのか、なぜ顔を伏せたのか? あなたは正しく行なっているなら、顔を上げるべきではないか? もしあなたが正しく行なっていないなら、罪が戸口で待ち伏せしている.彼はあなたを慕い求めている.しかし、あなたは彼を治めなければならない』。カインは弟アベルに言った、『さあ、野原に行こう』。彼らが野原にいたとき、カインは弟アベルに向かって立ち上がり、彼を殺した」(2―8節)。これは、争いは邪悪な感情と関係があることを見せています。カインは嫉妬のゆえに引き起こされた怒りによって彼の弟を殺しました。
わたしたちは急いで聖書のこの部分を読むなら、同じような疑問を持ってこのように言うかも知れません、「神は不公平です。二人の兄弟はみな神にささげ物をしましたが、カインのささげ物は何が間違っていたのでしょうか? 彼は賭博や盗みをしたわけではありません。彼はとても敬虔です。もし、彼は敬虔でないなら、ささげたりしなかったでしょう。彼は地上で労苦して働き、収穫を得てから、いくらかを神のために残しました。これは良くないのでしょうか? なぜ神は彼がこのように行なったことを好まないのでしょうか?」。また、当時の人は野菜だけを食べて肉を食べませんでした。ですから、カインのほうがアベルより賢いようです。彼は「土地を耕す者」であり、とても実際的です。カインは彼の兄弟にこう言ったのかもしれません、「アベルよ、あなたが行なっていることは実際的ではありません。羊を飼うことに何の意味があるのでしょうか? わたしが行なっていることを見てください。土地はわたしを養う食物を生み出すので、わたしは土地を耕しています。あなたは羊を飼うだけでどのように生きるのでしょうか? あなたが得られるのは、体を覆う毛皮だけでしょうが、自分を養う食物がありません」。
この問題に答えるために、わたしたちは創世記第3章に戻る必要があります。その日、アダムとエバは自分たちが裸であることを知った後、いちじくの木の葉をつづり合わせて、自分たちのために腰を覆うものを作りましたが、神はそのようなおおいを認めませんでした。それゆえに神は小羊を罪のためのささげ物として殺し、また小羊の皮をもって衣を作り、彼らに着せました。アダムとエバはこの事をカインとアベルに告げ、アベルは単純に両親の言葉を受け入れ、またそれにしたがって行なったとわたしたちは信じます。アベルは神の救いを信じ、またこの信仰によって神にささげましたが、カインは自分のほうが賢いと思い、自分の道を発明し、地の産物をささげました。こういうわけで、ヘブル人への手紙第11章4節は言います、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ」。アベルは両親から福音の宣べ伝えを聞いたのです。彼の牧羊の働きは自分の生活のためではなく、神の満足のためでした。そして、カインはその逆であり、彼は神の満足に関心を持たず、自分の生活だけに関心を持ちました。
アダムとエバは、神がどのようにして彼らを創造し、善悪知識の木を食べてはならないことを命じ、彼らは神に聞き従わないでその木の実を食べてしまったか、またどのようにして死の判決を恐れ、神が後に彼らに福音を伝えたかをカインとアベルに告げたに違いありません。アベルは両親の宣べ伝えのゆえに神の救いの道を追い求めました。しかし、カインは神の救いの道にしたがわず、彼の生活は人類の堕落を継続し、深めました。カインは土地を耕し、「一生、労苦して食を得る。……野の草類を食べる.……額に汗してパンを食べ」(創世記第3章17節―19節)。カインが労苦して土地から得たささげ物が神に全く目をとめられなかった時、心の中で嫉妬、争い、悪意の疑いが生み出されました。彼はサタン、すなわちあの狡猾な者によって扇動されて自分の弟を殺しました。エホバがカインに彼の兄弟であるアベルがどこにいるかを聞かれたとき、彼はなお神に口答えして言いました、「知りません。わたしは弟の番人なのでしょうか?」(4章9節)。カインはさらに神の御前でためらいなく偽り、悪魔にしたがって再び堕落しました。
「あなたがたの間の戦いと争いは、どこから来るのですか? それらはほかでもなく、あなたがたの肢体の中で戦う欲望からではありませんか?」(ヤコブの手紙第4章1節)。
表面的に創世記第4章でわたしたちは悪魔を見いだすことはなく、ただカインが人を殺して偽ったことを見ます。カインがアベルを殺しましたが、実はサタンがカインの殺しの行動の中で人を殺したのです。主イエスはヨハネによる福音書第8章44節で言います、「悪魔は初めから人殺しであって……彼の中に真理はないからである。……彼はうそつきであり、うそつきの父だからである」。神の目において、カインの源はサタンです。サタンはカインを得ただけでなく、さらにカインの中で働いています。
アダムは神に創造されたときは純粋でしたが、堕落によってあの悪しき者であるサタンが彼自身を人の中に注入したことによって、人の天然の存在はもはや純粋ではなくなりました。こういうわけで、人の体は邪悪な肉となりました。サタンの性質は人の性質、思い、観念にも浸透しました。ですから、人が自分自身によって行動するとき、悪魔と結合するのです。悪魔はわたしたちの周りにいるだけでなく、わたしたちの中におり、わたしたちの本性、思い、感情、意志の中にいます。あなたが怒っているときはいつでもサタンがそこにいます。あなたが自分の感情を動かすとき、サタンはあなたの中で活躍します。
ガラテヤ人への手紙第5章19節から21節はわたしたちにこう告げています、「肉の働きは明白です.すなわち、淫行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、しっと、怒りの爆発、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、そのような類の事柄です」。ここで挙げられている罪の行ないにおいて、いくつかはより高く、いくつかはより汚れています。「争い、しっと、分裂、分派」は表面的に「淫行、汚れ、好色、宴楽」より清いようですが、「肉」は結局「肉」であり、いずれにしても、これらの罪の行ないは一つの根、すなわち肉から生み出されており、それらはみな一つの木から結ばれた実です。人はみな「大いなる」事を行なって、「甘い」実を結ぶことを願います。しかし、「わたしは善をしようと欲するのですが、善を行ない出すことはないからです」(ローマ人への手紙第7章18節)。なぜなら、腐敗した肉から出てくるものは、常に小さくて苦いのです!
「なぜなら、彼ご自身は、わたしたちの平和であって、両者を一つにし、そして敵意である隔ての中垣を取り壊し、……また十字架を通して、両者を一つからだの中で神に和解させるためでした.それによって敵意を殺してしまったのです」(エペソ人への手紙第2章14節、16節)。
人の堕落のゆえに、人類の間に多くの規定、風習、習慣、生活方法、礼拝方法があります。これらのことは人類を分裂させ、散らし、混乱させました。すべての国と種族にも隔たりがあるので、人類の間に平和はなく、敵意、不調和、争いがあるだけです。肉的なゆえに人と人の間に平和はなく、人と神の間にも調和がありません。ユダヤ人は神の選びの民であり、異邦人はこの世の人であって、両者の間には、平和、和睦、調和はありませんでした。しかし、キリストがやってきました。「数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和をつくるためであり」(15節)。ここでわたしたちは見ますが、主イエスは肉体と成り、十字架を通して規定から成っている戒めの律法、肉、この世などのすべての消極的な事柄を廃棄し、取り壊しました。
キリストは神ご自身が肉体と成った方ですが、肉の罪と関係がありません。彼は十字架に上げられたとき、太古の蛇であるサタンは、主の死のゆえに対処されました。また、「キリスト・イエスのものである人たちは、肉をその情と欲と共に十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ人への手紙第5章24節)。キリストの十字架はわたしたちの肉とその邪悪な情欲を終わらせました。わたしたちは今日憤り、明日嫉妬し、明後日争う必要はありません。これには終わりがなく、わたしたちを悩ませ、苦しませます。
この親愛なる救い主、イエス・キリストが地上にやって来られたとき、「彼は争わず叫ばず、大通りで彼の声を聞く者もいない。彼は公義を勝利へもたらすまで、傷んだ葦を折ることがなく、煙っている灯心を消すこともない」(マタイによる福音書第12章19節―20節)。彼はすべての者を愛し、わたしたちが彼の敵であったときでさえ、わたしたちのために十字架上で死んで、わたしたちを神に和解させ、神の永遠の命を得させてくださいました。親愛なる友人のみなさん、神が人を救う道は、わたしたちがただ「信じ」ることです。わたしたちはカインのように争って、自分の努力で神に好かれるようにする必要はありません。わたしたちはアベルのように救いを受け入れ、主イエスは「神の小羊」であって、この世の人の罪をすでに取り除いたことを信じるべきです(ヨハネによる福音書第1章29節)。わたしたちが彼を受け入れたとき、わたしたちの内側にあるすべての堕落した、腐敗した消極的な要素は取り除かれます。また、神が創造した当初のわたしたちにある人性が挽回され、引き上げられ、満たされ、彼のような完全にまで徐々に造り変えられていきます。このような救いは、人類における最大の福音です!
今、あなたは口を開いて彼の名を呼び求め、彼に祈るだけでよいのです。「おお、主イエスよ! わたしは罪人ですが、あなたはわたしと結合することを願っておられます! わたしはあなたを信じます。あなたをわたしの命として受け入れます。わたしの内側にある嫉妬、争い、誹謗、疑いを取り除いてください。わたしの人生を平安で満たしてください! アーメン!」。主イなたの祈りを必ず聞いてくださり、あなたと共におられます!
詩歌(わが命に大変化あり)習志野に在る教会作成
記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第4期第4巻より引用