「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている.だれでもわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしは彼の所に入って行き、彼と共に食事をし、彼はわたしと共に食事をするであろう」(啓示録 第3章20節)。
主は「戸口」の外でたたいています。この戸口とは人の心の戸口です。人は神が造られた器であり、神を入れるためにあります。こういうわけで、人は神に開いて神に入って来ていただく必要があります。人が生きていて、よくむなしいと感じるのは、この容器に神を入れずに、お金、学問、富、享楽、名声、地位などのような他の多くのものを入れたからです。たとえ人がどれだけ多くの富を得たとしても、どんな学位を得たとしても、どんな地位や階級についても、内側に神がなければ、人の内側には言い表せない渇きがあるでしょう。
神は霊であり(ヨハネによる福音書 第4章24節)、彼は人の内側に霊を造られました(ゼカリヤ書 第12章1節)。それによって人は彼に触れ、彼を受け入れることができます。わたしたちは内側の奥深くにこのような神に触れることができる器官を持っています。それは、小さいラジオにレシーバーがあるのと同じように、受け取る「器官」です。ラジオのレシーバーは無線電波を受け取るために造られました。同じように、わたしたちの内側には、受け取る器官があり、神が特別に造られました。それがわたしたちの霊です。
神があなたの内側に受け入れる器官として霊を造られたからこそ、あなたはさらに深く、さらに高いものを得るためによく飢え渇いているのです。さらに高いものとはキリストにある神ご自身です。今日、キリストはあなたの心の戸口をたたき、あなたが彼を受け入れることを待っておられます。あなたがただ心の戸口を彼に開き、「主イエスよ、あなたが必要です」と彼を呼び求めるなら、彼に触れます。また、彼はあなたの内側に入り、あなたの深いところの渇きと飢えをいやしてくださり、あなたに真の満足を得させてくださいます。
「わたしはあなたの戒めの道を走ります.あなたがわたしの心を広げてくださるからです」(詩篇 第109篇32節)。
かつてある芸術家が、イエスがある戸口の外でたたいていることを表現している絵を描きました。描き終えた後、彼は自分の店で働いている大工に絵を見てもらい、感想を聞きました。その人は絵の前に立って言いました、「この絵は大工によって描かれたものではないと容易に見てわかります」。芸術家は、「なぜですか?」と聞きました。大工は答えました、「もし、大工であるなら、彼はその戸口をこのように描いたりしません。それには取ってがないので開けることができません」。そして芸術家は答えました、「心の戸口はそうです。外側には取っ手がなく、内側からのみ開くことができます。ここで描いているのは、イエスが心の戸口の外におられるということです。ですから、この戸口にはどのような取っ手もあってはなりません」。人が心の中で悔い改め、心から主イエスを呼び求め、自分の心の戸口を開いて主イエスを救い主として受け入れるとき、主は彼の中に入って来られ、彼の内側に主イエスの命、すなわち神の命を得させてくださいます。友人のみなさん、あなたが心の戸口を開いて主イエスを受け入れることができますように。この開く動作は、あなた自身によって行なわれなければなりません。
「わたしはあなたに向かって両手を広げ、わたしの魂は乾ききった地のように、あなたに渇きます」(詩篇 第43篇6節)。
この世が人に与える喜びと享受はみな暫時的であり、ただ人に渇きを与えるだけです。この世の人は手を伸ばしてこの世の享楽をつかもうとすればするほど、ますます自分は乾いた地のように、雨水の潤いを得られないと気づきます。人は富と享受を得れば得るほど、ますます、富と享受を得ようとします。人は美しく、おしゃれであればあるほど、ますます、美しく、おしゃれになりたくなります。もし、あなたが映画を見たことがないなら、見たいと切望しないでしょう。もし、あなたが一度見たことがあるのなら、それはあなたに渇きをさらに与え、また見るように切望します。あなたは先週の土曜日に映画を見ていないなら、今週は見なくても問題ありません。もし、あなたは先週の土曜日に映画を見たなら、今週は飢え渇いて見なければならないと感じるでしょう。こうして、見れば見るほど、ますます見たくなり、ますます見るようになります。いずれにしても、内側の渇きは解決できないどころか、逆にひどくなります。生涯におけるすべての事物は、あなたの需要を強め、あなたの渇きを深め、あなたに満たされないという感覚を与えるほか、何もありません。あなたの渇きを真に解決することができるものは何一つありません! 解決の道は、自分自身を開いて神に祈り、彼によってあなたの深いところにある渇きを満たしていただくことです。彼は甘い露のようにあなたの乾いた心の地を必ず潤してくださいます。
主イエスはかつてヨハネによる福音書で叫んで言われました、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい」(第7章37節)。彼はこのように叫んだのは、人の真の必要は何であるかを人に知らせるためでした。彼がこのように叫んだのは、人に渇きがあるだけでなく、彼には人の渇きをいやす生ける水があることを人に知らせるためでした。彼の生ける水は永遠に流れ、飲む者は永遠に渇きません。
人はどのようにして主イエスの命の生ける水を得て渇きをいやすのでしょうか? 主イエスは言いました、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい。わたしの中へと信じる者は、……その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」(37節―38節)。あなたが主イエスのところに来て飲むということは、彼を信じることです。主イエスを信じるということは、他でもなく、あなたの全存在を彼に開き、呼吸のように深いところから主イエスを吸い込むことです。あなたはただ静かな所に行き、目を閉じて、あなたの深いところから主イエスに祈るだけで良いのです。これが霊を用いて主イエスを受け入れることです。あなたは、目で彼を見ることも、手で彼に触れることも、外側の感覚で彼を感じ取ることもできませんが、霊を用いて彼に触れることができます。あなたはただ霊の中で祈り、思ったことを彼に語る必要があります。装う必要はありません。頭で話すことを考える必要もありません。深いところから彼に開き、彼に近づき、彼を受け入れるなら、あなたは彼を飲み、彼を信じます。ですから、この飲むことは、信じることであり、この信じることは飲むことです。飲むことと信じることは、すべて受け入れるという意味です。
親愛なる友人のみなさん、あなたは長年キリスト教の教理を聞いてきたかもしれません。また、キリストの偉大さを賞賛しているかもしれません。しかし、このように霊の中で水を飲むように主イエスを受け入れることをしたことがないなら、あなたは彼と何の関係もありません。彼は彼のままであり、あなたは依然としてあなたです。彼の生ける水はまだあなたの中に入って、あなたの渇きをいやすことができません。
ですから、メッセージを聞くだけではあなたは救われません。主イエスに祈り、あなたの中に彼を受け入れなければ救われません。これは何と不思議でしょう! このように信じて飲むなら、聖霊(すなわち、復活の主イエス)はあなたの中に入ります。この聖霊は命の霊であり、命の生ける水です。彼があなたの中に入るなら、すぐにあなたの渇きをいやします。そうするなら、あなたの内側に喜びがあり、満たされます。それだけでなく、この命の生ける水は、あなたの内側から流れ出て、生ける水の川となり、多くの人の渇きをいやすことができます。
詩歌203:生ける水の川(調布に在る召会作成)
「主よ、わたしの唇を開いてください.そうすれば、わたしの口はあなたへの賛美を告げ広めます」(詩篇 第51篇15節)。
主を受け入れたいなら、口を開いて彼に祈り、彼を呼び求める必要があります。聖書は言います、「主の御名を呼び求める者はすべて救われる」。また、「彼を呼び求めるすべての者に、彼は豊かです」(ローマ人への手紙 第10章12節―13節)と告げています。こうして、わたしたちは一度で永遠の救いを受け入れるだけでなく、日々の救いを経験することができます。わたしたちは日々試みと誘惑に遭います。主は、彼の民が生涯試みと誘惑に遭わないことを約束されていませんが、キリストの救いの命は人を養い、神聖な力を供給してすべての試みと誘惑を征服します。「おお、主イエスよ!」と主の御名を呼び求めることを通して、わたしたちはすべての悩み、挫折、怒り、嫉妬、かたくなさ、あらゆる邪悪な情欲から救われます。わたしたちの思いには、疑い、恐れ、思い煩いがありますが、主の御名を呼び求めることによって、これらの思いはすべて消え去ります。さらに、この命は死とそのすべての副産物を征服します。それは、弱さ、ため息、うめき、束縛、落ち込むことなどです。主の御名を呼び求めることを通して、わたしたちは日々、常に救われます。主の御名を呼び求める者に、彼は確かに豊かです。
「わたしの目を開いて、あなたの律法からの不思議を、見ることができるようにしてください」(詩篇 第119篇18節)。
主に心の戸口を開き、口を開いて彼を呼び求め、霊を開いて彼に触れる事以外に、目が開かれる必要があります。人が霊の事柄において貧しいのは、内側の目が開かれていないからです。ですから、人には目が開かれて見えるようになるという特別な必要があります。霊的な事柄において、目が開かれることより重要なことはありません。主イエスが使徒パウロを福音に遣わしたとき、彼は言いました、「あなたを彼らに遣わし、彼らの目を開き、……」(使徒行伝 第26章17節―18節)。主がパウロに行なってほしい第一の事柄は、未信者の目が開かれることです。それから、「彼らを暗やみから光へ、サタンの権威から神に立ち返らせるのである。それは、わたしにある信仰によって、彼らが罪の赦しと、聖別された人たちの間での嗣業を受けるためである」と述べました。これらすべては目が開かれたことに基づきます。ですから、目が開かれることがすべての霊的な事柄の根拠です。もし、ある人の内側の目が盲目であるなら、彼が霊的な事柄を認識し、得ることはありません。あなたが見るなら霊的な事柄を得ます。
人はどのようにして見ることができるのでしょうか? 人の霊的な目はどのようにして開くことができるのでしょうか? 最も必要なのは、主イエスが人の光となることです(ヨハネによる福音書 第1章4節、第8章12節)。彼が人の内側の目に視力を与えるために第一に行なうことは、人の中に入って人の光となることです。光である彼が人の内側で照らすとき、人の内側の目は開かれます。彼は世の光であり、彼だけが人の内側にある暗やみを除き去り、人の内側の目が失明していることからいやし、見えるようにすることができます。人生の暗やみ、人生における失明は、彼だけが解決することができます。
「イエスは……指を彼の両耳に差し込み、……彼に……『開け!』と言われた。すると直ちに彼の耳は開き……」(マルコによる福音書 第7章33節―35節前半)。
わたしたちは目が開かれるだけでなく、耳も開かれる必要があります。主イエスが地上におられたとき、彼は何度も人に神の言葉を宣べ伝え、多くの人が聞きました。しかしながら、主イエスは彼らに言いました、「神から出た者は神の言葉を聞く.あなたがたがそれを聞かないのは、あなたがたが神から出た者ではないからである」(ヨハネによる福音書 第8章47節)。ここの「聞く」は、「聞こえた」を意味します。聞こえたということはその声を聞いただけではありません。ある人は声を聞いただけでなく、神の言葉も聞きました。ある人は声を聞きましたが、神の言葉を聞いていません。これは完全に異なる世界の事柄です。
神の言葉は、そこにいれば聞こえるということではありません。人はそこにいますが、一言も聞いていないかもしれません。すべての声、すべての語句を全部聞いたのに、神の言葉を聞いていないかもしれません。神の言葉には特別な点があります。それは、聖書の言葉を聞き、聖書の外側だけに触れて、キリストに触れていないなら、あまり意味がないということです。神の言葉は別の領域にあり、別の世界にあって、人は神の御前で神とある関係を持つことによってのみ神の言葉が聞こえるようになります。
主イエスはヨハネによる福音書 第4章24節で言います、「神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」。第3章6節で彼は言います、「その霊から生まれるのは霊である」。また、第6章63節で彼は言います、「命を与えるのはその霊である.……わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である」。この数箇所の聖書から見ることができますが、神の言葉は霊であって、人が天然の頭脳、賢さ、知恵を用いても理解することができません。なぜなら、これは別の世界の事柄であり、通常の世界の事柄ではないからです。わたしたちはこの原則を認識する必要があります。それは、神が霊であるから、彼を礼拝するために霊を用いる必要があるということです。また、神の言葉は霊であるので、彼の言葉を受け入れるために霊を用いる必要があるということです。あなたは、頭脳を用いて神の言葉を受け入れることはできません。同じ性質のもので受け入れる必要があります。そうでなければ、受け入れることができません。
使徒パウロは言います、「あなたがたは真理の言、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、また彼の中で信じ、彼の中であなたがたはまた約束の聖霊で証印を押されました」(エペソ人への手紙 第1章13節)。これが意味するのは、主イエスを信じる信仰は主イエスご自身が人の中に置かれたものであり、神の信仰であり、イエス・キリストの信仰であるということです。
人が主イエスの御名を聞き、主イエスの言葉を聞いたとき、真理の言、すなわち人の救いの福音は、人の中で主イエスに対する評価と愛を生み出します。彼らは、主イエスはすばらしく、主イエスを信じることはすばらしいと感じて、内側で慕い求め、渇望します。これは、あなたが主の言葉を聞き、尊い主ご自身をあなたの内側にもたらして、あなたの内側の彼に対する信仰となることです。
主に全存在を開く――主イエスは偏在する霊であり、今やあなたは努力して彼を信じる必要はありません。あなたはただ単純に心を彼に開き、霊を彼に開き、口を開いて彼の御名を呼び求めて祈る必要があります、「主イエス、おお、主イエスよ、あなたを信じます。あなたを受け入れます。主よ、わたしの霊の中に入ってきてください。主イエスよ、わたしの心の中に住みに来てください。主イエスよ、あなたを信じることを願います。さらにあなたを信じることができますように」。このように簡単に祈るなら、必ず主に聞かれ、主はあなたの中に入って来ます。これは、電気器具のスイッチをつけて、電気を器具の中に入らせることと同じです。霊のスイッチはわたしたちの心です。心を開くなら、霊は霊である神に触れることができます。あなたが多く祈るなら、主も多く彼ご自身をあなたの中に分与されます。彼はあなたの目を開き、彼の尊さを見せてくださいます。彼はまたあなたの耳を開き、彼の真理の言葉を聞かせてくださいます。このようにして、あなたの中にある信仰はますます増し加わり、彼を多く得て、彼の豊富な救いを享受します。
日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第3期第6巻より引用