イエスとはだれであるのか?

福音メッセージ

過去二千年の人類歴史にわたって、多くの人がイエスを研究してきました。各世代にわたって、歴史家たちはイエスを研究してきましたが、多くの人々はイエスが実際にだれであるか依然としてわかりません。ある人は、イエスはキリスト教の創設者にすぎないと言います。ある人は、彼をユダヤ教における革命家だと言い、またある人は、イエスは西洋の聖人であると言います。いったいイエスとはだれでしょうか? 彼とわたしたちにはどのような関係があるのでしょうか?

わたしたちと密接な関係を持っている

「イエスとはだれか?」多くの人に対して、この問題は謎のようです。現代の人々がよく知らないだけでなく、当時の人々もあまりよく知りません。なぜなら、表面的に見れば、彼は完全に人であり、生きており、成長し、衣食住が必要であり、憂い、涙、労苦、ため息があり、わたしたちと同じです。もう一面から見れば、彼は神の力、神性、神の権威の表現を持っており、全く人と異なるので、理解しがたいのです。

あるとき、彼は弟子たちと舟に乗り、突然に嵐になって波が舟に打ち込み、舟は水浸しになりそうでした。弟子たちは漁夫でしたが、みな驚き、慌てていましたが、イエスはともで枕をして眠っておられました。そこで、彼らは彼を起こして言いました、「先生、わたしたちが滅びても構わないのですか?」。イエスは目を覚まして、風をしかりつけ、海に「黙れ! 静まれ!」と言われました。すると風はやんで、大なぎになった。彼らはひどくおびえて、互いに言った、「この方はいったいどなただろう.風や海でさえ彼に従うとは?」(マルコによる福音書 第4章35節―41節マタイによる福音書 第8章23節―27節)。

またあるとき、イエスは宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられ、ユダヤ人は彼を取り囲んで言いました、「いつまでわたしたちの心を、不安のままにしておくのですか? あなたがキリスト(神の子)であるなら、わたしたちにはっきり言ってください」(ヨハネによる福音書 第10章24節)。これは、イエスの同族の人たちでさえイエスがだれであるか知らないことを証明します。当時、ある人は彼を預言者の一人であると言い、反対者は彼を大工の息子であると言いました。ある人は彼を聖人であり、大宗教家であると言い、またある人は彼を社会改革家であると言いました。しかし、あるクリスチャンは、彼はキリスト、生ける神の子であり、人類の唯一の救い主であると強く証しして言いました。

友人のみなさん、考えてみてください。イエスとはだれでしょうか? あなたは、このことはわたしと関係ないと思うかもしれませんが、実際には、あなたとわたしに密接な関係があります。全世界において、このことより重要で密接な関係はありません。なぜなら、これはあなたの生涯の年月を影響するだけでなく、永遠に至るまであなたの魂と関係があるからです。

宇宙にただひとりの神がおられる

わたしたちは主イエスを知るために、宇宙における主権の事柄を考えなければなりません。すなわち、わたしたちは宇宙における神について語らなければなりません。もしわたしたちが宇宙における何百、何千ものさまざまな事柄や事物を見るなら、わたしたちはこの宇宙が調和の中にあることを認識するでしょう。なぜなら、それは本質において一であるからです。この一は宇宙が本質において一元的であることを証明します。例えば、一つの国に二つの政府があるとき、そこには一ではなく混乱があるでしょう。またもし一つの都市に二人の知事がいるなら、そこには二元的な統治があるので混乱があるでしょう。このゆえに、一つの国にはただ一つの政府があり、一つの都市にはただ一人の知事がいるのです。宇宙全体はこの一の原理によって治められています。宇宙の原理や法則は、混乱の中にではなく、秩序の中にあります。宇宙の行政は本質において一元的であり、この一元的な行政はただひとりの神がおられることを証明します。

宇宙の行政が一であるので、宇宙にはただひとりの神がおられます。もしわたしたちがこの論理を、宇宙におけるすべての事柄、大きなものにも小さなものにも拡大するなら、同じ原理が当てはまります。例えば、一つの国にはただ一人の指導者がいることができます。世界中で二人の指導者を持つ国はありません。指導者が王であれ、大統領であれ、別の称号で呼ばれるにせよ、ただ一人の指導者がいます。家族の中にはただ一人の父親がいるだけです。もし一つの家庭に二人の父親がいるなら、これは重大な問題となるでしょう。同様に、一つの学校には校長はただ一人だけです。一つの会社には社長はただ一人だけです。これは不変の原理です。これらの例証は、宇宙にはひとりの主権ある主がおられるという原理を説明しています。

宇宙に多くの主権ある主がいて、すべての人が神となることができるとしたら、それは恐ろしいことです。もし張さんが神になることができたなら、李さん、王さん、劉さんもまた神になることができます。もし宇宙の中のすべての人が神であるなら、宇宙は完全に混沌した状況になってしましうでしょう。感謝なことに、宇宙には多くの神はいません。宇宙にはただひとりの神、主権ある主、宇宙の創造主がおられます。

このような大きな宇宙でなくても、わたしたちの小さな体を見るとき、それはとても不思議です。多くの生物学者、医学専門家、化学者は人の体を研究することに努めてきましたが、結局、彼らの研究は答えを出すより疑問をさらに生み出しています。現在に至っても、人は自分たちの脳にあるすべてのこと、奥義でさえ知らないので、人は神になる資格がありません。わたしたちはどれくらいの髪の毛が頭にあるのか、またどれくらいの細胞がわたしたちの体の中にあるのか知りません。もしわたしたちが自分自身についてのこれらの事でさえ知らないなら、わたしたちが宇宙において主権ある主と等しくなることができると考えるのは愚かなことです。ですから、だれが神であり、だれが宇宙の主権者でしょうか? 宇宙の創造主また宇宙を管理する者だけが、主権ある主また神となることができます。彼だけが神であり、宇宙には唯一無二の神がおられるだけです。

イエスは肉体において現された神である

イエスと神の関係は何でしょうか? これはすばらしい質問です。宇宙におけるひとりの主権ある神の存在は、宇宙の中の事物や宇宙の中の秩序によって推測されますが、かつて神を見た人はだれもいません。それにもかかわらず、わたしたちはある物を見ることができないなら、それは存在しないと考えるべきではありません。科学はとても進歩したので、すべての人は知っていますが、わたしたちの身体の目は実在している多くの物を見ることができません。例えば、わたしたちは空中の電波を見ることができませんが、これらの電波が存在することを知っています。なぜなら、それらはラジオで聞くことができるからです。それゆえ、すべての人は、多くの物がわたしたちの目で見る能力を超えて存在していることを認識しています。

宇宙における神もそうです。神は現れたことがなく、だれも彼を見たことはありません。しかしながら、聖書はわたしたちに告げていますが、ある日、宇宙における主権ある主、ひとりの神、唯一の神が肉体と成りました。神は人と成りました(ヨハネによる福音書 第1章1節14節)。言い換えれば、彼は形が変わりました。彼はご自身を小さくし、人に具体化されました。彼は無限であり、彼は霊であり、とても偉大です。しかしながら、わたしたちの制限された人の感覚によれば、神はあまりに抽象的であり、わたしたちが彼を感じ、見て、触れる方法はありません。人が彼に触れ、彼と接触し、彼を知ることができ、理解するために、神はご自身をむなしくし、一人の人の中に具体化されました。宇宙の無限の神は、イエスという名の不思議な人と成ったのです。

イエスは人性を着られた神である

イエス・キリストは宇宙を創造された神です。彼は神であり、神は彼の中におられます。宇宙が創造された時、彼は神でした。しかしながら、彼が肉体と成った時、神は人の中へと入り、人性を着られました。主イエスが肉体と成ることを通して人性を着られる前、彼は神でした。しかし肉体と成ることを通して、彼は人の中へと入り、人性を着られました。神は、人が衣服を着るのと同様に、人性を着られました。人々はイエスを見た時、人を見ましたが、内側で彼は神でもありました。彼は人と成った時、なお神です。ただ、この神は何かを持つようになったのです。同じように人は衣服を着るとき、なお人であり、ただ外側で衣服を持つようになるだけです。

イエス・キリストとはだれでしょうか? 今、わたしたちは一つの答えを見いだしました。イエス・キリストは人性を着られた神です。イエス・キリストは、人性の中へと入って、人と成られた主権ある主、宇宙の創造主です。このゆえに、人として、彼は真に人です。神として、彼は真に神です。彼は人であり、彼は神です。彼はベツレヘムの町で生まれた時、マリアと呼ばれた人の処女から生まれました。彼は人ですが、彼は神でもあります。この事実は聖書のすばらしい言葉の中に見られます、「彼女は男の子を産みます.あなたは彼の名をイエスと呼びなさい.彼は自分の民を、彼らの罪から救うからです」(マタイによる福音書 第1章21節)。「見よ、処女が身ごもって男の子を産む。人々は彼の名をインマヌエルと呼ぶ」(23節)。「イエス」は、「エホバ救い主」という意味であり、「インマヌエル」は、「神われらと共にいます」という意味です。

処女から生まれたみどりごは、人の救い主となるために来た神、また人の中へと入って、人と共におられる神です。外側で、彼は人にしか見えませんでしたが、彼は人と共におられる神でした。旧約聖書はイザヤ書 第9章6節でこのことについて語っています、「一人のみどりごがわたしたちに生まれる.一人の男の子がわたしたちに与えられる……そして彼の名は、『不思議な助言者、大能の神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。ベツレヘムの飼葉桶で生まれたみどりごは、大能の神、永遠の父でした。彼は宇宙における主権ある主でした。このみどりごの中には宇宙における源、御父がいました。言い換えると、彼は永遠の父、大能の神であったのです。

イエスは神であるが人であり、また人であるが神である

主イエスは地上で生きた三十三年半の間、ご自身の神性と人性の両方を現されました。彼の人性において、彼はすべての人と同じでした。彼は食べなかった時は空腹になり、飲まなかった時は渇き、疲れた時は眠り、悲しかった時は涙を流されました。彼は人と全く同じでした。なぜなら、彼は真に人性を着られたからです。彼は遭遇した多くのさまざまな状況の中で、ご自身の神性を現されました。彼は風と海を静め、悪鬼に命じることができました。また盲人を見えるようにし、足の不自由な人を歩くことができるようにし、口の利けない者を語らせ、耳の聞こえない人を聞こえるようにしました。彼は人を死人の中から復活させることができ、人の心の内側の意図を知っておられました。なぜなら、彼は全知全能の神であったからです。彼の内側は神であり、外側は人です。このすばらしい方は、真に神であって人であり、また人であって神です。

詩歌(イエスやさしく呼びたもう)習志野に在る教会作成

もしわたしたちが神を知りたいなら、イエスを見る必要があります。もしわたしたちが人を知りたいなら、やはりイエスを見る必要があります。彼の中に、わたしたちは真の神を見ます。彼の中に、わたしたちは真の人を見ます。もしわたしたちが神を知りたいなら、主イエスを知らなければなりません。もしわたしたちが人を知りたいなら、やはり主イエスを知らなければなりません。彼は真に人であり、彼は真に神です。彼の中で、神と人は一つにミングリングされています。わたしたちがわたしたちの救い主として宣べ伝えているこのイエスは、人と成られた宇宙における主権ある神、万物を創造された神です。一方で、彼は人であり、もう一方で、彼は神です。

イエスは栄光を現した体をもって復活させられる

地上における彼の三十三年半の最後に、イエスは十字架上で死なれました。彼の死は、彼の肉体、すなわち彼が人であることと関係があります。もし彼が肉体と成っていなかったら、彼が十字架上で死に渡される道はなく、彼はご自身の体を犠牲とすることも、わたしたちのためにご自身の尊い血を流すこともできなかったでしょう。彼がご自身の体を捨て、血を流すことができたのは、彼が人と成って、人性を着られたからでした。彼は物質の体と血をもって、わたしたちのために十字架上で死なれました。そして、彼の死の三日後、彼は復活しました。彼の復活が影響を与えたのは、ただ単に彼の霊だけではありません。彼は肉体において復活させられたのです。彼が死なれた時、彼の物質の体は十字架に架けられました。彼が葬られた時、彼の物質の体は墓の中に置かれ、彼が三日目に復活した時、彼の物質の体は復活させられました。ハデス[陰府]から出て来たのは、彼の霊と魂だけではありませんでした。なぜなら、彼は体をもって復活させられたからです。

主が復活した後に弟子たちの所に来た時、彼らはおびえて、霊を見ているのだと思いました。彼は彼らに言いました、「わたしの手とわたしの足を見なさい.まさしくわたしなのだ。わたしに触り、そして見なさい.霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」(ルカによる福音書 第24章39節)。彼はこのように言った後、彼らにご自分の手と足を見せて言われました、「ここに何か食べる物があるか?」……彼らが焼いた魚を一切れ差し出すと、彼はそれを受け取って、彼らの前で食べられました(41節―43節)。主イエスは復活した時、依然として人の体を持っていましたが、この体は形が変えられていました。彼の十字架の前、彼の体は卑しい体、時間と空間によって制限され、規制された体でした。しかし彼の復活の後、彼の体は栄光を現した体、時間と空間によって制限されない、規制されない体でした。

今日、わたしたちが彼の栄光を現した体について多くを理解するのは困難です。しかしながら、ヨハネによる福音書は、一粒の麦が地に落ちて死ぬことについて語るときに、この事柄を例証しています。一粒の麦が地に植えられるとき、その外側の殻は腐敗し、そして新しい麦の芽が土から出てきます。この芽を出すことは、その種の復活です。その芽を出すことにおいて、麦粒の外側の形さえも変わります。もともと、それは黄色でしたが、緑色の芽として出てきます。この形が変わることの過程は、蝶においても見ることができます。最初、ちょうは醜い芋虫ですが、そのさなぎという「墓」の中で形が変えられた後、美しい蝶となります。これもまた、死と復活の例証です。

イエスが肉体と成った時に着られた人の体は、卑しい体でした。それには外側の美しさも麗しさもなく、制限されていました。しかしながら、彼の死と復活の後、彼の栄光を現した体には制限がありませんでした。彼の体は制限を受けない、栄光を現した体でしたが、それは依然として人の性質を持つ人の体でした。復活の後、彼は依然として神であり、依然として人でした。それはまさに、彼が肉体と成り、復活する前に、神でもあり人でもあったのと同じでした。肉体と成ることにおいて、彼は人と成りましたが、依然として神でした。彼の死と復活の後、彼は形が変えられ、栄光に入り、大能の神として現れましたが、依然として人であり、依然として人の性質を持つ人でした。彼は神ですが人であり、人ですが神です。これがわたしたちの救い主です。

わたしたちはこれら三つの段階を見る必要があります。第一段階は人となる前であり、彼は単に神でした。神は万物を創造し、万物を治め、そして万物は彼から出てきました。宇宙における主権ある主である彼は人を創造しましたが、彼は高い天にいる管理者であり、人とは何の関係もありませんでした。第二段階で、神は人性を着て、地上で三十三年半の間生きられました。彼は肉体を着て、身分の低い人と成りましたが、神が彼の中におられます。第三段階で、彼は死と復活を通して、彼の人の体を栄光にもたらし、ご自身を栄光の神として現されました。彼は栄光の神ですが、依然として人性を持っておられ、人の体を持っておられます。栄光の中で、神と人は今や共にミングリングされており、神性は人性と完全にミングリングされました。これは、人と神が神の栄光の中で一つにミングリングされることです。これがわたしたちの救い主です。これが、わたしたちが今日、信じている方です。彼は宇宙を創造されました。彼は万物を支配しておられます。彼はまた十字架上で死んで、わたしたちの罪を担われました。そして、彼は死んで復活した後も、依然として神です。人性を持ち、栄光にもたらされた体を持っています。彼は聖霊の中で人の救い主となられました。

主イエスはどのような偶像とも比べることができません。ましてや人が祭り上げた神とも比べることができません。彼はとても栄光です。彼は宇宙を創造した方であり、宇宙を支配している方です。彼はすべての人を創造した方であり、悔い改めた罪人を贖う方です。彼は神ですが、人であり、わたしたちの救い主となりました。わたしたちは彼を信じ、彼を礼拝します。これはなんと栄光あることでしょう!

日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」

第3期第1巻より引用