福音Q&A 神はなぜ人と成ったのか?

福音メッセージ


イエスが来た目的

人の命の特徴

神の命の特徴

神の命はどこにあるのか?

神の命以外に救いはない


失われた人を尋ねる
イエスは言いました、「人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカによる福音書 第19章10節)。これは、人類であるわたしたちは、もともと神の民でしたが、罪をむさぼり、父なる神から離れ、この世で寄留し、漂流し、苦しみと悲しみを味わっていたということを意味しています。そして天の御父はわたしたちをあわれまれたので、彼の御子が遣わされ、肉体と成られ、もっぱらわたしたちを尋ね出し、救われました。これは、このすずめの例証にたとえることができます。ある数匹のすずめが雪の上を飛び交い、飢えていて、冷えていて、少しの食べ物も見つかりませんでした。人は彼らを温かい室内へ連れて行こうとしますが、すずめは人の意図を理解できないので、人を見ると直ぐに飛び去ってしまいます。そして人が去ると、彼らはまた戻ってきて、助けようがありません。もし、人が形を自由に変えることができるなら、きっと自分をすずめの形に変えて、彼らを尋ねて部屋まで連れて行き、食事をさせ、水を飲ませ、暖まらせ、共に喜ぶでしょう。こういうわけで、イエスは人と成った神であり、それは、失われたあなたとわたしを尋ね出して救うためです。

神と人との間の仲保者となった
神は世の人を受け入れることが願いますが、世の人には罪があり、義の神は刑罰を与えることでいい加減であることができるでしょうか? 聖書は言います、「なぜなら、ひとりの神がおられ、また神と人との間にひとりの仲保者、すなわち人なるキリスト・イエスがおられるからです.この方は、すべての人のために、贖いの代価としてご自身を与えられました」(テモテへの第1の手紙 第2章5節―6節)。わたしたちは罪の負債を返すことができないので、主が人と神との間の仲保者となってくださいました。人の方法によれば、犯罪者が仲保者にお願いして罪の案件を終わらせるのですが、神はご自身の御子を遣わして、わたしたちの仲保者とならせてくださいました。

仲保者となる人は二つの条件が備わっていなければなりません。第一に、双方の代表となることができ、両者とも満足させなければなりません。もし、神が人に仲保者となってほしいなら、わたしたちはおそらくこの世で最も品格のある孔子を仲保者とし、彼に人類の代表とさせます。みなは満足しますが、神は満足することができません。なぜなら孔子には罪があり、罪人は神を代行することができないからです。ですから、神は彼の御子イエスを彼と人との間の仲保者として用意されました。イエス、またの名を「インマヌエル」(マタイによる福音書 第1章23節)は、神が人と共におられることを意味します。彼は神であり、人です。彼は神の御子であるので、神を代表することができます。彼は人のかたちを着ているので、また人を代表することができます。ですから、イエスのほか、だれも神と人との仲保者となることはできません。

第二に、両面の問題を解決することができる力がなければなりません。たとえば、ある人が負債者と債権者との間の仲保者となりました。もし、負債者が返済できないとき、仲保者は彼の代わりに返済しなければなりません。罪は返済しなければならない負債のようであって、人と神との間の罪の負債はどのように解決するのでしょうか? 血を流さなければ、罪は赦されません。なぜなら、「罪の報酬は死」(ローマ人への手紙 第6章23節)であるからです。わたしたちはこの代価を払うことができません。どうしたらよいでしょうか? このとき、わたしたちの仲保者である主イエスが出て来ます。彼は罪がなく、喜んでわたしたちに代わって罪の刑罰を受け、わたしたちに代わって十字架上で釘づけられ、わたしたちの罪の負債を完済し、神の義の要求を満たし、わたしたちの良心にあるすべての欠け目を洗い清め、人と神との間の平和を成就し、人に対する神の義と愛との相容れない問題を解決しました。ですから、主イエスのほか、わたしたちが救われるべき名は、天下のだれにも与えられていません(使徒行伝 第4章12節)

人に命を得させる
主イエスは言いましたが、彼が来たのは、人に命を得させるためです(ヨハネによる福音書 第10章10節)。これは、彼が人に彼の神聖な命を得させるという意味です。わたしたちが人の命と神の命を比べてみると、人の命はどれほど神の命を必要とするのかを見ることができます。

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汚れている
わたしたちの生活の状況からわたしたちの内側の命がどうであるかを知ることができます。なぜなら、命は生活の源であり、生活は命の流れ出であるからです。わたしたちの生活を見るとき、それは清いでしょうか? 純粋でしょうか? 規則正しいでしょうか? 誠実でしょうか? 汚れた考えはないでしょうか? 邪悪でみだらな悪念はないでしょうか? 不潔な言葉はないでしょうか? 不正な行ないはないでしょうか? もし、あなたの外側の生活が汚れているなら、それはあなたの内側の命も汚れていることを証明します。命は内側に隠されており、生活は外側に現れます。

不義である
命にはその行ないがあります。鳥が飛べるのは、飛ぶことができる命を持っているからです。魚が水中で泳ぐことができるのは、水中で泳ぐことができる命を持っているからです。同じように、桃の木が桃の実を結ぶことができるのは、桃の命を持っているからです。わたしたちが行なうことは、わたしたちの存在を証明します。友人のみなさん、あなたの行ないはどうでしょうか? 義でしょうか? 人道的でしょうか? 道徳的でしょうか? 約束を守っているでしょうか? 不正に私利を得ていないでしょうか? 盗んだことがないでしょうか? あなたの外側の行ないが義でないなら、あなたの内側の命は義であるとどうして言うことができるでしょうか?

ぜいじゃくである
―人の脆弱さは二方面に分けることができます。心理の面から言うと、少しの困難であなたは終日驚き、恐れ、悩みます。少しの重荷であなたは耐えられなくなり、自殺しようとします。小さい試練であなたはつまずき、失望します。軽い刺激であなたは、憤り、怒りが天にまで届きそうです。人の体の面から言うと、少しの病によってあなたは死に至ります。軽い衝撃でもあなたを死に至らせます。これらすべては、人の命がとても脆弱であることを証明します。

短い
聖書では、わたしたちの一生の長さが「手幅のようにされました」(詩篇 第39編5節)と言っており、また、「あなたがたは、自分の命が明日どうなるのか、わからない身です.あなたがたはしばらくの間、現れて、やがて消えていく霧のようなものです」(ヤコブの手紙 第4章14節)と言っています。友人のみなさん、あなたはこの生涯をあとどれくらい生きられるかを保証することができるでしょうか? あなたの余生はどれくらいの年月があるかを言うことができるでしょうか? ですから、人の汚れ、不義、脆弱さ、短さから言えば、人はみな救いが必要です。

罪や試みに打ち勝つことができない
人は自分が力強いと思いますが、罪に対しては極めて弱く無能です。わずかな罪も止めることができません。小さな試みにも勝つことができません。ある人は宿敵に勝つことができますが、か弱い女性に勝つことができません。ある人は千の軍隊に勝つことができますが、一本のタバコ、賭博のカード、一杯の酒に勝つことができません。ある人は大軍の陣を突破することができますが、風俗店、劇場、映画館、インターネットカフェを突破することができません。今日、喜んで罪を犯す人は何人いるでしょうか? 食べ、飲み、淫行、賭博することは自分を害し、名誉や信頼を損ない、家庭を崩壊させ、妻や子供に迷惑をかけること知らない人はいるでしょうか? しかし、どれだけ多くの人がこれらの前に立ち向かうことができるのでしょうか? これらの状況の中で、腐敗させられ、もてあそばれて苦痛を感じない人はいるでしょうか? しかし、逃れたいと言って逃れることができる人はいるでしょうか? あなたも長い間逃れるためにもがいたが、逃れなかったのではないでしょうか? あるいはあなたは現在に至るまでもなお希望をもってもがいていないでしょうか? しかし、あなたはどうしようもできずに、ため息をつくほかに何もできません!

気性、情欲に勝つことができない
気性は小さなことですが、人はそれに勝つことはできません。かんしゃくを起こさないようにすることができる人はいるでしょうか? あなたは何回もかんしゃくを起こして後悔したことがないでしょうか? そして何回も後悔した後に今後二度とやらないように決めてないでしょうか? しかし結果はどうでしょうか? あなたはすでに自分では制御できないことを知っていると思います。

情欲も同じです。強固な意志であっても、情欲はさらに強いのです。情欲が起こされるとき、あなたの意志はそれを制御することはできず、あなたの理性もそれに打ち勝つことができません。あなたの生活はまさに情欲によって動かされ、支配されています。すでにあなたの中に、あなたを自由にさせないある力があることをあなたはすでに知っているかもしれません。この力は、「欲」、「癖」、「中毒」と読んでも良いでしょう。どうであれ、それはあなたを制御する力があり、知らないうちに腐敗したことをあなたに行なわせます。あなたがそれに打ち勝とうと決心するとき、それは粘り強くあなたと争うことをあなたは見いだします。そして、あなたを捕らえ、行ないたくないことをあなたに行なわせます。

死に勝つことができない
「死」は人々が聞きたくない言葉です。「死」はよく歓迎されない事柄です。しかしながら、死は人が避けることができないものです。あなたは死を考えたことはありますか? あなたが葬式を見たとき、どのような感想を持ったでしょうか? 死の残忍さ、死の強さを感じたでしょうか? おお、死は何と残忍なことでしょう! 死は親の悲しみにかまうことはありません。死は妻の涙を顧みることはありません。死は子供の叫びに耳を傾けることはありません。おお、死はまた何と力強いものでしょう! 死に抵抗できるものはあるでしょうか? だれが死に抵抗できるでしょうか? ハデスが死を遣わしてあなたを取り去るとき、あなたは死に抵抗できるでしょうか? あなたは死に勝つことはできますか? 死があなたを捕らえたとき、あなたが行きたくないので行かなくなることはありません。あなたは死を避けることはできず、死に勝つことはできません! ですから、親愛なる友人のみなさん、少なくてもあなたはできないことが三つあります。あなたは罪の試みに勝つことができません。あなたは気性と情欲に勝つことができません。あなたは死に勝つことができません。

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聖である
神は聖であるので、当然神の命も聖であり、汚れと相容れることはできません。いかなる状況において汚れることはできません。また、積極面において光、清さ、神聖さを現し出します。

義である
神は不義なことを行なったことはなく、法に背いたり、約束を破ったりしません。神ご自身がそうであるように、神の命もそうです。彼は絶対的に義であり、すべての不義である不法のことに対して、彼は容認することはできません。

力強い
神に打ち勝ち、神を押し倒し、神を征服することができるものはありません。また、神に不可能はありません。なぜなら神は力強い方であるからです。神が力強いように、神の命もそのように力強いのです。試みは神の命に勝つことはできません。危険によって押し倒されません。情欲によって征服できません。彼の命に出来ないものはなく、人に負えない負担を担うことができ、人のできない生活をすることができます。

永遠である
神は永遠から永遠に至るものであるので、神の命も永遠から永遠に至るものです。神の命は時間の外におり、無期限、無制限であり、永遠の永遠です。
以上の対比から、わたしたちは、神の命の特徴はまさに人の命にはないということがはっきりしました。神の命のみが人を救うことができます。もし、人が神の命を得たなら、この時代において命の造り変えを持ち、聖である、義の、力強い生活を持つことができるだけでなく、将来において永遠の祝福を享受することができます。

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ヨハネの第1の手紙 第5章12節は言います、「御子を持つ者は命を持っています.神の御子を持たない者は命を持っていません」。ヨハネによる福音書 第10章10節において、主イエスは言いました、「わたしが来たのは、羊が命を得、しかも豊かに得るためである」。この二つの節はみな、神の命は彼の御子イエスの中にあることを告げています。人の命はよくありませんが、神は彼の御子である主イエスを通してご自身の命をわたしたちに与えてくださいます。

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人の中にある命は腐敗しており、いかなる方法をもって治したり、外側の行ないを改善したりしても、何の助けにもなりません。内側の命の腐敗は、外側の方法によって治したり、補ったりすることはできません。命の腐敗した人を救いたいなら、唯一の方法は彼が神の命を得ることです。神の命が人の中に入ったなら、命の根本的ないやしを得て、救いを得ます。

友人のみなさん! もし、あなたが神の命を得たいなら、あなたはこのように祈ることができます。
(一)自分の命は腐敗しており、神の命によっていやされる必要があること、また神の命だけが救うことができることを認めます。
(二)神の御前で心から悔い改め、自分の罪を憎み、自分のすべての罪を神に祈って告白し、神に赦しを求めます。
(三)あなたの罪を担うために、神の御子である主イエスが十字架上で血を流して死んだことを心から認めます。そして彼は死から復活され、昇天されたことを信じます。彼をあなた個人の救い主として受け入れます。

あなたがこのように信じるとき、命を与える霊である主イエスはあなたの中に入ってこられ、あなたに神の命を得させます。神ご自身が人と成られ、十字架上で贖いを成し遂げられ、復活して命を与える霊となられたことは、あなたが信仰を通して彼の命を得るためです。

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日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第4巻より引用

 

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