これは誰もが考え、その答えを得なければならないものです。
人の地上での一生涯において、
自分がどこから来たのか、どこへと向かって行くのかを知らないとするなら、
なぜ生きているのか、また人生の目的は何かを知らないとするなら、
それは本当にむなしく、あわれなことです。
この問題に対して、「人生の目的と意義」を探求する多くの書籍があります。その内容はおよそ以下のようです。第一に、人は自分のために生き、利己的であるというもの、第二に人は他の人のために生きるものであるというもの、第三に、人は主観的には自己のために生き、客観的には人のために生きるもの、等々があります。各種の観点が入り乱れています。
古代の哲学者、教育者たちはどのように言っているでしょうか? 孔子は「未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん」と言いました。彼は人がなぜ生まれたのか、人の生きる目的は何かを知らないのに、まして人が死んだ後はどうなるのかは知らないと言っているようです。これは中国の古人の状況でした。
西洋の哲学者の一人は、とても誠実な結論を提示しました。「人は生まれてくることを選択できず、命を失うことにも抵抗できず、ただ仕方なく生きている」。確かに、人はいつ生まれ、どのような家庭、国、時代に生まれるかを、選択できません。また、死を拒むこともできません。死が誰かを捕らえたなら、ただ黙って去っていくしかありません。死というのは冷酷無情です。いかに人が泣き叫び、乞い求めてみても死はそれに取り合ってくれません。生と死の間で、人は 仕方なく生きるしかありません。これは何と悲観的なことでしょうか。
古今東西、人生の問題において多くの探求がありました。まだ誰も満足のいく答えを出していません。なぜなら、人の源という重大な点がはっきりとしていないからです。
人の源とは何でしょうか? 聖書の創世記第1章は、人は神ご自身のかたちに、ご自身の姿にしたがって造られたと言います(26節―27節)。ですから、人は神が造られた、神のかたちと姿を持っています。わたしたちは手袋を例としてみます。手袋は手のかたちにしたがって造られています。手袋には造られ、存在する目的があります。それは手を入れるためです。手が、手袋に入れられる前は、手袋には手のかたちはありますが、その内側ではまだ、手が内容となっておらず、むなしい状況です。しかし手が手袋の中に入ると、手袋は内容を持ち、内側が満たされます。このように、人は神のかたちにしたがって造られています。これは、人の存在の目的は神が人の中へと入り、人の内容となることであることを説明しています。
新約聖書は特に、人は神が造られた器であることを告げています(ローマ人への手紙 第9章23節―24節)。器とは、何か物を入れる容器という意味です。人というこの器は非常に特別なものです。それは三つの層に言及します。外側は肉体です。内側には魂があります。その最も内側には霊があります(テサロニケ人への第1の手紙 第5章23節)。ですから人は、物質の食物を体の中へと入れる必要があります。それは肉体の生存を維持するためです。人はまた精神的な食物、例えば知識とか、愛情とか、友情、娯楽などを魂の中に入れる必要があります。しかし、人の最も深い所にも器官があります。それは人の霊です(23節、ゼカリヤ書 第12章1節)。それは特に人が神を入れるため、神と交わり、行き来するため、神が人のために特に造られたものです。神が人の中へと入り、人が神を命と内容とすることで人は真の満足を持ち、そうして人は神を生かし出し、神を表現し、神を代行し、そして神と一となることができます。これが人生の真の意義です。
詩歌(神の器ゆえ)習志野に在る教会作成
聖書の啓示によれば、人生の意義は非常にはっきりとしています。人が生きているのは、自分のためでもなく、また他の人のためでもありません。人が生きているのは神のためです。もし人が生きているのが他の人のためであるならば、彼の人生は満足できるものではないでしょう。人が生きているのが自分のためであるならば、その人の人生はさらにあわれなものです。人が生きているのは神のためです。人は神の器であり、神を受け入れ、神に内側に入っていただき、神に人の命と内容となっていただくためです。
人が神を認識せず、神を得ることもなく、神を内側に入れないで、人の生存の意義と価値を探求し、研究したとしても、永遠に回答を得ることはないでしょう。人生の意義への回答は、神の中にあります。ですから、すべての人生の意義を求めている人は、最終的には神を尋ね求め、神を受け入れ、神で満たされなければなりません。このようであれば人生は意義のあるものとなります。
聖書は、「神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」(ヨハネによる福音書 第4章24節)と言います。ただあなたの深みで神に開き、「神よ、わたしはあなたが必要です。わたしの内側へと入って来て、わたしの内容となってください。わたしの満足となってください。わたしの全存在を満たしてください。わたしの人生の意義となってください。」と言えば良いのです。あなたがこのように祈るなら、霊なる神はあなたの中へと入り、あなたの人生を徹底的に変え、あなたの深みは、意義と喜びと希望で満たされます。