罪やこの世と比べて、自己は対処し難いものです。なぜなら自己の力というのは、わたしたちの内側に密かにあるものだからです。わたしたち堕落した人は、生まれつき、罪が体の中に住んでいます。しかし罪は自己のようには、わたしたちの深くには入り込んでいません。ここで言っている、わたしたちの自己とは「心と更に融和された」ものです。自己とは、わたしたちそのものです。わたしたちは、聖書の啓示によって照らされる前に、すでに罪悪とは間違っているということを知っています。しかし、自己が働いていることに関しては全く感覚がありませんでした。わたしたちは、ある時は、人の前で意見に満ちあふれています。わたしたちの意見に自ら勝ち誇ることはあっても、自己の醜さを見ることはありませんでした。
ガラテヤ人への手紙 第2章20章は、「わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです」と言っています。自己が十字架につけられる必要性を見ていない、そのような人の上で、キリストが生かし出されるというようなことはありません。わたしたちが、ただキリストと共に十字架につけられることによって、キリストがわたしたちの中に生きられるのです。
2 つよく、ちからある、
天然のひとは、
自しん、自慢、自己愛、
自我に満ちる。
自己を拒ぜつして、
死にわたすとき、
霊のカナンにすすみ、
主をきょう受す。
[2 わたしの古い天然の性質の中で、
自己は強く有力です。
自信、自己愛、自慢、
自己の見せびらかしはすべて、
自己の意志に従うものです。
自己の各面を拒絶し、
死の地に置いてはじめて、
わたしは霊の中のカナンに進み、
主を安息として享受することができます。
(全訳)]
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第1巻より引用