霊的な目を開く

福音メッセージ

聖書の御言葉
「彼らの目を開き、彼らを暗やみから光へ、サタンの権威から神に立ち返らせるのである.それは、わたしにある信仰によって、彼らが罪の赦しと、聖別された人たちの間での嗣業を受けるためである」。(使徒行伝 第26章18節)

ヨハネによる福音書第9章では、主イエスが生まれつきの盲人に出会われたことが語られています。この例証の霊的な意味は、人は生まれつき神と霊のことについては何も知らない者であるということです。盲目とは、見えないこと、すなわち失明を意味しています。わたしたちはだれでも外側の目は見えますが、内なる目は失明しており、神と霊的なことについては全く何一つ見えない者であり、完全に盲目です。今わたしたちは、なぜ人が生まれつきの盲人であるのかを証明してみたいと思います。

第一に、わたしたちは生まれつき神を知りません。だれでもみな救われる前には、神はいないと言い張っていました。ところが事実、神がいないのではなく、わたしたちの目が見えなかったのです。第二に、わたしたちは宇宙について理解していません。この宇宙がどのようにして存在し、どのような状態になっているのか、また宇宙が最後にはどのようになるのかも、わたしたちは知りません。第三に、わたしたちは自分の源、行程、帰るべき所を知りません。第四に、神の奥義について、神がどのように宇宙において救いのご計画を持っておられるのか、神がどのようにキリストにあって、わたしたちの内に宿られるのか、どのようにわたしたちの命となり、わたしたちと結合して一となるのか、これらの霊的な事については、わたしたちはさらにわけがわからないでいるのです。第五に、聖書についてもなかなか納得できないのです。聖書は神の啓示であって、神がご自身のみこころを明らかにされた一冊の本です。ところが、救われる前は、いくら聖書を読んでも少しもわかりませんでした。これもまた、わたしたちの心の目が盲目である証拠です。

わたしたちは一つの事柄について、必ず三方面から見なければなりません。例えば、本を読むとき、第一にそれを開かなければなりません。もし開かなければ、見ることができません。これが、聖書の中で言われている「啓示」です。「啓」とは開くこと、「示」とは人に見せることです。二つを合わせて、開いて人に見せるということになります。しかし、開いただけでは足りません。もし暗やみの中で本を開いても、やはり見えません。ですから第二に、光でその上を照らされて初めて見ることができます。第三には、目が明らかで、視力が正常でなければなりません。もし失明しているなら、やはり見ることができません。そこで、開かれていてもなお光が必要であり、そのうえ視力が必要です。この三つが加えられてこそ、初めて見えることになります。

霊的に見るということも、これと全く同様です。一つの霊的な事柄の真相を知るためには、第一に聖書の啓示を必要とし、第二に聖霊の光の照らしを必要とします。神が聖霊を遣わされたのは、わたしたちを照らして、すべての真理を理解するように導いてくださるためです。第三に、わたしたちは霊的な目を持たなければなりません。この三つが備えられて初めて、わたしたちは霊的な事柄を知ることができるようになります。

神はすでに聖書を人に与えられました。神はすでに聖書を通してすべての霊的事柄を人々に啓示されました。神はどのような方であるのでしょうか? 宇宙はどのようなものであるのでしょうか? 人はまたどのようなものであるのでしょうか? 神と宇宙、神と人類は、どのような関係にあるのでしょうか? 人は今日どんな立場にあるのでしょうか? 将来の結末はどのようなものであるのでしょうか? これらすべてのことは、聖書の中に非常にはっきりと述べられています。同時に、聖霊もまたすでに与えられており、地上で人々を照らすために働いています。人が聖書を読むときには、いつでも聖霊がそこで照らす働きをしています。しかし、多くの人たちは、それでもなお聖書を読んでも理解せず、聖書で言われている霊的な事柄を見いだせないでいます。これはなぜでしょうか? それは人に霊的な視力が欠けており、人の内側が盲目であるからです。

人の内側が盲目であるだけでなく、人は生まれつきの盲人です。これは、人の内側の盲目とは生まれつきの問題、天然の問題であって、決して罪を犯した問題ではないことを物語っています。ですから、弟子たちが主イエスに、「この人が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか? 彼ですか、それとも彼の両親ですか?」(ヨハネによる福音書 第9章2節)と尋ねた時、イエスはそのどちらでもないと答えられました。この人が盲目なのは、罪を犯したという問題ではなく、生まれつきの問題です。ですから、罪を犯そうと犯すまいと、悪人であろうと善人であろうと、強盗、遊女であろうと、あるいは聖人君子であろうと、内側はみな生まれつきの盲人であり、みな先天的に見えない者です。

こういうわけで主は言われました、「神のわざが彼において現れるためである」(3節)。これは、霊的事柄について全く見えないのは、わたしたち自身の上に神のみわざの欠けている部分があるからであると言っているのです。わたしたちは生まれつきの盲人であり、わたしたちの天然はみな神を知らないので、わたしたちの内なる目が開かれるという神のみわざによって、見えるようにしていただかなければなりません。 わたしは親愛なる友人の皆さんに知っていただきたいのですが、自分は聡明で、知恵があり、人格は高尚で、道徳的な生活をしているから、決して盲人ではないと思ってはなりません。そうではありません。あなたは世の中の事、人情をわきまえ、学問知識があり、国際時事に詳しく、世界情勢についてもよく通じているかもしれませんが、神の霊的事柄に対してはやはり盲目であって、暗やみにいるのです!

生まれつきの盲人は、かつて光というものを見たことがなく、暗やみの中にいる人のことです。生まれつきの盲人はまた貧しい人でもあります。8節で言われている盲人は乞食でした。だれでも盲目であれば、貧しい者です。これはもちろん霊的な言い方です。ある人が霊的事柄を少しも理解せず、少しも神を知らないなら、その結果は、霊的事柄の上で貧しい人であるに決まっています。人が霊的事柄について貧しいのは、人の内なる目が開かれていないからです。ですから、このような人には、目が開かれて見えるようになるという一つの特別な必要があります。

霊的事柄においては、目が開かれるということほど大切なことはありません。主イエスがパウロを福音の宣べ伝えに遣わすに当たって、まず初めに彼に命じられたことは、主を信じない者の目を開き、それから彼らを暗やみから光へ、サタンの権威から神に立ち返らせ、また彼らが罪の赦しを得て、主を信じる信仰によって聖別された人たちの間にある嗣業を受けさせることでした。霊的な事柄はみな、目が開かれることに基づいています。もしある人の内なる目が盲目であったとしたら、霊的事柄については何一つ知ることも得ることもできません。

人の霊的な目はどのようにすれば開かれることができるのでしょうか? その日、主イエスは、地につばきをして、そのつばきで泥を作り、その泥を盲人の目に塗って、シロアムの池に行って洗うように言われました。彼が洗って来たとき、見えるようになりました(ヨハネによる福音書 第9章6節ー7節)。このようなことは、まるで意味のないことのように見えますが、注意深く見るなら、すばらしい霊的意味を見いだすことができるでしょう。ここに少なくとも四つの重点があります。

第一に、ここのつばきは主イエスの内から出てきたものです。これは、主イエスの内から出たもの、また主イエスの口から出たものです。ですから、このつばきは、主イエスの口から出た言葉を象徴しています。ヨハネによる福音書 第6章63節では、主イエスの言葉は霊であり、また命であると言っています。ですから、このつばきもまた主の命の言葉を表していることになります。第二に、ここにある泥は、わたしたち人を指しています。なぜなら聖書は、人は土で造られたものであると言っているからです。ですから、主イエスのつばきで泥を作られたというのは、土に属する人の内に彼の言葉をミングリングさせたことを表しています。第三は、盲人の目に塗ったことです。これは、聖霊がわたしたちの内側で働くことを指しています。主イエスの言葉がわたしたちの中に入ってきて、わたしたちとミングリングされるとき、さらに聖霊がわたしたちの内で働き、わたしたちの失明している部分に聖霊がミングリングされ、塗られます。まとめると、わたしたちの内なる目が開かれるために三歩が必要です。第一歩は、主イエスの言葉が内に入ってくること、第二歩は、主イエスの言葉によってわたしたちの内側でミングリングの作用が起こること、第三歩は、聖霊によって塗られることです。

わたしたちが聖書を読んだり、霊的な書物を読んだり、メッセージを聞いたりした後、しばらく静かにして、その見聞きした事を再び思い返していると、主イエスの言葉がミングリングの作用を起こし、同時に聖霊もわたしたちの内側で油を塗ってくださいます。その結果、わたしたちの内側は明るくなります。例えば、主イエスは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は、決して暗やみの中を歩くことがなく、命の光を持つ」(ヨハネによる福音書 第8章12節)と言われました。これは主イエスの言葉であり、ある人はこれを何度も読んでいます。しかし、主イエスの言葉を内側に受け入れてミングリングされることをしないために、いつまでたってもこの言葉の実際を見ることがないのです。もしある人がこの言葉を読んだとき、少し時間をかけて、この言葉を思い巡らしていると、主イエスのこの言葉が内側でミングリングの作用を起こし、聖霊もそれについて油を塗ります。すると彼の内側はたちまち明るくなって、自分は先ほどまで暗やみの中にいたのに、今では主イエスの命の光に照らされていると知ります。

しかし、この三つの歩みでは足りません。必ず第四の歩みが必要であり、それは、シロアムの池に行って泥を洗うことです。「シロアム」とは、遣わされたという意味であり、それは命令を聞いて従うことです。命令を聞いて従うというのですから、それはまた必ず信仰を持つということになります。この泥とは、わたしたちという人の自己を表しています。シロアムの池に行って泥を洗い落とすことの霊的意味は、自己を死に渡し、信じて従うことです。その日、この盲人が目に泥をつけたまま、もしシロアムの池に行って洗わなかったなら、盲目であるのにますます見えなくなってしまいます。同じように、わたしたちもまた主イエスの言葉を聞いて、聖霊が油を塗っているのに、そのとおり信じて従わなければ、必ずもっと見えなくなるでしょう。それは、「わたしに従う者は、決して暗やみの中を歩くことがなく」という主の言葉を、あなたははっきり聞いていながら、信じようとせず、従おうともしないでいるようなものです。あなたは、これは単にイエスがそう言っているだけであって、今日の人々はこの世に生きているので暗やみから離れることはできないと思っています。これこそ、シロアムの池に洗いに行かないことです。その結果、あなたはますます見えなくなるでしょう。

多くの人は、聖書を読んでも、聖書の言葉を心の中にミングリングさせません。あるいは、聖書の言葉をミングリングさせても、聖霊に働いていただかず、聖霊に塗っていただこうとしません。ある人は、聖霊に働いていただき、聖霊に塗っていただいても、信じて従うことをせず、あくまでも自己というこの泥のかたまりを残したまま、池の中に洗い落とそうとしないでいます。ですから、彼らの内なる目はいつまでも盲目であり、明るくならないのです。その泥は彼の自己であり、彼の内なる目を覆いかぶせて見えなくさせています。

シロアムの池に行くことは、信じて従うことですが、それはまたバプテスマされることの象徴でもあります。バプテスマされることは、信じて従うという意味を含んでいます。あなたは主を信じたでしょうか? 主を受け入れたでしょうか? 主は、「よろしい。それではバプテスマしに行きなさい」と言われます。あなたは、「わたしは行きます」と言います。これが、信じて従うことです。あなたがバプテスマされるとき、聖書はわたしたちに告げていますが、それがあなたというこの古い人を水の中に葬ることです(ローマ人への手紙 第6章4節、6節)。それが、あなたが自己を保留せず、自己を死に渡すことです。こうしてあなたの内なる目は確かに明るくされ、霊的事柄が見えるようになります。

この幾つかの歩みについて、わたしは一つの例証を挙げることができます。例えば、ある人が福音を聞いて、しかも長い間聞いていながら、何の結果もないとします。しかし、ある日、聖書を読んでいて、マルコによる福音書 第16章16節の「信じでバプテスマされる者は救われる」を見たとします。彼がこの言葉を読んだことは、まるで主イエスがその人の内側につばきを塗られたようなものでした。その時、主は、ご自身の口から出た言葉をその人の内にミングリングさせ、同時に聖霊もまた働いて、ミングリングされた主の言葉をその人の内側に塗るのです。その時に至って、彼は直ちにバプテスマされなければならないと感じます。これは、主が彼に向かって、シロアムの池に行って洗いなさいと言われたことです。その時、彼は決心して、「いいでしょう。わたしはバプテスマされます」と言います。このように決めたとしても、まだいろいろと心配して、すぐに服従して水の中に入ってバプテスマされようとはしません。こうなると、いつまでも遅れてしまいます。こうして延ばしている間にも、心の中ではいつも、「信じてバプテスマされる者は救われる。自分はバプテスマされることに決めたではないか? なぜまだくよくよ考えているのか?」と言っています。それでもやはり従おうとはしません。このような時は、どのようなメッセージを聞いても、聖書を読んでも、混乱してよくわかりません。しかし、主はいつまでも彼を放っておくことはなく、いつかは必ず重々しく彼に問いただす日が来ます。「あなたはまだバプテスマされないのですか? いつになったらバプテスマされるのですか?」。すると彼は何も言うことができません。そこでバプテスマされに行きます。こうしてバプテスマされると同時に、すっかり明るくなります! これは、自己という一かたまりの泥が洗い去られて、そのために内なる目が開かれたことです。この日から、彼にとって聖書は光を放ち、メッセージを聞いても理解できるようになります。

親愛なる友人の皆さん、主の言葉があなたの内側にミングリングされ、聖霊があなたの内側に塗られ、さらに信じて従うなら、あなたは自己というものを顧みずに、それを死に渡し、あなたの泥を水の中に洗い落とすことになります。もし自己をいつまでもとどめておくなら、自己という一かたまりの泥があなたの心の目を遮り、あなたの心の目は見えないままです。ですから、もしあなたがヨハネによる福音書第九章のこの物語によって啓示されている四つの歩み、すなわち、まず主の言葉を受け入れ、主の言葉があなたの心の中でミングリングの作用を起こすようにしていただき、心の中で聖霊に油塗りの働きをしていただき、しかも自己を顧みずに信じて従うなら、あなたの内なる目は見ることができるようになります。

 

JGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第3巻より引用