神は存在するか?

福音メッセージ

多くの人は神の存在についてはっきりしていませんが、この事柄はわたしたちの生活に大きな影響を与えます。神が存在することを信じる人たちは、ある種類の人生を生き、一方で神はいないと思い込んでいる人たちは、それとは異なる種類の人生を生きます。人として、わたしたちはこの質問についてはっきりしている必要があります。それは、わたしたちの人生についてはっきりするためです。

人々が神の存在について尋ねるとき、ある人たちは、神はいると強く言い、他の人たちは神などいないと強く言います。また他のある人たちは、いる、いないをはっきりと答えず、いると進んで言うこともなく、それと同時に、いないと進んで言うこともしません。この中間の部類に入る人たちは、いないと言うことを恐れています。なぜなら、神は存在するかもしれないからです。しかしながら、彼らはまた、いると言うのも気が進みません。なぜなら、もし神が存在しないなら、どうしようかと思っているからです? ですから、彼らはどっちつかずの態度で決定することができません。神が存在しないと思う人は、神が存在すると思う人をさげすんで、彼らは迷信的であり、浅はかであると言います。しかしながら、神が存在しないと思う人も迷信的であり、浅はかです。なぜなら、彼らは何をもって神が存在しないと断言し、神が存在している人が迷信的であると断言するのでしょうか?

神を信じない人たちは常に、信じる人たちに、神が存在する証拠を与えるように求めますが、まず神は存在しないという根拠を自分自身に問う必要があります。神は存在しないと言う者もその証拠を出さなければなりません。よく聞く彼らの最も有力な証拠は、今までに神を見たことのある人はだれもいないのだから、神は存在しないという宣言にすぎません。彼らは神を見ることができないことを、ある種の科学的な証拠と見なしています。しかし、自分たちの信念が見えることだけに基づいていることは、単に迷信的であるということです。たとえば、わたしたちは微生物や酸素の存在を見ることができないという理由だけで否定すべきでしょうか? 盲目の人が、この世には色というものは存在しないと言うことは論理的なことでしょうか? 耳の聞こえない人が宇宙には音というものはないと言えるでしょうか? 見たり聞いたりすることができないものの存在を否定することは理にかなっていません。

地球の表面積は約2億平方マイルであり、人は地球と比べて極めて小さいです。地球と太陽の距離でさえ、わたしたちの太陽系と他の星との距離と比較するとほんのわずかです。宇宙における星の間の距離は、光年を単位として測定されます。光は1秒間に約186,000マイル進みます。もし186,000マイルに1年間の秒数を掛けるなら、1光年に相当する距離は5兆8,657億マイル弱程度です。わたしたちの太陽系にある太陽と空にある別の星との最短距離は、約4・24光年です。もしこれが最短距離であるなら、はるか遠い星までの距離はほとんど無限に近いものです。もし宇宙の広大さを理解するのが困難であるなら、神が存在しないという決定は正しいとすぐに思い込むべきではありません。宇宙は広大であるのに、ある人たちはただ彼らが見ているものに基づいて、神はいないと進んで大胆に断言します。これは理にかなっていません。

宇宙はどのようにして存在するに至ったのでしょうか? 神はいないと言う人たちは、宇宙は自然に存在するに至ったと言うことしかできませんが、これは弱くて無責任な言い方です。宇宙を見て、天体の配列と物理の法則のすべてのすばらしい詳細を考えてみてください。天文学と物理学を勉強している人たちは、非常に多くの観測と定理があるにもかかわらず、宇宙について知られていない点が数多くあることを知っています。今日人類が知っていることは実に少なすぎます。「宇宙は自然に存在するに至った」と言うことによって、神の存在に異議を唱えようとすることは、実にあわれであり、無知なことです。

わたしたちが宇宙の秩序ある活動を見るとき、主権ある神がおられないとどうして言えるでしょうか? 天文学者の推測によれば、わたしたちの銀河系には億を超える星があり、また宇宙には億を超える銀河系があります。太陽系は、太陽を中心として、九つの惑星は太陽の周りを回ります。地球はその一つであり、時速67,000マイルで宇宙をかけまわり、また364日をもって太陽を1周します。考えてみてください。電車の時速はその1,000分の1ですが、よく遅れます。地球の回る速度が遅れるなら、どのような結果を生み出すのでしょうか? また、地球の公転、自転、23度半の地軸の傾斜は、1日の長さである24時間、1年の四季、あらゆる異なる気候をもたらします。太陽、月、地球の回転は、わたしたちにすばらしい1年をもたらします。太陽、月、地球における互いの距離は、命のために絶妙な生存環境を提供します。仮に、地球と太陽の距離が10パーセント短くなったり、長くなったりしたら、生物は焼け死ぬか、凍死してしまいます。仮に月と地球の距離が5万マイルであって、23万マイルでないなら、地球上のすべての海は月によって引き寄せられ、地球の表面は海によって覆われ、山も埋もれてしまいます。

太陽と月と地球との間の正確な距離と回転は、一人のすばらしい設計者がいることを示しています。宇宙がこのように広く、麗しく、規則正しく、秩序があることは、自然にできあがったと信じることは難しいです。天文学を知れば知るほど、ますます創造主の偉大さに感嘆します。

宇宙万物のすばらしさ、規則正しさ、正確さによって、わたしたちは背後にある設計者、創造者がいることを信じないわけにはいきません。また、宇宙における現象によって、わたしたちは宇宙にある管理者がいることを信じないわけにはいきません。因果律は、すべての現象の発生には必ず原因があると言います。精密な腕時計は、時計職人の手によってできます。丘の上に一軒の立派な家が建てられているなら、それは建築士の傑作です。ある庭園がきれいに整えられて柵が立てられているなら、それは庭園の管理者がいることを示しています。わたしたちがある家に入って、家の中が整理整頓されているのを見るなら、それはこの家に主人がいて管理しているということです。わたしたちがある都市に来て、交通に秩序があり、治安が良いことを見るなら、この都市には有能な市長がいて治めているのであろうと考えます。

自然科学の研究において、自然界は法則に満ちていることをわたしたちは見いだしました。人間社会が法則で満ちているように、宇宙は法則で満たされています。法律がなければ、人間社会は無法になり、混乱に満ちているでしょう。人間社会の法律には立法者がいるように、自然界の法則にも立法者がいます。これらは、物質宇宙の背後に一人の設計者、創造者、管理者、立法者がいることを説明しています。

 

わたしたちは、人の体がすばらしい方法で構成されていることを知っています。例えば、もしわたしたちの鼻が上を向いており、わたしたちの眉毛が目の下にあるなら、どうなるでしょうか? 人の創造は不思議です。あらゆる器官は、それ自身の深遠な原則にしたがって動いています。例えば、わたしたちの体の毛は下向きに伸びていますが、気管支にある毛は上向きに伸びています。これらの毛は体に悪いものがわたしたちの体の中に入らないようにしています。一滴の水でさえも誤って入ることがありません。このようにして気管支は常に乾燥状態を維持されています。人体の構造は何と不思議でしょうか! あらゆるところが精密に計画されていて、自然にできあがったと考えることは不可能です。もし、あなたがそれを研究するなら、創造の神の存在を認めざるを得ないでしょう。

たとえば血液の循環は、わたしたちの体のすべての器官を供給し、有害なものを体から取り除くことを促進します。血液の循環は、体を健康に保ち、病気をなくします。これは実に興味深いです! 一般的な物事は修正を必要としますが、人の体の構造には修正は必要ありません。もし修正されるなら、問題をひき起こすだけでなく、その見た目も良くなくなるでしょう。神の創造は完全であり、修正の必要はありません。わずかな修正を加えただけでも、それは不完全なものとなってしまいます。ですから、人の体の構造から、わたしたちは神の存在を見ることができます。


わたしたちの体が神の存在を主張するだけでなく、わたしたちの心も同様です。パウロは言います、「神について知り得ることは、彼らの内に明らかにされており、それは神が彼らに明らかにしたからです」(ローマ人への手紙 第1章19節)。これらの言葉は、はっきりと人の心の内側の経験を一言で言い表しています。神の存在は、人は自分の心の中で証明できます。人の中のあらゆる内側の必要に対して、人の外側にはそれに対応する供給があります。例えば、人の内側にある食物に対する欲求は、人の外側のさまざまな食物の供給によって満たされます。人が存在した当初から、人は神を知ろうとする探求をしてきました。この神を求める傾向は、神がおられることを証明しています。言葉では神を否定する人たちでさえ、彼らが弱いとき、乗り越えられない障害に直面するとき、肉体的に弱いとき、自然に神を呼び求めます。彼らが自然に神を求めるのは、神が存在することを心の中で知っているからです。

わたしたちは、権力、地位、富、知識、喜びは人の必要を満たすことができないことを知っています。人に対する唯一の真の満足は、神です。霊的な必要は、物質的なものをもって満たすことはできません。霊的に飢えている人は、神を受け入れるときはじめて満足します。人は新鮮な空気を必要としており、新鮮な空気を吸うとき、満足します。

神が存在することをわたしたちの良心は証明します。ある人たちは、神はいないと言います。なぜなら、彼らは神に対して差し迫った必要を感じていないからです。これは、若者たちの間によく見られる状況です。しかしながら、遅かれ早かれ、わたしたちはみな神を必要とすることに直面します。わたしたちが若い時、神が必要であると感じないかもしれませんが、年を取ると、必要であると感じます。若くて強い人はかたくなな心を持つことがあり得ます。それは彼をだまして、神は必要ないと思わせます。しかしながら、ある日、彼が彼の限界と弱さを認識するとき、神が必要であると認識します。神はいないと言うことは、しばしば一時的な思いの状態を反映しているにすぎません。人が神はいないと言えば言うほど、彼はますます弱くなり、恐れるようになります。それに対して、人が神はおられると言えば言うほど、彼はますます強くなり、力に満ちるようになります。なぜなら、神は強さと力の両方を持っておられるからです。

神を持っている人々は実に大胆です。一般的に言って、20歳の人が神はおられると言うかもしれませんが、彼の主張はそれほど大胆ではないかもしれません。彼が30歳に達する時、より大胆になり、年を追うごとに、ますます大胆になります。彼が50歳、60歳に達する時、神についての彼の語りかけは声高で、実に迫力があります。それに対して、神はいないと言う人は、20歳の時、彼の語りかけは実に迫力があります。彼が30歳に達する時、依然としていくらか力があって神の存在を否定しますが、年を追うごとに、次第に大胆さがなくなります。彼が50歳に達する時、彼は恐れるようになり、神は本当に存在しないのだろうかと疑問に思い始めます。彼はまた、もし神が本当に存在するなら、何が彼に起こるのかと心配し始めます。55歳になると、もはや主張できなくなります。60歳になると、神がいなければ不安になるかもしれません。これらは、神の存在に関する人の良心の証明と関係があります。

宇宙と人の体は、神の存在の強力な証明です。さらに、わたしたちの良心も神がおられることを証明します。わたしたちの周りの至るところに証拠があり、神が存在することを疑う余地はありません!

JGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第2巻より引用

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