もはや救いを遅らせず

福音メッセージ

いろいろなお店に行くと、「機会を捕らえて、今のうちに早くお買い求めください」という言葉をよく耳にします。これは販売手法であるかもしれませんが、確かに機会はなくなっていくことを告げています。人の救いも同じです。なぜなら、人の命は短く、だれも明日に何が起きるかがわからないからです。親愛なる友人のみなさん、あなたがたが救いの機会を捕らえることができますように。

救いの意義

人には罪があり、また人は死んでいる
聖書は、わたしたちが罪人であることを告げているだけでなく、わたしたちはみな死人であることを告げています。エペソ人への手紙第2章1節は言います、「あなたがたは、自分の違犯と罪の中に死んでいて」。人の罪に関して、わたしたちの外側には罪の行ないがあるだけでなく、内側にも罪の性質があることを聖書は示しています。わたしたちの外側における罪の行ないは、内側の罪の性質から出て来たものです。わたしたちの内側に罪の性質がなければ、決して外側に罪の行ないはありません。たとえば、ある木がりんごの木でなければ、永遠にりんごの実を結ぶことができません。りんごの木がりんごの実を結ぶのは、人がお願いしたり、教えたりしたからではありません。りんごの木がりんごの実を結ぶのは、命の中で自然に実を結んだからです。同じように、人類の間でうそつき専門学校はなく、うそつき教授もいませんが、人々はみなうそをつくことができます。うそをつくことは学ぶ必要がなく、教える必要もありません。うそをつくことは成長して出て来たものです。うそをつくことはわたしたちの性質の中にあります。わたしたちの心は極みまで悪であり、いやすことができません。子供は教えなくてもみなうそをつくことができます。だれもうそをつくことを彼らに教えていませんが、彼らの内側では成長してうそをつくことが出て来ています。同じように、人を憎む心とむさぼる盗みは、わたしたちの中にあるあの腐敗した性質から成長して出て来たものです。

表面的に見て、わたしたちの人柄は良いかもしれませんが、内側はそうではありません。以前、中国の人はよく泥で人形を作り、その上に色を塗って、とてもきれいに仕上げていました。ある日、ある父親が泥人形を買って、彼の小さい娘に与えました。この小さな女の子はこの泥人形をとても気に入り、よくその顔に触れていました。あちらこちら触れていくうちに、泥人形の顔はどろどろになりました。その女の子は、自分の顔が汚くなったとき、母親は常に自分の顔を洗ってくれたことを思い出しました。こういうわけで、彼女は水を使って泥人形の顔を洗おうとしました。しかし、泥人形の顔を洗えば洗うほど、ますますおかしくなり、めちゃくちゃになりました。そして、その女の子は泣き出しました。父親はなぜ泣いているのかと聞くと、彼女は言いました、「この泥人形を洗ったけど、洗えば洗うほど汚くなりました」。父親は彼女に答えて言いました、「わかってないですね。この泥人形は洗ってはいけないものです。なぜなら、それは泥で作ったものなので、洗えば洗うほど、ますますその汚さが現れ出ます」。

実はわたしたちもこの泥人形のようであり、外側には一層の粉が塗られていて、内側は腐敗しきっています。「心はすべてのものにまさって偽るもので、それはいやされることはない.だれがそれを知ることができよう?」(エレミヤ書第17章9節)。この言葉を自分と比べて見ると、わたしたちは確かに悪であることを認めざるを得ません。また、外側が悪であるだけでなく、内側から外側まで悪です。わたしたちの性質が邪悪であるので、わたしたちの行ないも邪悪です。わたしたちは神の御前で確かに罪があり、確かに罪人です。

これだけでなく、わたしたちはまた死人です。わたしが死人であるなら、どうしてここにいるのかとあなたは言うかも知れません。聖書が告げている死は、人が神の御前であるべき機能が失われたことを指しています。人は本来、神の姿とかたちにしたがって造られ、また神のために造られたものでした(創世記第1章26節)。ですから、人は善良であり、明るく、純潔であって、神の栄光を現し、神に喜ばれているべきです。しかしながら、人は堕落し、これらの美徳を生かし出す機能を失ってしまったので、神の御前では死んだような状態になっています。死の結果は機能を失うことです。たとえば、耳が聞こえなくなったことは、耳が機能を失ったことであり、死んだ耳になったことです。耳はありますが、死んだ耳になっています。もし、目が見えないなら、目が機能を失ったことであり、死んだ目になったことを意味します。これが死の意味であり、機能を失うことです。

神はわたしたちをどれほどうるわしく、賢く、知恵やあらゆる美徳を持つように創造したかを考えてみてください。しかしながら、神がわたしたちを創造したのは、わたしたちに罪を犯すようにさせるためではなく、わたしたちに彼のみこころを行なわせて、神の栄光を現し出すためです。わたしたちの経験から言えば、わたしたちは行なうことができません。北方の人の間であることわざがあります、「善を行なうのは山登りのようであり、悪を行なうのは水が流れることのようである」。あなたが耐え忍ぶことをしようとするなら、歯を食いしばらないと耐えることができません。しかし、あなたが怒ることはとても容易です。一言二言で十分にあなたを怒らせることができます。あなたが善を行なうことは、山登りのように困難です。あなたが悪を行なうことは、水が流れるように容易です。

ですから、善を行なうことについて、わたしたちは確かに機能を失っており、死んでいます。わたしたちは、両親を敬うべきであることを知っていますが、敬うことができません。わたしたちは、先輩を敬うべきであることを知っていますが、敬うことができません。多くのとき、わたしたちは先輩を敬い、親孝行することを心の中で思い、または口で言いますが、実際は行なうことができません。わたしたちができないのは、善を行なうわたしたちの機能が死んでいるからです。わたしたちが悪を行なうことはとても容易ですが、善を行なうことはとても難しいのです。あるとき、善を行なうようにだれかがわたしたちを強いたとしても、行なうことができません。なぜならわたしたちの善を行なう機能が死んで失われているからです。これは壊死した皮膚のようであり、知覚を失っています。今日の新聞を見てください。どれだけの罪深い事があるでしょうか。また、それらの悪を行なう人たちには少しの感覚もありません。多くの人、知識人や道徳的な人でさえ、彼らの善を行なう機能が死んでおり、悪に対して少しの感覚もありません。これがわたしたちの真の状況です。こういうわけで、わたしたちは実に救い主と彼の救いが必要です。

主は人のために死に、人の罪を解決された。彼は人のために生き、人の死の問題を解決された
このゆえに、主イエスはわたしたちのために十字架上で死に、わたしたちの罪を担い、その霊と成ってわたしたちの中に入り、わたしたちの命となり、わたしたちの中で生きておられます。彼がわたしたちの中に入って来られなければ、わたしたちの命は弱く、性質は腐敗したままです。わたしたちは一時的に善を行なうことができるかもしれませんが、長く続きません。わたしたちは三分間耐えることができますが、三日間耐えることはできません。なぜなら、わたしたちの命は弱いからです。ですから、真にわたしたちは主イエスにわたしたちの罪と死の問題を解決していただく必要があります。

わたしたちの罪の問題のために、主イエスが十字架上でわたしたちのために死なれることを必要とします。わたしたちの死の問題のために、主イエスがわたしたちの中に入り、わたしたちの命となり、わたしたちに代わって生きていただく必要があります。彼はわたしたちのために死に、わたしたちの罪を解決されました。彼はわたしたちに代わって生き、わたしたちの中にある死の問題を解決されました。あなたは罪を持っている人であり、主イエスにあなたに代わって生きていただく必要があります。彼の死はあなたの罪を解決し、彼が生きることはあなたの死を解決してくださいます。彼は、あなたのために死に、あなたのために生きてくださる救い主です。彼はすばらしい救い主であり、あなたのために十字架上で死んであなたの罪を解決してくださっただけでなく、さらにあなたの中に入って、あなたに替わって生き、死からあなたを解放し、あなたを力強い、命の力を持つ人とならせ、神を喜ばせることができるようにしてくださいます。

救いの重要性

古人は言いました、「人生の中で七十年生きるのはまれである」。聖書でも告げていますが、「わたしたちの年の日々は七十年、あるいは、壮健であっても八十年です.しかし、その誇りとすることは労苦と悲しみであり、瞬く間に過ぎ去り、わたしたちは飛び去るのです」(詩篇第90篇10節)。今日、人の真の必要は命です。命がなければ、人生のすべてのことは終わりです。人生の行ないや興味はすべて命にあります。しかしながら、すべての人の命は欠けており、むなしい命であって、人生の必要を満たすことができません。すべての人の命は、また短くて死ぬ命であり、永遠に生きることはできません。主イエスの命のみ、豊かで充実し、永遠に存続し、人生のすべての必要を満たすことができ、また人が永遠に生きるようにすることができます。この主イエスの命は、彼ご自身であり、人の中に入り、人の命となり、人の供給となって、人を満足させることができます。ですから彼はこのように言うことができます、「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしの中へと信じる者はいつまでも決して渇くことはない」(ヨハネによる福音書第6章35節)。飢えることがないということは、欠乏することがなく、むなしくなることがないということです。すなわち、満たされ、満足することです。友人のみなさん、あなたがたが今日、彼を選び、彼を受け入れ、命としての彼を得て救われますように。それによってあなたの人生がむなしさから出てきて真の満足を得ることができますように。

時間の中で救われる

人の堕落によって、人は罪人となり、また死人となりました。このときから、人は時間の中で、生まれてから常に死へと向かっています。創世記第5章の記載でわたしたちは見ますが、アダムが造られた後、いくらか生きて死にました。彼はセツという名の息子を生みましたが、またいくらか生きて死にました。この章全体は、アダムの子孫に関する記載であり、生まれること、生きること、死ぬことから離れられません。今日、わたしたちはみな時間の中で「生まれ」、時間の中で「生き」、また時間の中で「死」にます。今の社会はますます複雑になり、人が行なうことができる業種は、以前に述べられている三百六十種類よりもはるかに多くなっています。人生は華やかになって、わたしたちが努力し、奮闘する価値があるように見えますが、実際において、時間の旅路の中でわたしたちはみな三つの道しか歩みません。それは生まれ、生き、死ぬことです。生と死はわたしたちの手にはなく、わたしたちの持っている少しの権利と選択は、どのようにして生きるかだけです。親愛なる友人のみなさん、今日あなたの救いは重要なものです。すべての機会は時間の中にあり、時間を失えば、機会を失います。ですから人が何を行なうにしても時間を獲得する、すなわち機会を獲得する必要があります。ある格言はこのように言っています、「機会は戸から入って来て、窓から飛び出します」。これは真実です。あなたは戸を開けて機会を入れますが、それはあなたを待たずに出て行きます。ですから、今日まだ救われていない人は、機会を見つけて救われるべきです。

使徒パウロはエペソ人への手紙第5章16節で言っています、「今の日々は邪悪ですから、時を贖い取りなさい」。時という言葉は、原文によれば、機会と訳すこともできます。今日、神はわたしたちに時を与えてくださっています。この時はわたしたちの資本です。商売人が資本をうまく活用するように、わたしたちが時をうまく活用することを神は願っておられます。時に関して、中国人は時を大切にするようにと告げています。また使徒はこの節において、時を贖い取ることを告げています。彼が用いている「贖い取る」という言葉には二つの意味があります。一つは、わたしたちが堕落して失われた人であるので、わたしたちにある時間と機会も「堕落して失われて」います。たとえば、ある人が罪の中で堕落しているとします。彼という人について言えば、彼は堕落しています。彼の時間について言えば、彼の時間は彼と共に「堕落」の中にあります。わたしたち自身と時間を分けることはできません。わたしたちは時間の中におり、時間はわたしたちにあります。わたしたちが八時間寝たなら、時間もわたしたちと共に八時間「寝」ます。わたしたちが映画館の中で三時間座っていたなら、時間もわたしたちと共に三時間「座」ります。わたしたちが罪の中で堕落して失われる時間が長ければ長いほど、ますますわたしたちの「堕落して失われる」時間が長くなります。こういうわけで、一人の人が時を贖い取るためには、まずその人を贖い取る必要があります。徹底的に神に贖われないで、自分の時を贖い取ることができる人はいません。贖い取る言葉のもう一つの意味は、買い戻すことです。これは代価を払う事柄です。ですから、わたしたちは知恵のある者となるために、最初に時、すなわち機会を贖い取る必要があります。時を贖い取ることは、基本的にわたしたち自身が代価を払い、自分が救われて堕落から逃れることです。

わたしたちはなぜ時を贖い取る必要があるのでしょうか? 「今の日々は邪悪で」あるからです(16節前半)。わたしたちの日々において、多くの事柄は邪悪です。それらの邪悪な事柄は、わたしたちの時間を少しずつ消耗し、荒廃させます。たとえば、学校に通っている学生たちがいるとします。もしその校則がとても緩く、学生たちの間の勉強する雰囲気が良くなく、常に非行があるようなときに、親が学生に時を大切にして、勉強に励むように命じたなら、学校の勉強しない雰囲気に打ち勝たなければなりません。また、親は彼らに時を贖うことを求めるなら、彼らはまた学校にある邪悪な事柄に打ち勝たなければならないことを意味します。今日、すべての日々は邪悪で、その中には多くの邪悪な事柄があり、わたしたち自身と時間を浪費します。わたしたちが時を贖い取ろうとするなら、日々わたしたちに臨むあの邪悪な事柄に打ち勝つ必要があります。

機会を捉える

主を信じていない人に対して、「時間はまだあるし、機会もたくさんあるので、ゆっくりやりましょう」と決して言ってはなりません。聖書では以下のことを記載しています。あるエジプトの王であるパロは、心をかたくなにしたので、神はかえるを彼の住まいに入らせました。彼はモーセという名の神のしもべに助けを求め、かえるを彼から離れさせるように彼に替わって神に願い求めました。神のしもべは彼に尋ねました、「わたしがいつ祈願して、かえるをあなたとあなたの家から断ち切るようにするのでしょうか?」。彼は明日と答えました(出エジプト記第8章9節―10節)。彼の考えを不思議に思わないでしょうか? 彼はかえるともう一晩過ごし、もう一晩臭いにおいの中にいるということです。彼は明日と答えました。彼は明日まで待つということです。多くの人は、わたしには罪があり、平安もないが、機会がまだあると思うので、もう一晩苦しみ、もう一日罪を犯す必要があると思っています。しかしながら、わたしはあなたに告げたいと思いますが、この事柄は明日まで待ってはなりません。機会があるなら、神に求める必要があります。救いは今の事柄であり、また救いは今日の事柄です。もう一日が過ぎると、あなたに機会があるとは限りません。友人のみなさん、もし、あなたはすでに福音を聞いたことがあり、イエスがどのようにしてあなたのために死に、あなたのために復活されたかを知っていてなお、もう少し待ってから信じようと思うなら、あなたに今信じることを勧めます。もはやあなたの機会はないかもしれません。

ある兄弟が南京の某女子校で福音を伝えていました。この兄弟は数日宣べ伝え、最後になって、自分に質問があるなら聞くことができると彼女たちに伝えました。ある女子学生は尋ねました、「わたしはイエスを信じるべきであることを知っており、イエスはわたしの救い主であることも知っていますが、一人の強盗が亡くなる直前に救われたことをあなたは先ほど告げてくださいました。わたしは亡くなる直前に主を信じても良いのでしょうか?」。この兄弟は彼女に答えて言いました、「亡くなる直前になって主を信じても必ず救われますが、ここには三つの問題があります。第一に、あなたはいつ亡くなるのかを知っているのでしょうか? 第二に、あなたが亡くなることは必ずゆっくり亡くなっていくことであるのでしょうか? あなたが信じる時間がどれだけあるのでしょうか? あなたは亡くなることがゆっくりであるので、主を信じる機会があるということを保証することができるのでしょうか? 第三に、今日あなたはここで、わたしは主イエスを信じるべきであり、わたしに罪があることは真実であるとまだ言うことができますが、あなたが亡くなる日に、なおもこのような心があると保証することができるでしょうか? あなたの死期が近づいたことを知っていたとしても、あなたは必ず信じることができ、必ず信じると言うことができるでしょうか?」。親愛なる友人のみなさん、もし、あなたが機会を待とうとするなら、その時はすでに過ぎているかもしれません。今日あなたが救われる機会を失うことがないように願います。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第5期第7巻より引用

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