マルコによる福音書第5章は、主イエスが血の流出を患っている女をいやし、死んだ少女を復活させたことを述べています。彼女たちの救いは「信仰」によって触れたことに基づいています。
イエスは海辺にやって来られた
福音書において、主イエスは罪人の友と呼ばれました。なぜなら、海は罪深い源であり、主イエスは、罪人が彼に近づくことができるようにするためによく海辺にやって来られたからです。彼は人を召し、人を教え、人をいやされました。「イエス……は海辺におられた。すると、会堂管理人の一人で、ヤイロという名の者が来て、イエスを見ると、彼の足もとにひれ伏した.そして、しきりに彼に懇願して言った、『わたしの小さい娘が死にそうです。どうか、おいでになって、手を置いてやっていただき、娘がいやされ、生きるようにしてください』。そこでイエスは彼と共に行かれた.大群衆は彼について行き、彼に押し迫った」(マルコによる福音書第5章21節ー24節)。
いやしを得るために二つの面で求める必要がある
この重病を患っている少女は自分で主イエスの御前に来ることができなかったので、彼女の父であるヤイロが彼女の代わりに来て求めました。主イエスが彼の家に来てくださるようにヤイロが懇願したことは、彼に強い信仰があったことを示します。また主も彼と共に行くことに同意されました。同じ時に、大群衆が主に押し迫っている中で、「十二年間も血の流出を患っている女がいた。彼女は多くの医者にかかってさんざん苦しめられ、持ち物を使い果たしたのに、何の効果もなく、かえって悪くなる一方であった。彼女はイエスのことを聞くと、群衆にまぎれて彼の後ろに近づき、彼の衣に触った」(25節ー27節)。血の流出は不正常な出血、流血、または血の漏れです。肉体の命は血の中にあります。ですから、流血のような病は命を保つことができないことを表徴します。この女が患っていた十二年はちょうどその少女の年齢でした(42節)。彼女たちは二人とも女性です。一人は年長で、一人は幼い者です。ですから、この二人の事例は合わせて、一人の全体的な事例として見ることができます。これが啓示しているのは、人の救いの一面は他の人が代わりに求めることが必要であり、もう一面は自分で求めることであるということです。
押し迫っている群衆を突破してイエスに触れる
群衆が主イエスに押し迫っており、彼を囲んでいるので、真に尋ね求める者が彼に触れることはとても困難でした。しかしながら、血の流出を患っているその女は、イエスのことを聞くと、群衆にまぎれて彼の後ろに近づきました。彼女は群衆の押し迫ることを突破しただけでなく、イエスの衣に触れました。なぜなら彼女は、「彼の衣に触りさえすれば、わたしはいやされる」(27節ー28節)と言っていたからです。押し迫ることはただ主イエスにとても近いだけですが、「触」れることは主イエスに接触することです。すると直ちに、この女の血の源が乾いて、彼女はその病苦がいやされたことを体に感じました(29節)。救い主に押し迫った群衆は何も得られませんでしたが、彼に触れた者はいやされました。
イエスの衣
その女はイエスの衣に触れ、「イエスは直ちに、力がご自分から出て行ったことを感じ、群衆の中で振り向いて、『わたしの衣に触ったのはだれか?』と言われた」(30節)。衣は人を隠すものです。衣を着ている人に触れようとするなら、彼の衣装にしか触れることができません。ですから、衣は人の行ないを指します。その女が主に触れたとき、厳密に言えば、主の衣に触れたのです。衣に触れることは、主の行ないや振る舞いに触れることです。すると主は、内側から彼の美徳、すなわち彼の力が彼から出て行って、一人の人の中に伝達されたという感覚を持ちました。こういうわけで、彼はだれが彼の衣に触れたかを尋ねられました。このことがわたしたちに告げているのは、人はそんなにも直接的に主イエスご自身に触れる必要はなく、ただ主イエスの行ないと振る舞いに触れるだけで救われるということです。
その女は、自分に起こったことを知って、恐れおののきながら、彼の前に出てひれ伏し、ありのまますべてを彼に告げました。イエスは彼女に言われました、「娘よ、あなたの信仰があなたをいやしたのです。平安の中を行きなさい.あなたの病気は良くなりました」(33節ー34節)。この女がいやされたのは、彼女が特別に「触れた」からです。ここの「触れた」ことは、イエスが彼女の病をいやしてくださることを信じたことです。ただ触れるだけで良いのです。なぜなら、これは極めて深い必要によって彼女が神に助けを求める手を伸ばしたことを意味するからです。主が彼女に語られた言葉は、愛と慈しみを伴っており、同情の中で彼の甘い人性を現し出しました。
二人の女は一人を象徴する
イエスがまだ話しておられる間に、人々が会堂管理人の家から来て言いました、「あなたのお嬢さんは亡くなりました。なぜ、これ以上、先生を煩わせることがありますか?」。しかしイエスは、その言が耳に入ると、会堂管理人に言われました、「恐れることはない.ただ信じなさい」(35節-36節)。ここで再び見ますが、主の救いを得るためにただ「信じ」る必要があります。主がヤイロの家に着き、子供のいる所に入って行かれました。そして子供の手を取って、彼女に「タリタ、クミ!」と言われました(それは、「少女よ、わたしはあなたに言う.起きなさい!」という意味です)。すると、すぐに少女は起き上がり、歩き回りました。彼女は十二歳でした(40節ー42節)。
この事例は、最初に少女の父がいやしを求め、主が彼女をいやしに行く途中に、また女の人がいやしを求めることに出会ったのです。年上の者がいやされたときは、年下の者がいやされたときです。この二人のいやされた女性に関連する数字は両方とも十二です。女の人は十二年間病を患い、少女は十二歳です。この意味は、少女が生まれたときに、その女は病を患い、少女は女の致命的な病のときに生まれ、またこの病によって死んだということです。女の致命的な病が主によっていやされたとき、死んだ少女も死から復活しました。これは、堕落した人はみな罪の中に生まれ、また罪の中で死んだことを表徴します。人の罪が救い主の贖いの死によって対処された後、人は死から命へと入ります。
聖書では少女が何の病を患っていたかを語っていません。もし、この二人の女が一人の人とするなら、彼女たちの病は両方とも血の流出の病です。血の流出とは、命の本質が漏れて、人を死に至らせる病です。人は生まれながら血の流出を持っているとも言うことができます。堕落したアダムの子孫はみな日々死んでいます。人は生まれながら、死に始めています。死とは何でしょうか? 死は命の本質が漏れていることを経験することです。今日の社会を見ればわかりますが、すべての罪人は命の本質が漏れる病を患っています。ですから血の流出がいやされることは、死にかかっている人が生ける命を得ることです。
救いの力
救いの力は救い主の救いによるのであって、人の行ないの改善によるのではありません。その血の流出を患っている女は、多くの医者にかかってさんざん苦しめられました。「医者」は人の助けと教えを象徴します。しかしながら人の教えと助けは何もできませんでした。その女が「持ち物を使い果たした」ことは、彼女は多くの代価を払って行ないを改善したが、結果的に多くの苦しみを受け、多くの事を行なったが、少しも良くならなかったことを意味します。孔子、親、医者は人の行ないに対して何もできません。
また、救いの力は超越的なものです。その女が救い主に触れて直ぐに、超越した力が救い主から出て行きました。神は人が近づきがたい光の中に住んでおられますが、主イエスの中におられ、彼の人性を通して触れることができる存在となり、人の救いと享受となられました。
最終的に、救いの力はイエスに触れることによります。主は、肉体と成った神です(ヨハネによる福音書第1章1節、14節)。彼の衣は人性における彼の完全な行ないであり、人としての彼の美徳における完全さを象徴します。彼の衣に触れることは、実際に神の具体化(コロサイ人への手紙第2章9節)である彼の人性に触れることです。この触れることを通して、彼の神聖な力は彼の人性の美徳を経過して、彼に触れた者の中に注入され、人のいやしとなります。
救いの結果
この事例からわたしたちは人の救いにおける二つの結果を見ます。(一)罪が取り除かれる。女が血の流出からいやされたことの意味は、罪を取り除くことです。血の流出とは、人は生まれながら罪を持っており、人から出てくるものは何であれ罪であるということです。今やキリストに触れたことによって、キリストから出てきた力がわたしたちの罪を取り除きます。(二)生き返る。少女が女がいやされた後に生き返ったことは、人の罪が取り除かれた後に生き返ることを意味します。これが示しているのは、堕落したすべての人は、生まれながら致命的な罪の病の中におり、その中で死ぬということです。人の致命的な罪の病が救い主の贖いの死によって対処された後、彼は起こされ、死から命へと入ります。
その日は、多くの人が主イエスに押し迫っていましたが、彼らには何の変化もありませんでした。主イエスに触れたその女だけがすぐに彼女の体において変化が起こりました。この女には信仰があり、感覚があったので、彼女がやって来て主イエスの衣に触れたとき、いやされました。今日、わたしたちが彼に近づくことができるのは、彼が先にわたしたちに近づかれたからです。彼がわたしたちの人生の海辺にやって来られることによって、わたしたちの必要を満たしてくださいます。わたしたちの内側には少しの信仰も見いだせないかもしれませんが、わたしたちは信仰を与えてくださるように主に求めることができます。わたしたちの状況がどうであれ、問題がどうであれ、彼に近づくだけで、彼は必ずわたしたちを救ってくださいます。
主を信じて救われることは、教理を受け入れることではありません。教理は人を救うことができません。それは超越した力、すなわち神の力が人に臨み、人に救いを得させることです。あなたがイエスに触れるために、彼自身を目で見て、手で触れる必要はなく、彼の行ないに触れるだけで良いのです。すなわち、主イエスは神が肉体と成り、人としてあなたのために十字架につけられ、また死から復活したことをあなたが信じることが彼の衣に触れるということです。あなたは、彼があなたのために行なったこれらすべてのことを信じるなら、必ず彼のいやしを得ます。親愛なる友人のみなさん、あなたが触れるなら、必ず救われます。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第5期第6巻より引用