人には切実な問題があり、それは罪の事柄です。人の天然の観念において、自分の短気、人との不和、人との争いは、自分の間違った行ないにすぎないと思っています。しかしそうではなく、人の間違った行ないは人の外側における表現であり、背後には人の内側の物語があります。人の中に住んでおり、人にあらゆる悪事を行なわせるものを、聖書では「罪」と呼んでいます。
聖書のローマ人への手紙で使徒パウロは告げています、「もしわたしの行なっていることが、自分の欲しないことであるなら、わたしは律法が善であることに同意することになります。ですから、それを行ない出しているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。わたしは自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものが住んでいないことを知っています.なぜなら、わたしは善をしようと欲するのですが、善を行ない出すことはないからです」(ローマ人への手紙第7章16節―18節)。ここで述べられている罪は人の肉の中に住んでいます。罪は生きているものであり、生けるパースンでさえあり、人の中に住んでいるだけでなく、人を誘惑し、人の欲しないことを行なわせるように人を束縛します。罪は人を迫害し、人を自分の理性に背かせ、規則、道徳、常識の事柄を踏み越えさせます。
人は罪人である
罪とは中国の理学(儒学)家が「理欲の争い」と呼んでいる「欲」です。聖書によれば、この罪はあの悪しき者であるサタンからきます。ローマ人への手紙第5章12節は言います、「こういうわけで、一人の人を通して罪がこの世に入り、そして罪を通して死が入ったように、すべての人が罪を犯したために、死がすべての人に及びました」。サタンは彼の邪悪な毒素を神が創造した最初の人であるアダムの中に注入したので、それから罪は人の天性の中に隠れ、人は罪人となってしまいました。人は罪を犯し、悪を行なうことについて教わる必要はありません。たとえば、子供にうそをつくことを教えなくても、彼はうそをつくことができます。ですから、罪は外側で学ぶのではなく、内側から出てくるものです。人がある年齢まで成長すると、罪は現れます。さらに成長すると、犯す罪はより大きくなります。人が年をとればとるほど、その人の罪はますます多く現れると言えるでしょう。
人は罪人であり、これは議論する必要のない事実です。一本の木が実を結ぶように、罪は人において現されます。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。わたしたちが成長すればするほど、ますます罪は現されます。表面的には、罪は感染するものであって、外側で学ぶものであるように見えます。しかし実際には、罪はわたしたちの内側から出てくるものです。わたしたちの中には罪を犯す命があり、わたしたちの肉の情欲を引き起こす事柄に出遭うとき、悪事を行なってしまうでしょう。これは一粒の罪の種のようであり、適した土壌、空気、水に出会うとき、成長し、罪の実を結びます。
罪は人に三層の災いをもたらす
人生を腐敗させる
罪は人に苦しみをもたらします。また、人における罪の災いは三層に分けることができます。第一層はわたしたちの人生を腐敗させることです。人生は本来極めて美しく、豊富であるべきですが、罪は人を堕落させ、人生を完全に破壊し、人を腐敗の中へと陥らせます。賭博を例証とします。「賭けごと」は、人を惑わすものであり、説明できない魔力と吸引力を持っており、人は賭博用具をいったん持つと、手放すことができなくなり、すべてを失うまで負けなければ終わりません。最終的に、ある人は学業を放棄し、仕事を失い、さらには全財産を失い、すべてを失いました。
さらに飲酒を例証とします。ある人は相当良い学位を得ましたが、飲酒のゆえに彼は完全にだめにされました。アメリカのニューヨークとロサンゼルスにも、酒に酔って道ばたに倒れている人が多くいる通りがあります。あなたはその内の一人と話すと、彼は某大都市の弁護士であったことがわかるかもしれません。彼はアルコール中毒のゆえに、この状況に陥り、抜け出せなくなっています。
賭博と飲酒以外に、打ち勝つことが難しいもう一つの悪魔がおり、それは人の内側にある性欲です。老若男女のだれであっても、性欲に打ち勝つ者は多くいません。これによって、人は不名誉なことを行ない、自分の家族に顔向けができなくなってしまいます。実は、すべての人が知っていますが、多くの悪事は人の心の中では行ないたくないのです。しかし、人の内側にある権力が常に彼を引きずり、彼の行ないたくないことを行なわせます。これは、人の内側にある罪であり、人の美しい人生を破壊します。
良心の苦しみ
人における罪の第二層の破壊は、人の良心を苦しませ、平安を失わせることです。人は神が創造されたものであり、神は人の内側に良心を造られ、神を代行させました。人の内側で良心は、是非を識別する器官です。あなたが罪を犯し、悪を行なったなら、良心はあなたの内側であなたを罪定めするでしょう。これは人類における共通の経験です。人が間違ったことを行なったなら、良心は必ず不安になるでしょう。そして年を取って、この世から去ろうとするとき、良心には耐えがたい苦しみがあることを見いだします。そのときあなたは彼に、「体の病で苦しいのですか?」と尋ねるなら、彼はこのように言います、「苦しいのは三十年前にあることを行なってしまい、その人に対して申し訳ないからです。今やそれを償うことができません」。こういうわけで、死ぬ間際において、良心に平安がありません。この良心の苦しみは、肉体の苦しみ以上に苦しいのです。人の良心が誠実でなければ、喜びと安息はありません。
裁きと滅びの結末
人における罪の第三層の破壊は、人を滅びの結末へともたらすことです。聖書はこのように告げています、「人が一度死ぬことと、その後、裁きが定められているように」(ヘブル人への手紙第9章27節)。今のこの世において、すべての国にはある定められた法律があり、人が悪事を働いて罪を犯すなら、法律の制裁を受ける必要があります。同じように、この宇宙にもある主権者がおられ、今日わたしたちがこの世で行なうすべてに対して、将来のある日、この主権の神と顔を合わせます。わたしたちは彼に清算しなければならず、彼は、わたしたちが永遠の命にふさわしいのか、永遠の滅びに入るのかということを審問します。わたしたちが罪を犯しているなら、わたしたちの人生は破壊されるだけでなく、わたしたちの良心が安息することはありません。さらにわたしたちは神の裁きに直面しますが、その結末は滅亡と永遠の滅びです。
神の救いの道
数千数百年を通して、人類の歴史はすべて証明していますが、人類の教育と改善は人の内側にある罪の性質を変えることができません。サーカス団にいる猿は訓練を受けた後、とても良く演技することができます。調教師がむちを取り出すと、猿は立ち上がり、小さい礼服を着て、規則正しく洋食を食べます。しかしながら、演技の後、むちがないのを見ると猿はすぐに本性を現わし、礼服を捨て去り、先ほどの礼儀作法は少しもなく、食べ物を手でつかんで食べ始めます。動物の本性であれ、人の本性であれ、教えによって変えることはできません。
人の内側にある罪は一つの権威、あるいは一つのわなのようであって、人はそれに打ち勝つことができず、逃れる力もありません。しかしながら、神に感謝します。人に望みがないときに、神は人のために救いを備えてくださいました。聖書は言います、「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた』という言は信実であって、全く受け入れるに値します」(テモテへの第1の手紙第1章15節)。ですから、あなたは自分が罪人ではないと言うなら、イエス・キリストはあなたと無関係になります。彼は罪人を救うために来られました。わたしたちはここで一つの大きな喜びのメッセージを伝えています。今日、罪人には救われる道があります。キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られました。わたしたちは自分が罪人であると認め、罪を告白し、彼を信じるだけで、救われます。
主イエスはわたしたちのために死に、わたしたちの罪を担われた
神の救いには二つの面があります。一つの面は、彼がわたしたちのために死なれたことです。それは聖書で告げているように、彼は、「世の人の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書第1章29節)です。彼はわたしたちのすべての罪を担われました。中国人が言っている「功労は罪を解消する」の意味は、これからあなたは良いことを行なえば、以前の罪の過ちを完全に解消することができるということです。この理論は、神の御前では通用しません。なぜなら、良いことを行なうのは本分であって、なぜ功績として数えられることができるのでしょうか? またあなたが以前に犯したあらゆる罪は、あなたが今後良いことを行なっても完全に解消し、消すことはできません。しかしながら、主イエスは十字架上でわたしたちのために死に、わたしたちのすべての罪を担われました。彼は殉教者、または犠牲者となったのではなく、罪の身代わり、代替者であり、わたしたちに代わって死なれ、わたしたちの罪のために代価を払われました。彼は死ぬ必要はなかったのですが、わたしたちを罪から贖うために喜んでわたしたちに代わって十字架上で死なれました。
主イエスはわたしたちのために復活され、わたしたちの中に生きておられる
神の救いのもう一つの面は、わたしたちの罪のために彼は死なれただけでなく、復活され、わたしたちの中に生きておられるということです。彼は神であるので、彼は死んで三日目に復活されました。彼は生ける神であり、また生ける霊であって、わたしたちに代わって死なれただけでなく、わたしたちに代わって生きておられます。彼は復活されただけでなく、わたしたちの中に入り、わたしたちの命となられます。
悔い改めの心と罪の赦しの恵み
主イエスはわたしたちの罪のために贖いを成し遂げ、復活して昇天し、悔い改めと罪の赦しをわたしたちに与えてくださいました(使徒行伝第5章31節)。悔い改めの心はわたしたち自身が持っているものではなく、神が聖霊を通してわたしたちに与えられたものです。悔い改めの心は、神に心を向け、自分の罪のゆえに悲しみ、悔いて神の御前で罪を告白し、罪の行ないを拒絶することを含みます。それだけでなく、キリストがわたしたちの罪を贖われたので、神はわたしたちの罪を赦すことができます。わたしたちが悔い改めるとき、聖霊は罪の赦しの平安をわたしたちの心にもたらします。この罪の赦しの平安は、わたしたちが罪の赦しの恵みを受けたことを証明します。
どのようにして悔い改めの心と罪の赦しの恵みを得るのか
今日、わたしたちのすべての罪は、主がすでに担われました。わたしたちはただ心の戸を開けて彼を受け入れ、彼を信じるなら、良心は直ちに軽くなり、解放され、わたしたちはすぐに救いを得ます。かつて社会で地位のある人が有名な伝道者によって福音を伝えられました。当時、彼は得意になって言いました、「わたしにはイエスは必要ないです。イエスを必要としている人たちはあのチンピラや泥棒です」。しかしながら、その伝道者は彼に告げて言いました、「もしある日、あなたの内側にある良心があなたを罪定めしたとき、あなたはどんな方法を用いても、あなたの良心を平安にすることはできません。そのとき、あなたはイエスに求めることができます。イエスの尊い血はあなたの罪を洗い清めることができます」。彼は聞いた後、そうとは思わず、その伝道者をあざけりました。
しばらくして、主はその人をあわれみ、彼の良心が働き、自分の良心が真に不安になり、あの伝道者が彼に対して語った言葉を思い出しました。そして、彼は家でイエスに祈って言いました、「もし、あなたが真に救い主であり、真にわたしのために十字架に釘づけられ、わたしの罪のために死なれたなら、わたしの内側に平安を与えてください」。彼がこのように祈ると、突然、内側にあったさまざまな重荷がすぐに下ろされ、平安を持ちました。それ以来、彼は救われただけでなく、とても主を愛し、大いに主に用いられた人となりました。
この物語は多くのクリスチャンの経験と証しです。わたしたちは自分の努力によって、功績をもって罪を解消することはできません。イエスがわたしたちのために死なれたことによってのみ、わたしたちの犯したすべての罪は担われることができます。今、聖霊はあなたの心の中であなたを感動しています。どうか心を開き、悔い改めて罪を告白し、キリストと彼の贖いを受け入れてください。ただ主に向かってこのように祈ってください、「主イエスよ、わたしは罪人です。わたしはあなたがわたしの救い主であることを信じ、あなたを受け入れます」。そうするなら、この生ける霊は空気のように、あなたの中に入ってきます。
わたしたちが主を信じて救われた後、イエス・キリストはわたしたちの中で生き、内側からわたしたちの命と味わいを変えてくださいます。以前は、賭博をすることが好きでしたが、今はやらなくなりました。以前はお酒が好きでしたが、今は飲まなくなりました。イエスはわたしたちの内側に入ったとき、わたしたちを再生されます。わたしたちが自分で罪に打ち勝つ必要はありません。イエスがわたしたちを罪から救い出してくださいます。彼はわたしたちに代わって死なれ、またわたしたちのために生きておられます。彼はわたしたちに代わって十字架上で死なれ、またわたしたちの中に生きておられます。こうして、わたしたちの人生は救われ、美しい人生を過ごすことができます。わたしたちの良心に平安があり、大胆にこの世に向かい合うことができます。イエスがわたしたちの人生における罪を対処し、わたしたちの中に住まわれたので、わたしたちは喜びに満ちます。これは彼の不思議な救いです。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第5期第5巻より引用