喜劇役者のチャップリンは、「あなた自身を信じることが、成功の秘訣である」と言っています。それはちょうど、前向きに自分を励まし、自分を肯定することです。またそれは、多くの自己啓発の書籍でも共通に薦めていることです。しかし、福音書の中で、主イエスは地上におられた時に、弟子たちに次のように言われました。「だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、自分の十字架を負い、わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書 第16章24節、マルコによる福音書 第8章34節、参考 ルカによる福音書 第9章23節)。なぜ主は、彼の弟子たちに自己を否むことを要求することができたのでしょうか?
この聖書の箇所を理解するには、聖書の中での「自己」というものがどういうものかを知る必要があります。聖書では、それは人の魂の命、また人の意志、人の主張をおもに指しています。人には三部分、霊、魂、体があります。人の体は物質のものに触れることができます。霊は霊的な事柄、神に属する事柄に触れることができます。また、魂は精神的な領域の事柄に触れることができ、その表現されたものが、人の主張と意見です。
自己の中にいる人は、その言葉数が多いものです。罪を犯している人や、この世を愛している人は、その言葉数は多くありません。なぜなら、彼らは自分が間違っているということを知っているからです。間違いを犯しているすべての人は、良心に引け目を感じていて、その顔もまともに上げることができず、あまり多くを語ろうとしません。しかし、このような人たちは比較的容易に、助けや導きを受け入れます。しかし、自己に満ちている人は、彼らには何の罪も、汚れもないように見えます。この世も愛さず、自分自身を義としています。彼らは、召会に対して、神の事柄に対して、多くの主張を持っています。多くの意見を持っています。一日中、彼ら自身もよく知らないことに対しても、あれこれと多く語ります。このような人は、助けることが最も難しく、最も導くのが難しく、最もどうしようもない人たちです。
クリスチャンにとって自己というものが、こんなにも大きな問題であることから、命の経験をよく描写することができるA・B・シンプソンは、以下のような詩歌を作りました。それが「ひそかな敵あり」(詩歌314)です。
1 ひそかなてきあり、
おそろしいもの、
つみよりも狡かつ、
魅りょくもある。
それはつよい自己、
わがままな自己;
自己が死ねば、主は、
わがうち生く。
1 一人の敵がいて、その力は潜伏しており、
聖徒たちで恐れないものはいません。
その狡猾さは
生まれつきの罪をはるかに超え、
心とはさらに融和しています。
それはあの強情な自己であり、
あの偏屈なわたしです。
この自己は必ず釘づけられて
死ななければならず、
こうしてはじめてわたしにおいて、
主が生きることができます。 (全訳)
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第1巻より引用