主を信じている者もなぜ苦難を経験するのか?

福音メッセージ

クリスチャンが信じている神は一般的な宗教で考えられている神ではなく、聖書に啓示されている神です。一般的な宗教の観念は、神は人に福祉平安を与え、人に昇進と富を与え、すべてが順風満帆になるということです。こういうわけで人は神明を拝み、偶像を礼拝します。なぜなら、彼らはみなこのような観念の願望を持っているからです。しかしながら、クリスチャンが信じている神はこのような神ではありません。聖書がわたしたちに啓示しているのは、神はみこころ、目的、計画、エコノミーを持った神であり、彼は彼の信者、すなわち彼の子供たちにおいて、彼の御旨を持っておられるということです。神が彼の御旨を完成させる過程において、彼は彼らにいくらかの環境、さらには苦難が起きることを許されており、それは彼の子供たちにおいて、彼の喜ばしい御旨を成就するためです。

これは、ある国王が彼の息子を訓練し、養って王位を継承させるためには、彼の息子を成就するために、息子に起こるある種の環境、さらには試練と苦難を容認しなければならないのと同じです。あるとき彼はある環境を案配して、彼の息子を成就し、益を得させて王位を継承する資格と能力を持たせます。わたしたちの神も同じです。クリスチャンはいくらかの環境に遭遇しますが、この環境の背後には神の主権の御手、神の愛の御手、神の顧みの御手、神の守る力があります。

クリスチャンが地上で遭遇する苦難

クリスチャンが地上で遭遇する苦難は、要約すると四種類に分けることができます。第一に、クリスチャンも造られた人であるので、依然として旧創造の成分を持っています。ですから、旧創造全体が遭遇する災害と苦難を、クリスチャンも避けることはできません。未信者は地震、台風、日照り、水害などに遭遇しますが、主を信じている人も同じ災難に遭遇します。それは主を信じることによっても避けることはできません。

第二に、クリスチャンは物質の宇宙の中で生活しているので、神の創造した規律に背くなら、同じように苦しみます。たとえば、天気が寒いときに、着る服が少なかったなら風邪を引いて苦しみます。また、もし、クリスチャンが地上の人の法則に違反したなら、同じように苦しみます。たとえば、仕事のときに職務を果たさないことによって解雇されるなら、失業の苦しみに遭います。これらの苦難は、自分の過失によって起こります。

第三に、クリスチャンは福音を宣べ伝えること、主のために証しすること、善を行なうことのゆえに人の嫉妬、迫害を受けます。このような苦しみは義のために迫害を受けることであり、キリストのために苦しむことです。このような苦しみは神の目には甘いものであり、神に覚えられるものです(マタイによる福音書第5章10節)。このような苦難は積極的なものです。

第四に、キリストも二つの面の苦しみを受けられます。一つは贖いの苦しみであり、もう一つは産みの苦しみです。キリストの贖いの苦しみは人に代わって死ぬ苦しみであり、彼が十字架上でわたしたちのために血を流して罪を贖なわれた苦しみです。この苦難は彼一人がわたしたちのために担い、受けられたものであって、彼ご自身だけがこの苦しみを受けられる資格があります。

キリストが受けられる第二の苦しみは産みの苦しみであり、神の多くの子供を生み出すためであり、一人の新しい人、一つの新創造を生み出すために受ける苦難です。使徒バウロは彼の書簡の中で、クリスチャンはキリストの第二の面の苦しみにあずかることができ、またあずかるべきであると告げています。彼はコロサイ人への手紙第1章24節で言っています、「キリストの苦しみの欠けたところを、わたしの肉体において補い満たしています」。

苦難の目的

聖書は特に、苦難は信者において多くの積極的な目的を成就することをわたしたちに啓示しています。ペテロの第1の手紙第4章1節は言います、「キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ思いをもって、自分自身を武装しなさい(なぜなら、肉体において苦しみを受けた者は、罪を断ち切ったからです)」。ですから、苦しみを受ける積極的な機能は、わたしたちを罪から断ち切らせることです。人が苦しみを受けているときは、罪を犯しにくいのですが、享楽の中にいるときは、堕落し、罪を犯しやすいのです。ですから、苦しみを受けることは確かにその積極的な効果があります。

またローマ人への手紙第8章28節から30節は言います、「また神を愛する者、すなわち、彼の目的にしたがって召されている者たちには、すべてが共に働いて益となることを、わたしたちは知っています。なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです.……そして神はあらかじめ定めた者たちを、……さらに栄光化されました」。すべては万物、すべての事、すべての人を含み、すべての積極的な人、事、物を含み、またすべての消極的な人、事、物を含みます。35節では多くの消極的な事物、すなわち患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣が述べられていますが、これらはみな信者の益になることができ、信者が神の御子のかたちに同形化されることを助けます。ですから、これらの苦難には積極的な価値と意義があります。

クリスチャンにとって、不運なことは一つもありません。一般の人が不運と考えることでも、わたしたちが主を信じて積極的に接すれば、消極的なことは積極的なことになり、わたしたちの益に変わります。わたしたちは神のあわれみを求めて、罪を犯すことによる苦難、または自然の法則に背いて受ける苦難にあずかることがないようにする必要があります。そうではなく、積極的に主の福音を宣べ伝え、人を救い、人を牧養し、キリストのからだを建造して、キリストの新創造を生み出す苦難にあずかる必要があります。わたしたちは積極的な態度をもって、人生におけるこの面の苦難に接する必要があります。

聖書は、クリスチャンが苦難に遭うことをはっきりと告げています。しかし、これらの苦難に直面するとき、恐れたり、悩んだりする必要はなく、ただ自分を完全に神の御手にゆだね、全能の神の守る力に信頼し、さらに神はわたしたちを愛しておられる神であることを信じる必要があります。彼は、これらの環境が共に働いて、わたしたちが益を受けるようにしてくださいます。これはクリスチャンが持つべき認識です。

詩歌(単純な信頼)習志野に在る教会作成

記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第4期第4巻より引用