福音の鍵 新

福音メッセージ

日常生活において、わたしたちは常に多くの「新」しい人、事、物に出会います。年月については、新しい年には必ず新しい望みがあり、毎日が新しい開始です。命については、小さい植物、可愛いペット、新生児は、日々あらゆるところで発芽し、誕生しています。「新」は何とすばらしいことでしょう! 「新」は常に望みを人に与えます。惜しいことに、新しいものは古くなるので、人は努力して新しいことを生み出そうとします。わたしたちは思わずこのように問うでしょう、「宇宙の中で、真に新しいままのものはあるのでしょうか?」。

「人が、『見よ、これは新しい』と言えるものがあるか?」(伝道の書第1章10節前半)。

「新」とは、人類が常に追求し、向かっている領域です。今日製品開発や学術の研究など、新しい商品が発表されたり、新しい技術が採用されたりすると、見てみたいという人、試してみたいという人がいます。たとえ、多くの時間とお金をかけるとしても、彼らは惜しみません。この世代の若い人は、言語、服装、娯楽、生活方法において、みなと異なることを願い、新しい潮流を追い求めることに満足を見いだしています。

この世において、あらゆる新しいものを出してきましたが、すべてのいわゆる新しい事物は、すぐに時空の変化によって、古くなっていき、色あせていき、味わいも失われ、もはや新鮮味がなく、輝きません。知恵の王であるソロモンはかつてこう言いました、「人が、『見よ、これは新しい』と言えるものがあるか? それはわたしたちの前にあった世代に、すでにあったものである。前にいた者を覚えていることはない.その後に来る者も、さらに後に来る者は覚えていることがない」(伝道の書第1章10節―11節)。すべての流行したものは、しばらくしたら、時代遅れのものとなって、だれにも覚えられません。また、虚栄、名声、成功、地位、金銭、地の知恵のようなものでさえ結果は同じです。

ソロモン王は知恵を用いて、この世のすべての事柄を追究しましたが、彼の生涯の終わりに、すべての新しい事、名声、享楽、財宝、善行、労苦、一生の働きでさえも、すべてがむなしく、無価値であると見いだしました。こういうわけで、彼は伝道の書でこのように言いました、「わたしは日の下で行なわれるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空であって、風を捕らえるようなものである」(1章14節)。彼にとって、人生は悲しい歌のようであり、人が追い求めるすべてのものはむなしく、無価値であり、風や影を捕らえるようなものであり、日の下では何の益もありません。ここの「空」の原文は、「吹く空気」に言及します。ある聖書学者は、「空」を、意味を広げて、子供が石けんの泡を吹くというような「泡を吹く」としています。確かに地上のすべての虚栄、金銭、美しさ、罪の中の楽しみは、みな石けんの泡にある虹のように、「日の下」では美しく、可愛らしく映りますが、瞬く間に味のない、色あせたものになります。

「すべての事は疲れさせる.だれもこれを言い尽くすことはできない.目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満ち足りることがない。前にあったことは、後にもあり、前に起こったことは、後にも起こる.日の下に新しいものは何もない」(伝道の書第1章8節―9節)。

ソロモン王は自然の現象を観察し、すべての事は循環して、新しいものは何もないことを見いだしました。日は昇って沈み、季節は変わり続けていきます。風は南に吹き、また北に向き変え、絶えず同じ道を回ります。川は海へと流れますが、海はあふれません。川は流れる所を変えません。それだけではなく、人生におけるすべてのことも繰り返して循環しています。一代一代と過ぎ去っていきます。こういうわけで彼は言いました、「前にあったことは、後にもあり、前に起こったことは、後にも起こる.日の下に新しいものは何もない」。ネクタイを例証とすると、始めの頃は幅広いネクタイが流行りました。しばらくすると流行が変わり、幅が狭くなりました。しかしながら、それからまた戻って幅広いネクタイが流行しました。このように、繰り返し循環していることをわたしたちの生活のあらゆる領域の中で見ることができます。

人の目における「新」は、実は少しもテストに耐えることができず、真の「新」ではありません。すべてのいわゆる新しいものはすぐに古くなります。新しく発売されたスマホも封を開ければ、すぐに古くなります。新しく出た車も納車されたらすぐに中古になります。新婚夫婦はハネムーンで互いに新鮮ですが、間もなく平淡な感覚になります。わたしたち自身もそうです。母の胎から生まれた後、日々成長しているようですが、実は死に近づいているのです。

この宇宙の中で、神だけが新しく、他はすべて古いです。宇宙におけるすべての人、事、物はみな古く、また日々古くなっています。神ご自身のみが「新」です。なぜなら、彼は永遠に空間と時間の制限を受けないからです。年は変わり、物は変わりますが、彼は常に新しく朽ちることはありません。旧約聖書のホセア書第14章8節で、神はご自身を緑のもみの木であると告げました。緑とは新鮮であることを意味します。緑のもみの木は不老で、枯れず、常に緑であって、変わらない、永遠に新しい神を象徴します。神は永遠の神であり、彼の命は永遠の命です。ですから、彼は永遠に生きておられ、決して老いることがなく、古くなることもありません。

「こういうわけで、わたしたちは彼の死の中へとバプテスマされることを通して、彼と共に葬られたのです.それは、キリストが御父の栄光を通して死人の中から復活させられたように、わたしたちも命の新しさの中を歩くためです」(ローマ人への手紙第6章4節)。

神は永遠に新しいのですが、わたしたちは古く、汚れており、罪があります。ですから、わたしたちは新しくされる必要があります。神がわたしたちを新しくされるのは、家を新しくするように、上にペンキを一層塗ることではありません。神は、彼の新しい要素をわたしたちの中に加えられ、わたしたちの古い、天然の要素を置き換え、取り除いてわたしたちを新しくしてくださいます。それはこのように例えることができます。ある人の顔が青白いなら、わたしたちは化粧をすることによって彼を美しくすることができますが、それは外側の装飾だけです。しかしながら、もし、彼に栄養のある食物を食べさせたなら、食物が消化された後、一面新しい供給があり、もう一面古い要素も取り除かれます。そして、徐々に彼の悪い顔色が健康的なものになります。これが、神がわたしたちの内側で行なわれる新陳代謝の「更新」です。

ある人は、バプテスマすることは、キリスト教に入る一種の儀式であると思っています。実は、バプテスマは入信する儀式ではありません。バプテスマの過程はあなたを水の中に浸してから、あなたを水の中から出すことです。しかしながら、これには二つの面の意義があります。まず、バプテスマはキリストの中で終わらされ、埋葬されることです。あなたのすべての歴史、あなたの天然の命、あなたの古い人はすべてキリストの中でバプテスマを通して終わらされ、埋葬されます。バプテスマとは、埋葬され、完全に一掃され、古い生活とそのすべての古い事物を断ち、またそこから逃れるということです。あなたが水から上がってくるとき、再生され、新しい命、すなわち神の永遠の命を得ます。この命はあなたの中に入り、あなたに新しい開始をもたらします。

テトスへの手紙第3章5節は言います、「彼はわたしたちを救ってくださいました.それは、……彼のあわれみによってであり、再生の洗いと聖霊の更新を通してです」。わたしたちが再生されるとき、わたしたちの内側である洗いが始まり、わたしたちの天然の命の古いものを取り除き、そして聖霊の更新は新しいものをわたしたちの中に分与します。このことを通して、わたしたちは以前の古い光景から全く新しい光景へともたらされます。わたしたちの生涯の中で、再生の洗いと聖霊の更新は、絶えずわたしたちの内側で働きます。これは新陳代謝の過程であり、新陳代謝の洗いです。わたしたちの天然の命における古い、消極的なものは取り去られ、神聖な命と神聖な性質によって再構成されることによって、わたしたちは命の新しさの中を歩くことができます。

「こういうわけで、わたしたちは落胆しません.それどころか、わたしたちの外なる人が朽ちていっても、わたしたちの内なる人は、日ごとに新しくされていきます」(コリント人への第2の手紙第4章16節)。

ここでは、「外なる人」と「内なる人」を述べています。聖書の啓示によれば、人には体、魂、霊があります(テサロニケ人への第1の手紙第5章23節)。外なる人はわたしたちの体と魂を含み、わたしたちの古い存在、天然の人です。内なる人はわたしたちの内側で再生された人、新しい命を得た新しい人です。外なる人に関して、わたしたちは常に老い、衰退し、滅び、消耗し、損なわれています。内なる人に関して、わたしたちは日々新しくなることができます。

クリスチャンの生活は日々新しくされる生活であり、毎日新しくされ、新しさの中でまた新しくなります。この意味は、日々わたしたちの中で神が増し加わるということです。わたしたちが再生されて神の命を得た後、内側の全存在が新鮮で、活発で、強く、力があるという光景、味わい、感覚を持ちます。さらにわたしたちが主に触れれば触れるほど、ますます彼の命の新鮮な供給を得て、絶えず新しくされます。多くのクリスチャンは年齢において年長ですが、彼らの内側はとても若く、若者よりも新鮮です。彼らの内なる人は、神聖な命に満たされることによって、若く、新鮮な、常に新しいものとなりました。

「またこの時代にかたどられてはいけません.むしろ、思いが新しくされることによって造り変えられなさい.それは、何が神のみこころであるか、すなわち何が善であって、喜ばれ、完全なものであるかを、あなたがたがわきまえるようになるためです」(ローマ人への手紙第12章2節)。

聖霊の更新する働きは、わたしたちの霊から始まり、続けてわたしたちの魂に拡張します。思いはわたしたちの魂の主要な部分であり、わたしたちの考える器官です。救われる前、わたしたちの思いは罪、この世、人間関係、世俗的なものに極みまで深く侵されており、あらゆる放蕩、偽りの思いに満たされ、またあらゆる汚れ、悪巧み、不潔に満たされていました。すべてわたしたちの心の思いはかることは常に悪いと言えるでしょう。このような思いは神の思いを理解したり、神のみこころを知ることはできません。

わたしたちの思いが新しくされることは、わたしたちの思いが変えられることです。わたしたちが救われる前、何かの方法で物事を理解し、考えていました。しかし、わたしたちが救われた日から、わたしたちの理解力、考え方、物事を考慮する方法に変化が起こり始めました。以前、罪を犯すことはおもしろいことであると思っていましたが、今はこのことに対してわたしたちの思いは変えられました。以前、この世は人を引き寄せる場所であると思っていましたが、今は興味を持たなくなりました。以前、クリスチャンになることは、あわれなことであると思っていましたが、今は完全に異なります。いくつかのことに関して、以前は楽しいと思っていましたが、今は卑しいと思うようになりました。霊的な事柄に関して、以前は無価値であると思っていましたが、今はわたしにとって最も尊いものとなりました。わたしたちは、人生、この世、人類、将来の運命などに対する価値観が変わりました。これが思いの更新です。わたしたちの思いは神に立ち返ることによって新しい要素がわたしたちの中に加えられて、新陳代謝の変化をもたらしました。

コリント人への第2の手紙第5章17節は言います、「だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去りました.見よ、それらは新しくなりました」。神を持たないものは、古いものです。神が加えられたなら新しいです。わたしたちが神に触れれば触れるほど、ますます神に近くなり、ますます神の新しい要素が注入されて、わたしたちは新しくなります。

詩歌(わが命に大変化あり)習志野に在る教会作成

記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第4期第5巻より引用