神は世の人を愛された (1)

ヨハネ3:16 福音メッセージ

神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された.それは、彼の中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである(ヨハネによる福音書 第3章16節)。

ヨハネによる福音書 第3章16節は、わたしたちに4つのことを告げています。(1)神が世の人を愛されたこと。(2)そのひとり子を賜わったほどであること。(3)彼の中へと信じる者についてであること。(4)彼らが一人も滅びないで、永遠の命を持つためであることです。
第3のことと第4のことは、次の記事(”神は世の人を愛された(2)”)を参照して下さい。本記事では、第1のことと第2のことを述べます。


「神は世の人を愛された」。これは主イエスがわたしたちに語った言葉です。人は、神は厳しく、怖いお方であり、心が冷たいと思っています。しかし、神ご自身がこのようにわたしたちに告げています。「あわれみ深く恵み深い神、辛抱強く、慈愛と信実に満ちあふれ」(出エジプト記 第34章6節)。彼は傷ついた人に近づき、霊の中で悔いる人を救います。「すべての人は罪を犯したので、神の栄光に欠けており」(ローマ人への手紙 第3章23節)ましたが、神はそれでも世の人を愛されました。世の人が「悪い行ないのゆえに、心は神に敵対している」としても、神は世の人を愛されました。神は罪を犯した人を愛し、彼の栄光に欠けた人を愛し、彼に敵対している人を愛しているのです。

詩歌 驚くべき恵み(町田に在る教会作成)
1.おどろくべきめぐみ!     われをもすくう
  うしなわれたわれをたずね、  目ひらき見せる!

2.めぐみにておそれは      取りのぞかれた;
  信じたときの、あのめぐみは、 なんととうとい。

3.めぐみをあたえると、     主は保しょうした;
  主はーわれのたて、とわの分、 全生がい過ごす。

 

天の上には愛の神がおられ、また愛の心があります。しかし、この愛の神を見た人は一人もおらず、またこの愛の心を知る人も一人もいませんでした。ある時になって、神が彼のひとり子を通して、彼ご自身と彼の心を地上に現されました。

彼のひとり子とはイエス・キリストです。主イエスが務めを始めたとき、ナザレの会堂の中で、群衆にある聖書の段落を読みました、「主の霊がわたしの上にある.彼が貧しい人たちに福音を宣べ伝えるように、わたしに油を塗られたからである。彼はわたしを遣わして、捕らわれ人たちには解放を、盲人たちには視力が回復されることを告げ知らせ、圧迫されている人たちを解放して去らせ、主の受け入れる年、ヨベルの年を告げ知らせるのである」(ルカによる福音書 第4章18節―19節)。読み終えた後、彼らにこの聖書はあなたがたが耳にした今日、成就したと彼らに言いました(21節)。主イエスがここで神に遣わされた使命を宣言しました。神が主イエスを世に遣わしたのは、彼に貧しい人たちに福音を宣べ伝えるように、捕らわれ人たちには解放を、盲人たちには視力が回復されることを告げ知らせ、圧迫されている人たちを解放して去らせ、主の受け入れる年、ヨベルの年を告げ知らせることです。

ある日、主イエスがパリサイ人の家で食卓に着かれました。ある罪人である一人の女が彼の後ろに立ち、足もとで泣きました。このパリサイ人はこれを見たとき、心の中でもし彼が預言者であれば、自分に触っているものは罪人であることを知って拒絶するだろうと思いました。しかし主はその女に「あなたの罪は赦されている」と言いました。また、その女に言われました、「あなたの信仰があなたを救ったのです。平安の中を行きなさい」(参照、ルカによる福音書 第7章36節―50節)。これらの言葉はその女の悲しんだ心を慰めました。この二句の言葉は何と甘いものでしょう。この二句の言葉は天上にある心を表明しました。

聖書学者とパリサイ人は、姦淫の時に捕まった女を連れてきて、イエスに言いました、「モーセは律法の中で、そのような女を石打ちにするよう、わたしたちに命じています。ところで、あなたは何と言われますか? 」。主イエスは答えられました、「あなたがたのうちで罪のないものが、まず彼女に石を投げなさい」。彼らはそれを聞くと、老人から始まって、一人また一人と去って行きました。なぜなら、彼らはみな罪を持っているからです。彼らが去った後、主イエスはその女に言われました、「だれもあなたを罪に定めなかったのか?」。彼女は言いました、「主よ、だれもいません」。主イエスは言われました、「わたしもあなたを罪に定めない」(参照、ヨハネによる福音書 第8章3節―11節)。これが天上にある心です。天上には罪に定める神がおられますが、罪に定めることを願わない心があります。

一人の全身らい病の人がイエスにひれ伏して請い願い、「主よ、あなたがそのつもりであるなら、わたしを清めることができます」と言いました。イエスは手を差し伸べ、彼に触れて言われました、「わたしはそのつもりである。清くなりなさい!」。すると、たちどころに、らい病は彼を去りました(参照、マタイによる福音書 第8章2節―3節)。神の御手にできないことはなく、神の心によしとされないものはありません。天上の御手はでき、また天上の心はよしとされるのです。

主イエスは多くの人が苦しみ、牧者がいない羊のようにさまよっているのを見て、彼らをあわれみました。神は苦しみさまよう人をあわれみました。今日の世の人は何と苦しんでいることでしょう。失業、貧困、弱さ、病は後を絶ちません。今日の世の人は本当にさまよい、牧者がいない羊のようです。あなたは自分が苦しみ、さまようと思いますか? 神があなたをあわれみ、主イエスをあなたの牧者にならせ、主はあなたを養い、あなたを顧みます。どうか彼に身をゆだねることができますように。

「すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える」(マタイによる福音書 第11章28節)。これが、主イエスが苦しんでいる世の罪人に対して発した呼び声です。神は、労苦し重荷を負っている罪人がみな彼のところに来て安息を得ることを願っています。あなたはこの世で安息がないと感じていますか? あなたが神に身をゆだねるなら、安息を得られるのです。

「わたしのところに来る人をわたしは決して見捨てません」。これは主がわたしたちに約束した言葉です。この言葉は天上にいる神が彼の御前に来るすべての人を受け入れることを示しています。神はどんな人をも捨てません。あなたが神を捨てることはありますが、神があなたを捨てるということはありません。

主イエスがある村に行きましたが、そこの人が彼を接待しません。彼の弟子たちがこれを見て言った、「主よ、あなたはわたしたちに、天から火を下して、彼らを焼き尽くすように命じさせますか?」。彼は彼らに言われました、「人の子が来たのは、人の命を滅ぼすためではなく、救うためである」(参照、ルカによる福音書 第9章52節―56節)。滅ぼすのではなく、救うのです。これが神の心です。人は神を拒絶し、神を求めませんが、神はなおも人を救いたいのです。

人が彼を十字架につけましたが、彼はなお、彼を十字架につけた人のために祈りました、「父よ、彼らをお赦しください.彼らは自分が何をしているのか、わからないのですから」(ルカによる福音書 第23章34節)。彼は敵のために祈り、敵を赦し、敵を愛しているのです。これは天上にいる神は敵を赦し、愛していることをわたしたちに見せています。

主イエスが十字架での彼の死を通して、世の人を愛する神のみこころを完全に現されました。神がわたしたちを愛したゆえに、彼の御子をわたしたちのために十字架上で死なせました。主イエスが十字架でわたしたちの罪を担いました。ペテロの第1の手紙 第2章24節は言います、「わたしたちが罪に死んで、義に生きるために、彼はわたしたちの罪を、ご自身の体において、木の上で担われました.その方の打たれた傷によって、あなたがたはいやされたのです」。

引き続き次の記事”神は世の人を愛された(2)”もご覧下さい。

JGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第3巻より引用

 

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