召会はキリストのからだであり、このからだは有機体です。この有機体において、キリストは、からだ、すなわち召会のかしらであり、また肢体、すなわち個々の信者のかしらです。ですから、キリストはわたしたち一人一人の直接的なかしらであり、わたしたちはみな彼の権威の下にあります。このからだには、他の肢体と共にかしらに服従するという有機的な法則があります。神は召会の中でご自身の権威を示すために、宇宙召会の面で、使徒の務めを持っています。この務めは使徒の地位と権利を与え、地方召会の行政のために長老を設立し、神の権威を代行させます。
わたしたちは肢体としてからだを無視することはできませんし、なおさら、からだの代表を無視することはできません。そしてさらに、わたしたちがからだの代表を無視するなら、からだの生活をすることはできません。どうか主がわたしたちにからだの啓示を見せてくださり、わたしたちが、からだの代表に従い、からだの証しを生かし出すことができますように。
キリストのからだの中の権威は命である
わたしたちはキリストのからだの生活をするために、まずキリストのからだの啓示を受けなければなりません。わたしたちはキリストのからだを見ると、キリストのからだにはその法則があることがわかります。からだの中にはいくつかの大きな法則があります。交わりは一つの法則であり、愛は一つの法則であり、そして他の肢体と共に導く者に服従するというもう一つの大きな法則があります。個々の肢体には独自の権威はなく、権威は導く者にあります。肢体が権威を持っていると言うことは誤りです。肢体自体には直接の権威はなく、肢体には導く者から委託された権威しかありません。この権威は地位のものではなく、完全に命のものです。この権威は「立てられて」いるのではなく、「ある」のです。たとえば、ある肢体が目でないなら、体はそれを目とすることはできません。ある肢体が手でないなら、体はそれを手とすることはできません。その肢体は見ることができるので、見る権威があるのです。その肢体は動くことができるので、それが動くときに人に助けを得させることができるのです。
キリストのからだにおいて、すべての権威は命のものです。神は地方召会において任命したものがありますが、それは地位によるものではなく、命によるものです。命と任命が一つになるとき、人々は服従すべきです。服従しないなら、肢体はからだから分離され、命は止まってしまいます。これは、かしらに結びついていないことを意味します(コロサイ二・十九)。ですから、もし一人の人が真にからだの啓示を受けるなら、その人は必ず変わり、からだの中の権威に服従することを学ぶでしょう。
神が任命することは有機的である
エルサレムは地上で最初の召会です。一方で、それは主が設立したものであり、他方で、一群れの使徒たちが福音を宣べ伝えて設立したものです。使徒行伝第二章で、ペテロは十一人の使徒たちと共に立ち上がって、群衆に福音を宣べ伝え、三千人が救われました。これらの三千人と当初の百二十人がエルサレムに在る召会でした(十四―四一節)。ですから、最初の召会は使徒たちによって設立されたのです。ここで、聖書がエルサレムでの長老たちの任命について言及しているかどうかに注意を払う必要があるでしょうか? もし、長老が任命されていなければ、どうして長老がいるのでしょうか? この質問に対する答えは、召会を設立した使徒たちは、自然に長老になったということであり、彼らは家族の中で父親のような存在であり、任命する必要はなかったということです。
たとえば、人が妻と結婚して子供を産み、子供が成長したとき、父親を任命するために会議を開く必要はありません。子供は当然、父親がだれであるかを知っています。もしこの大家族の父親が死んだ後、十二人の息子たちと第三世代と第四世代の子孫が残ったとします。ではみんなが一緒に集まるとき、だれが長老でしょうか? 当然のことながら、第二世代の十二人の息子たちです。それを任命する必要はありません。だれもが心の中ではっきりしています。同様に、ペンテコステの日に召会が設立され、三千人と五千人が救われましたが、長老を任命する必要はありませんでした。だれが見ても、ペテロと十一人の使徒たちが長老であることを心の中で知っていたからです。
ですから、エルサレムに在る召会には長老の任命がありませんでした。それでは、聖書はいつ、どこで長老たちを任命し始めたのでしょうか? それはパウロの一回目の務めの旅の時でした。小アジアのいくつかの州を通過した後、彼は直ちに一つの地方で召会を起こしました。帰りに、彼はルステラ、イコニオム、アンテオケの召会に行き、弟子たちを強め、長老たちを選び、任命しました(使徒十四・二一―二三)。パウロは旅の途中で、最初にそれらの場所を通過して福音を宣べ伝え、召会を起こしました。それからしばらくして戻って来て、一年以内に各地の召会において長老たちを任命しました。
なぜパウロは召会の中で長老を任命する必要があったのでしょうか? なぜなら、各地で信者たちのグループがあって共に集まり、召会となったからです。彼らは幼かったのですが、それでも召会でした。パウロと同労者たちはそこにとどまることができず、彼らは去らなければなりませんでした。しかし、それぞれの土地での信者の集会は、物事を管理する人がいなかったので、長老の任命が必要となりました。これらの召会は一年以内に設立されたものであったので、そこで選ばれた長老たちは、当然ながらあまり円熟しているとは言えず、信者たちの中でより円熟している者が長老とされたのでしょう。そこで、地方召会を混乱から救うために、使徒たちは召会の中で長老たちを任命しました。 実際において、その長老たちは、救われてから一年も経っていなかったので、年長で老いてはいませんでしたが、他の聖徒たちよりも円熟していたので、長老として任命されたのです。
このことがわたしたちに見せていることは、召会の中で、人が権威を持っているのは、その人が地位を持っているからではありません。それは彼が経験の中で対処を受け、実際的な事柄において対処を受け、他の人が学んでいないことを神の御前で学んだからです。それゆえ、主はその人に命の権威を与えたのです。ある召会において、もし権威が命のものではなく、地位のものであり、人の霊的な状態にかかわらず、社会的地位があるからといって、その人を立てるなら、それは何か問題を持つでしょう。神の御言葉は、権威は地位ではなく命の中にあり、権威は設立することではなく生活の中にあることを示しています。
からだの行動は、
からだのかしらである聖霊による
使徒行伝第十三章では、アンテオケに在る召会には、何人かの預言者たちと教える者たちがいたことを示しています。彼らはだれが任命したのでしょうか? それは聖霊によって起こされました。二節は言います、「聖霊が言われた、『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び分け、わたしが彼らを召した働きに当たらせなさい』」。ここの聖霊は、「霊なるキリスト」、すなわちキリストのからだのかしらです。バルナバは、本来は祭司の部族であるレビ人でした(四・三六)。彼が救われた後、聖霊が彼を起こされました。もう一人は召会に反対していたタルソのサウロでした。彼が主に捕らえられたとき、全存在が変えられ、イエスを宣べ伝えました。他の弟子たちは彼を恐れていたので、バルナバだけが彼と接触しました。バルナバは彼を連れて行き、二人は共に務めを遂行しました。そのゆえに、パウロも預言者と教える者の一人となりました。彼らが外に出て務めを行なうとき、使徒です。したがって、ここの使徒は人によって任命されるのではなく、からだのかしらである聖霊によって割り当てられます。彼らは福音を宣べ伝えに行くと、その地方に召会が起こされ、各都市で長老を任命しました。パウロは第二〇章で長老たちに、「聖霊は彼らの間に、あなたがたを監督として立てられ」と言いました(二八節)。ですから、からだのかしらである聖霊が、長老たちを群れ全体の監督として立てられ、神の召会を牧養させるのです。これが証明しているのは、使徒パウロが長老を任命した時、彼は霊の中にいなければならなかったので、彼の行動は聖霊の行動であったということです。
からだを代表する
肢体としての使徒たちと長老たち
キリストのからだの中へと人々を導き入れる
今日、召会において使徒たちは、キリストのからだを代表する肢体であり、キリストの権威を代表します。手を置くことは、第一に、人々をかしらの油塗りの下に導き、第二に、からだの交わりの中にもたらすことです。使徒行伝第八章に一つの事例があります。当時、エルサレムに在る召会は大迫害に遭遇していました。使徒たちはエルサレムを去ったわけではありませんが、兄弟たちはみな散らされてしまいました。散らされた人々は、至る所に出かけて神の御言葉を福音として宣べ伝えました。食物を顧みていたピリポは、サマリアの町に下って行ってキリストを宣べ伝え、しるしを行ないました。彼は多くの汚れた霊を追い出し、中風や足の不自由な多くの人々をいやしました。聖書は言っています、「その町には大きな喜びがあった」(八節)。これはサマリアの町全体が福音に満ちていたことを見せています。しかし、ピリポは使徒ではなく、キリストの権威を代行することはできませんでした。そのため、サマリア人は、ピリポが宣べ伝えた神の王国とイエス・キリストの御名の福音を信じ、男も女もバプテスマされましたが、まだだれにも聖霊が下っていなかったのです。サマリアで救われた人々の経験は、エルサレムで救われた人々の経験とは異なっていました。このことを知った使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリアに遣わし、彼らは到着すると、聖霊を受けるようにと祈りました。そして、二人の使徒が彼らに手を置いたので、彼らは聖霊を受けました。
使徒たちは、キリストのからだを代表する肢体であり、サマリア人の信者たちの上に手を置き、キリストの権威を代表し、彼らをキリストのからだの肢体として承認しました。使徒たちが手を置くことは、からだとの結合があることと、からだとの交わりがあることを承認することです。このことが示しているのは、サマリア人の信者たちがからだの中に入らなければならず、それから聖霊が彼らの上に下ったということです。からだの下にいなければ、油塗りはありません。なぜなら、聖霊はからだの聖霊であって、個人の聖霊ではないからです。ですから、エルサレムから使徒たちが来て手を置いた時はじめて、サマリア人の信者たちの上に聖霊が下ったのです。このことが啓示しているのは、主が今日得ることを願っている器は、個人の器ではなく、からだの器であるということです。個人的な働き、個人的な実は、永遠に主の心を満足させることはできず、神の究極の目的を達成することはできません。すべての働きは、その中にからだの原則がなければなりません。
賜物を人に与える
さらに、パウロはテモテに次のように語っています、「あなたの内にある賜物を軽んじてはいけません.それは、長老たちの按手と共に、予言によってあなたに与えられたものです」(Ⅰテモテ四・十四)。また彼は言っています、「こういうわけで、わたしがあなたに思い起こさせたいのは、わたしの按手を通して与えられているあなたの内にある神の賜物を、再び燃え立たせることです」(Ⅱテモテ一・六)。これは、テモテが彼の按手のときに受け取った賜物によって奮い起こされ、励まされるべきであることを意味します。この賜物は、使徒たちや長老たちが予言を通してテモテに与えたものです。ここの按手は、賜物を分け与えることです。賜物を分け与えることは結合に基づいており、結合がなければ賜物を分け与えることはありません。長老たちと使徒パウロの按手によって示された結合によって、テモテに恵みの賜物が与えられました。ここでは、かしらの権威が代表する肢体を通して、按手を受ける者に恵みの賜物を与えています。
からだの肢体に命の霊を分与する
ヤコブの手紙第五章十四節から十五節は言います、「あなたがたのうち、だれか病んでいる人がいますか? その人は召会の長老たちを招き、主の御名の中で油を塗って、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは病んでいる人を救い、そして主は彼を立ち上がらせてくださいます.また、もしその人が罪を犯していても赦されます」。病気の原因には、自然の摂理に反しているものもありますが、キリストのからだの法則に違反しているものもあります。ある人の罪が個人的な罪にすぎない場合、彼が尊い血に依り頼み、人に向かって告白して対処するなら、彼は赦されることができます。赦されるために長老たちに油を塗ってもらうように頼む必要はありません。長老たちの油を塗ることは罪を取り除くことはできませんが、血は罪を洗い去ることができます。しかし、ここでは、彼が油塗りから、すなわちからだから離れてしまったために、長老たちを招き油を塗ってもらうように言っているのです。クリスチャンは、肢体の立場に立っているなら、油塗りを失うことはありません。長老は地方召会において神によって任命された人であり、からだを代表する肢体です。長老は主の御名によって病んでいる人に油を塗るべきです。これが意味するのは、長老が単独で油を塗るのではなく、主と一となって、からだとかしらを代表して油を塗ることによって、キリストのからだに油塗りとして注がれた命の霊が、キリストのからだの病んでいる肢体に与えられ、彼をいやすということです。
十六節はさらに特別です、「ですから、互いにあなたがたの罪を告白し合い、互いに祈り合いなさい.それは、あなたがたがいやされるためです。義人の祈り求めることは働いて大いに効力があります」。「互いに……罪を告白し合い」は、キリストのからだに何か問題がある場合、両者が互いに罪を告白しなければならないことを意味します。病んでいる人は長老に罪を告白しなければならず、長老は病んでいる人に罪を告白しなければなりません。これが示しているのは、一つの肢体に問題があるとき、からだ全体が責任を負い、一つの肢体が病んでいるとき、長老が責任を負うということです。それは長老たちが愛に欠けていたのかもしれませんし、長老の顧みをなおざりにしていたのかもしれないからです。ですから、長老はこの罪を告白しなければなりません。病んでいる者は、単独で行動したことの罪、すなわちからだから離れたことの罪を告白しなければなりません。互いの罪を告白するだけでなく、「互いに祈り合い」ます。すなわち、長老たちは再び病んでいる人のために祈り、病んでいる人も長老たちのために祈ります。ですから、からだには常に愛があり、常に謙そんがあるのです。
からだを見て、権威に服従する
聖書によれば、召会にはからだを代表する四種類の人たちがいます。それは(一)使徒たち、(二)長老たち、(三)主から特別に遣わされた個々の信者(使徒九・十―十七)、(四)二人または三人の証人です (マタイ十八・十五―十六)。もしあなたが間違っていれば、主は個人の信者をあなたのところへ送って、そのことを語らせるでしょう。もしあなたがこの信者の言葉を受け入れないなら、彼は二人または三人の他の信者に話すでしょう。もしあなたが彼らの言葉を受け入れないなら、長老たちが来てあなたを助けるでしょう。あなたは個人主義的に行動することはできません。解決できない多くの問題のためには、使徒たちに来てもらう必要があります。彼らは、からだを代表するために主によって特別に選ばれた者たちです。わたしたちは、長老たちや使徒たちに重要な問題はすべて話さなければなりません。それは、あいまいさがあってはならないからです。わたしたちは彼らから助けを受けるために、このようにしなければなりません。
わたしたちが救われると、からだの交わりの中にもたらされなければなりません。からだの中で重要なことは、わたしたちがからだのかしらに従うだけでなく、からだにも従うことです。からだの一部に問題がある人は、かしらとの関係が正常であるとは言えません。人が肢体と問題を持つならば、その事実は忘れられなくても、まだ働きはすることができますが、命はなくなってしまいます。あなたとわたしは長年にわたって信者であるかもしれませんが、実際にどれほどの真の成長があったのでしょうか?最もあわれなことは、あなたとわたしの礼儀正しさ、あなたとわたしの知識が増し加わっているように見えますが、キリストのからだの命が増し加わっていないことです。あなたとわたしが、からだから離れるなら、油塗りはありません。人がからだの外に落ち込むなら、肉体的な病だけでなく、霊的な病になります。ですから、わたしたちは、油塗りの下に戻ること、またからだの中に戻ることの緊急性を見る必要があります。あなたとわたしは召会の中の権威に従うことを学ばなければなりません。そうでなければ、それは空気が漏れたようになり、前進するのが難しくなります。あなたとわたしがキリストのからだを真に見ているなら、自然にからだの中の権威に服従することは喜びとなることを知る必要があります。主がわたしたちにからだの啓示を見せてくださり、わたしたちがからだの代表に服従し、からだの証しを生かし出すことができますように。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第6巻より引用