伝道の書の価値と詩歌の書の順序の内在的意義

真理

伝道の書の内容は、ソロモンが神から堕落し(列王上十一・一―八)、神に戻って来た後、日の下での堕落した人生と腐敗した世の中での人生を記述した書です。神から堕落した人生は空の空です(伝一・二)。本書はまた、人々にこの空を逃れる道があることを教えています。それは、神に戻り、神を人のすべてとし、人の贖い、命、富、享受、喜び、満足とし(伝十二・十三)、人がなおも神に用いられ、神が人を創造した当初の定められた御旨を成就します。すなわち、それは神の命と性質をもって、神を表現することです。わたしたちは、伝道の書を神聖な視点から見なければなりません。聖書のすべての書には価値があり、各書の順序でさえ神の啓示に関係しています。

伝道の書の著者
伝道の書のヘブル語は、「コヘレト」であり、集団の話す者、あるいは(言葉を)収集する者を意味します。この言葉は七十人訳のギリシャ語訳では「Ecclesiastes(集団の構成員を意味する)」と訳されており、これは本書の英語の名称となっています。伝道の書には著者がだれであるかが明確に記載されていませんが、その内容からするとソロモンであると断定することができます。なぜなら、伝道の書の著者には次の特徴があるからです。「エルサレムの王」、そして「ダビデの子」(伝一・一)。「わたしより前にエルサレムの上にいたすべての者にまさって偉大になり、知恵を増し加えた」(一・十六、列王上三・十二)。彼はかつて「事業を拡大した.すなわち、自分のために家を建て」た(伝二・四、列王上七・一―二)。そして「多くのそばめ」がおり(伝二・八、列王上十一・一―三)、彼はまた、「自分のために銀と金、王たちと諸州の宝を集め」(伝二・八、列王上九・二八、十・十―十一、十四―二五)、また「多くの箴言をまとめた」(伝十二・九、列王上四・三二)。歴史上、聖書の中に、ソロモン以外にはこのような人は他にいません。

ソロモンが伝道の書を書いた背景には、彼の失敗の歴史があります。神は彼を王として立て、偉大な知恵を授けられました。彼は当初、その知恵によって神の民を治めていましたが、後になってその知恵によって傲慢になり、情欲におぼれ、神に背き、地上で贅沢な生活を求め、王に関するすべての規則は彼によって完全に破壊されました。彼は最高の地位、無類の知恵、莫大な富を持ち、日の下で、彼ほど地上の知識、名声と享受、娯楽などを、追求する条件を持っている人は他にいませんでした。その結果、彼はそれらをすべて手に入れましたが、それでも満足することはできませんでした。それゆえ、彼はただ一つの結論を得ました。それは、「空の空、すべては空である」(伝一・二)。ですから、日の下で、この伝道の書を書くのに彼ほど資格のある人は他にいません。

しかし、なぜ彼は、箴言や雅歌のように正式にソロモンという名を書き記さなかったのでしょうか?伝道の書は、彼が失敗を経験した後に書いたものです。その時、彼は神の前で平安を失っていて、過去の失敗の経験を述べる時に、自分自身が平和の王という名で呼ばれるには値しないと思い、「集団の話す者」と自称するしかなかったのでしょう。なぜなら、彼はよく会衆を集め、彼らに知恵ある言葉を語っていたからです(列王上四・三四、十・八、二四)。

伝道の書の中心思想
伝道の書の中心思想は、人が日の下で、たとえ世界中の学問、知識、金銀、財産、名声、地位、娯楽、楽しみを得たとしても、神がいなければ、すべては空であるということです。なぜなら、人の定めによると、その結末は「人が一度死ぬことと、その後、裁きが定められている」からです(ヘブル九・二七)。伝道の書は聖書に必要な書です。それは、神がいなければ、すべては空であることを人々に知らせ、人々を神に立ち返らせるためです。

伝道の書第三章十一節で、神は「彼らの心に永遠を置かれた」と言っています。これは神が永遠のものに対する渇望を人の心の中に置いて、人が神、すなわち永遠の方を尋ね求めるようにしたことを示しています。ですから、暫時的な事物は決して、人を満足させることはできません。永遠の神、すなわちキリストだけが、人の心の深くにあるこの感覚を満足させることができます。神は人を彼のかたちに創造し、人の中に霊を形づくって、人が彼を受け入れ、彼を内容とし、彼を表現するようにしました(創一・二六、二・七)。これが、神が人を造られた目的です。それゆえ、伝道の書は最後に、若い人に勧告しています、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ.悪しき日が来る前に、『わたしにはこれらに何の楽しみもない』と言う年が近づく前に」(伝十二・一)。

人は伝道の書の教訓を知る必要があります。そうすれば、ソロモンの過ちを繰り返す必要がなく、パウロと同じ選択をすることができます。パウロはダマスコへ行く途中で、ビジョンを見ました。その後、彼は日の下で追い求めることを放棄し、ただ主を追い求めました。彼は、「わたしにとって益であった事柄を、わたしはキリストのゆえに、損失と勘定するようになりました。しかしさらに、わたしはまた、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに、すべての事を損失であると勘定します.その方のゆえに、わたしはすべての事で損失を被りましたが、それらをちりあくたと勘定します.それは、わたしがキリストを獲得するためである」と、言いました(ピリピ三・七―八)。なぜなら、神の御前に戻ったときだけ、わたしたちは真の満足を得ることができるからです。これが、伝道の書が明示したいことです。

詩歌の書の順序
ソロモンは感覚を受けて伝道の書を書きました。それは、彼が神から遠く離れて、この世を得た後の失望と不満足を語っています。その後、また感動を受けて雅歌を書き、神の御前に戻ったとき、真の満足があると言いました。これから分かるように、聖書の中における伝道の書と雅歌の順序には意義があります。また五冊の詩歌の書(ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌)の順序には、さらに霊的に超越したすばらしい意義があります。

ヨブ記と詩篇の順序
ヨブ記と詩篇――詩篇は、神聖な啓示に関してヨブ記よりも前進しているので、詩篇がヨブ記の前に来るのはふさわしくありません。ヨブ記は、詩篇の前にあり、神と人の関係についての、人の観念に基づいた人の見解を記載しています。ヨブ記は、全焼のささげ物を通しての神の贖い(一・五)と、人の邪悪に対する神の裁き(九・十九後半)の、いくらかの神の属性に関する神聖な啓示を除いて、神聖な啓示を帯びていません。ヨブ記はまた、ヨブや彼の三人の友やエリフが、神を彼らの到達と享受として、獲得しようとしたかどうかについて示していません。そうではなく、この書は、ヨブが完全で正しい人で、神を畏れていたことを告げているだけです(一・一)。

ヨブ記の内容は、ヨブ、彼の三人の友、エリフの天然の見解と観念における人の情緒の表現です。この書には、神にささげられた祈りや賛美はありません。さらに、彼らがいかに神に飢え渇いていたかということも見ません。彼らは神を求め、神を渇望しませんでした。彼らは神に祈り、神を待ち望むことをしませんでした。また詩篇はその大部分が、作者の天然の観念にしたがった彼らと神との、そして人との、敵との関係についての混合した情緒の表現です。この部分はヨブ記の記載と一致しており、人の見解と観念における人の情緒の表現という点においては、詩篇はヨブ記の継続と見ることができます。

詩篇の中には、さまざまな作者が、神を経験するさまざまな段階で、神の心を追い求めていることがわかります。詩篇第一篇で、詩篇の作者は神を追い求めていましたが、神を直接、追い求めていたのではなく、神の律法を、神を追い求める目標としていました。しかしながら、詩篇第二篇、第八篇、第十六篇で、詩篇の作者は直接、神ご自身を追い求めました。詩篇第三六篇では、詩篇の作者は、自分の追い求める対象が宮の中の神ご自身であるべきだと理解しました。そのような追い求めることは、ヨブ記に見いだすことはできません。詩篇は相当な部分で、キリストと神の家(宮)における神聖な啓示と、神の都(エルサレム)における神聖な啓示を混合して提示しています。この一部分は、神のエコノミーの中心性と普遍性としてのキリストについて、旧約における最高の神聖な啓示であると見なされるべきです。これは、新約の中でも強調されています。

聖書におけるヨブ記の機能――第一に、ヨブ記は、神がご自身の聖なる民を対処することについて、人の観念の絵図を読者に与えています。第二に、ヨブの時代における神聖な啓示の不足を暴露しています。その時代は、神を知ることでは実に原始的でした。第三に、ヨブ記は聖書の読者たちに一つの消極的な背景を与え、ヨブ記で得たことから、さらに前進し、詩篇で示されている神聖な啓示の中の、神聖で霊的な真理を追い求めるように促します。第四に、聖書の読者たちに、神の永遠のエコノミーの中心性と普遍性としてのキリストを認識するよう飢え渇きを起こさせ、彼らが神を知ることで、現在の到達に満足しているところから出て来るように促します。わたしたちが神を知っているという満足は、神聖な啓示を理解することで、わたしたちが前進するのを妨げます。第五に、聖書の読者たちの霊を空にし、彼らの霊の中にさらなる余地を持たせ、神の豊富をますます獲得するように促します。最後に、ヨブ記は、聖書の読者たちに、次の書(詩篇)の中に秘められたものを理解する能力を与えます。もしわたしたちが、ヨブ記を読まないで詩篇に来るなら、詩篇にある秘められたものを理解するのに必要な背景の一部に欠けるでしょう。

詩篇の機能――大きな溝がヨブ記の最後に残されており、詩篇の第一の機能は、この溝を埋めることです。第二に、聖霊が、どのようにして詩篇の作者を、律法からキリストへと向かわせたかを、聖書の読者たちに見せています。第三に、詩篇は、神のエコノミーにおけるすべてを含むキリストを、聖書の読者たちに供給します。わたしたちは律法からキリストに向かうだけでは十分ではありません。わたしたちはまた、神の永遠のエコノミーにおいて、キリストがすべてであることを知る必要があります。第四に、詩篇はまた、神聖な啓示が徐々に前進し、ますます高く、ますます深く、ますます豊富になっていることを聖書の読者たちが認識するよう助けます。それは、ヨブ記から詩篇だけでなく、詩篇からその後に続く旧約の各書と、新約の各書も同じように前進し、新天新地における新エルサレムという高嶺に到達するまでに至り、神の永遠のエコノミーにしたがった神聖な啓示の究極的完成と終局に至ります。

箴言、伝道の書、雅歌の順序
箴言は、賢い者の言葉の集まりであり、人が神に接触することを通して、神から知恵を得られることを強調しています。この知恵は彼らに、どのように人として行動するかを教え、人として生活していく中で、彼らの性格を確立します。箴言の中の「知恵」は最高の知恵で、霊的な知恵でもあります。それはまた、神を畏れ、神を知る知恵でもあります。伝道の書は、人が神から得た知恵を通して、日の下でのすべてが空の空であるということをわたしたちが見るよう強調しています。一つの事が、それが旧創造である限り、どんなに美しく、超越的で、麗しく、またはすばらしいものであっても、それは日の下の空の一部です。ただ、天の上にあり、「日の下」にない新創造だけが、空ではなく、実際です。次の書(雅歌)は、日の下でのすべてが空の空であるのとは対照的に、キリストが人生の歌の中の歌、満足の中の満足であることを強調しています。

伝道の書の終わりに、著者はこの書に結論の言葉を書きました、「神を畏れ、彼の戒めを守れ.まことに、これが人のすべてである。まことに、神はあらゆる行為を、あらゆる隠された事も共に、善であれ悪であれ、裁きにもたらされる」(十二・十三―十四)。これは、ソロモンが回復の初期に行なったことの結論です。彼はかつて神を捨て、神に背き、日の下にあるものを追い求めましたが、それらを得ても満足できませんでした。さらには、より苦痛で、より空虚になりました。彼は当初の道に戻る途上で、「畏れ」をもって神を追い求め始めました。伝道の書の次に続く詩歌の書の雅歌は、ソロモンが完全に回復した後に書いたもので、そこでは神を畏れ、追い求めるというだけでなく、さらに一歩前進し、「愛」を通して神に親しむという意味で、この二つの書は互いに補い合っています。

詩歌の書は人の心の中の感動的な表現であり、人生経験の肖像画です。ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌、これらの五冊の詩歌の書の順序もまた、聖霊の優れた考えが示されており、わたしたちの霊的な道における追求と経過を示しています。苦しみのために(ヨブ記)、わたしたちは神の御前で彼に祈るよう促され、彼と交わりを持ちます(詩篇)。そして、祈りから啓示と知恵を得て(箴言)、神以外のすべては空であることを知り(伝道の書)、キリストの中での満足を知ります(雅歌)。

旧約での各書の順序の内在的意義
五冊の詩歌の書の順序には、神の優れたみこころがあるだけでなく、詩歌の書が置かれている旧約聖書の中での順序にも神のみこころが表れています。聖書は新約聖書と旧約聖書の合計六十六冊から成っています。その中で、旧約聖書は三十九冊を含み、四つの部分に分けることができます。予表の部は、創世記から申命記までの五つの書から成っています。歴史の部は、ヨシュア記からエステル記までの十二の書から成っています。詩の部はヨブ記から雅歌までの五つの書から成っています。預言の部は、イザヤ書からマラキ書までで、五つの大預言書と十二の小預言書から成っています。聖書の各書の順序と配列には意味があり、その目的は神の永遠のエコノミーを明らかにするためです。そしてこのエコノミーの中心性と普遍性が、キリストであることを指摘するためです。

予表において――創世記から申命記
創世記から申命記までの予表は、神の永遠のエコノミーの中心と円周として、具体化された三一の神がキリストの中にあることを明らかにしています。また、このキリストは、三一の神の選びの民にとっての、祝福とすべてであることを明らかにしています。

歴史において――ヨシュア記からエステル記
ヨシュア記からエステル記までは、神の選びの民が、約束された良き地としてのすべてを含むキリストを所有し、相続し、享受するための、彼らの中での三一の神の行動を明らかにしています。それらはまた、神の選びの民の失敗を、彼の新約の選びの民への警告として示しています。旧約における神の選びの民は、神の行動の中でことごとく失敗しました。聖書のこの記録は、今日、新約の中にいるわたしたち召会の民への警告です。

詩歌の書において――ヨブ記から雅歌
この五冊の書は、三一の神ご自身が(倫理や道徳ではなく)、完全な人となるために、人として追い求めるべきものであることを示しています。このことは、ヨブ記の中心的で、内在的な啓示の結論でもあります。詩篇が示していることは、神の具体化であるこの方が、一人の肉体の中にある人となり、神の油塗られた者となられるということです。そして、彼は神の喜びであり、神によって高く上げられ、彼は神の選びの民によって受け入れられ、愛され、高く上げられるべきであるということが示されています。伝道の書は、日の下の人の生活のすべての事柄は空の空であることを明らかにし、そして雅歌は、三一の神の具体化であるキリストが、神の選びの民の唯一の満足であることを明らかにしています。ですから、わたしたちは神をわたしたちのすべてとして追い求めるべきであり、またキリストをわたしたちの満足として追い求めるべきです。神がわたしたちのすべてであり、キリストがわたしたちの満足であるべきです。

預言において――イザヤ書からマラキ書
イザヤ書からマラキ書までの十七の預言書は、キリストの中に具体化された三一の神が、神・人となり(イザヤ七・十四、九・六)、贖いを完成し(第五三章)、前に述べた旧約の三種類の各書物にしたがって、神の永遠のエコノミーを成就することを明らかにしています。それらはまた、手順を経て究極的に完成されたキリストの中の三一の神の完成が、新しい天と新しい地において究極的に完成されることを明らかにしています(イザヤ六五・十七、六六・二二、Ⅱペテロ三・十三啓二一・一)。

旧約聖書の各書の順序は、旧約の中の、また神のエコノミーの中にある、すべてを含むキリストの生き生きとした描写を、わたしたちに提示しています。予表において、キリストは神のエコノミーの中心性と普遍性であり、神のすべての選びの民にとって神聖な祝福であることを見ます。歴史において、すべてを含むキリストが神の約束された良き地であり、神のすべての選びの民が獲得し、所有し、相続し、極みに至るまでこの良き地を、王としての水準に至るまで享受すべきであることを見ます。詩歌の書において、キリストは神の選びの民が追い求めて到達するための唯一の完成であり、神の選びの民が獲得し、享受するための唯一の満足であることを見ます。預言書において、三一の神が神・人となり、彼の完全な贖いを完成し、彼の永遠のエコノミーを成就し、新しい天と新しい地で究極的に完成することをわたしたちは見ることができます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第5巻より引用

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