旧約の預言者エレミヤは言いました、「(エホバ、万軍の神よ)、あなたの言葉が見いだされて、わたしはそれを食べました」(エレミヤ15・16前半)。これは、聖書は人においては食物であるということをわたしたちに啓示しています。ですから、わたしたちは聖書を食物として食べ、わたしたちの中へと受け入れ、言葉はわたしたちの中で消化され、わたしたちに霊的な命を供給します。
聖書の機能
(一)「わたしについて証しする」(ヨハネ五・三九)。
聖書の第一の機能は、主イエスについて証しすることです。主イエスが聖書の主題また内容であり、聖書は主イエスの説明また表現です。主イエスは「生ける」神の言ですが、聖書は「書かれた」神の言です。もし書かれた言である聖書に、その実際としての生ける言である主イエスがなかったなら、それはむなしい教理と文字にすぎません。もし生ける言である主イエスに、彼の表現としての書かれた言である聖書がなかったなら、彼は抽象的で漠然としており、認識することや触れることが困難です。感謝すべきことに、わたしたちには聖書の明白ではっきりとした説明とその明確な啓示があります。それによって、わたしたちは主イエスを認識し、理解することができます。新約の書は主イエスを啓示しており、旧約の書でさえ、モーセの律法、預言書、詩歌(旧約はこの三つの大きな部分で構成されている)すべては主イエスを証しし、主イエスを語っています。
(二)「救いへと至る知恵を得させる」(Ⅱテモテ三・十五)。「再生された」(Ⅰペテロ一・二三。参照、ヤコブ一・十八)。
一方において、聖書の機能は主イエスのためであり、もう一方において、わたしたちのためです。わたしたちのためであるという面から言うなら、聖書はわたしたちに救いへと至る知恵を得させ、キリストにある神の救いの道と、わたしたちが信仰を通して救いに至る経路をわたしたちに啓示します。そしてわたしたちが神の救いを認識し、救いの道を理解するようにさせます。聖書のわたしたちにおける最初の具体的な機能は、わたしたちを再生することです。聖書は、永遠に生きておられる神の言葉であり、また神の永遠の命を内容としています。わたしたちが信仰を通して聖書の言葉を受け入れる時、その言葉は命の種のようにわたしたちの中に植えられます。聖書は機能して神の命をわたしたちの中へとまき、神の命をわたしたちの中へと分け与えて、わたしたちを再生します。
(三)「人を教え、戒め、矯正し、義の中で訓練するのに益があります。それは、神の人が……完全な者になるためです」(Ⅱテモテ三・十六―十七)。
聖書はわたしたちを再生させた後、わたしたちを教え、戒め、各面で矯正し、わたしたちがあらゆる面で義を学ぶようにと導きます。それは、わたしたちが神の御前で神の再生された人として完全な者になるためです。
聖書の教えは、わたしたちが忍耐することができるようにし、またわたしたちに励ましと望みを与えます(ローマ十五・四)。多くの信者たちは困難や病に遭うとき、忍耐することができません。彼らは落胆し、望みを失います。しかしながら、ただ聖書の一つの区分、あるいは一文だけでも読むことは、しばしばわたしたちに忍耐する内側の強さを与え、またわたしたちの期待を超えた励ましと望みを供給します。わたしたちは困難に遭うとき、聖書によって助けを受け、確立されます。
(四)「予表として……わたしたちへの警告のために……」(Ⅰコリント十・十一)。
多くの事柄が予表としてわたしたちへの警告のために聖書の中に記録されています。わたしたちは聖書を読むとき、わたしたちの前を行ったある人たちの経験によって警告を受けることができ、また彼らの予表に従わないように注意深くあることができます。これは、信者たちが聖書の中に見いだす別の助けです。
(五)「わが足のともし火、わが径の光」(詩一一九・一〇五)。
しばしば聖書は、わたしたちにとって輝くともし火のようです(Ⅱペテロ一・十九)。わたしたちが生きている時代は暗くて、人はこの暗やみの中を歩んでいるので、足元をともし火で照らす必要があります。聖書の言葉は、光を放ち、わたしたちの足と径を照らすだけでなく、単純な(愚かな)者たちに理解力を与えます(詩一一九・一三〇)。
(六)「自分の路を清く保つ……あなたに罪を犯さないようにしました」(詩一一九・十一、九)。
聖書の中の言葉には、照らす能力だけでなく、清める能力があります。照らすことは暗やみを対処し、清めることは汚れを対処します。毎回わたしたちが聖書に近づくたびに、その中の言葉にわたしたちの内側を通過させて、聖書の言葉にわたしたちを照らし、清めさせます。聖書の言葉を、わたしたちが読んで、忘れたとしても、その言葉はわたしたちを清めることができます。これは、ざるが水に浸されるようなものです。水は漏れ出てしまいますが、ざる自体は水に浸されたことにより清くなります。わたしたちが聖書の言葉を心の中に蓄えるなら、それらは絶えずわたしたちに思い起こさせ、警告し、わたしたちが神に罪を犯さないようにします。
(七)「その霊の剣」(エペソ六・十七)。「どんなもろ刃の剣よりも鋭く」(ヘブル四・十二)。
聖書の言葉はその霊の剣です。わたしたちは聖霊によってそれを適用して、サタンと彼の使いを対処することができます。主イエスは荒野でわたしたちを誘惑し、攻撃する悪魔、敵を打ち破られたときも、旧約聖書の言葉を通してでした。ですから、わたしたちはサタンと邪悪な霊と戦って打ち破るために、聖書を常に読んで、聖書に精通していなければなりません。聖書の言葉は剣のように鋭く、わたしたちの霊的な敵を対処することができるだけでなく、それはまたわたしたちの魂と霊を切り離し、わたしたちの心の思考と意図を識別することができます。聖書の言葉は、何が魂からのものであり、何が霊からのものであるのかを識別することができ、何がわたしたちの自己から出て来た思いであり、またどの意図が神から出て来たものであるのかを、わたしたちに識別させ、わたしたちの内側の状態をすべて暴露し、主の御前で何も隠されていることはできず、あらゆることがあらわにされます。
(八)「わたしは……食べました」(エレミヤ十五・十六.マタイ四・四)。「言葉の乳」(Ⅰペテロ二・二.Ⅰコリント三・一―二.ヘブル五・十二―十四)。
聖書はわたしたちの霊的な命のための食物です。わたしたちの肉体の命に養いが必要であるように、わたしたちの霊的な命にも養いが必要です。ただ聖書の言葉が、わたしたちを供給することができます。もしわたしたちが神の御前で強く、生き生きとしていたいなら、わたしたちは物質のパン(食物)によるのではなく、神の口から出る言葉、すなわち聖書の言葉を必要とします。わたしたちは食物のように聖書の言葉を食べ、さらには聖書を食物よりもさらに高いものとして評価しなければなりません。そうでなければわたしたちの霊的な命は成長することができません。
聖書の言葉はまた乳のようなものであり、わたしたちを養うことができます。ですから、新しく再生された信者は、「生まれたばかりの赤子のように、悪巧みのない言葉の乳を切に慕い求め」なければなりません。乳は赤子のためであり、成人は固い食物を食べる必要があります。聖書の言葉は、わたしたちの霊的な命の乳であるだけでなく、わたしたちの霊的な命の固い食物でもあります。わたしたちの霊的な命が幼いときは、霊の事柄に対して十分な理解力に欠けます。ですから、わたしたちが聖書の言葉を理解するには、わたしたちが練達し、聖書の中のそれらの難解な言葉を理解することができるようになる必要があります。それは成長した人が固い食物を食べることができるようになるのと同じです。わたしたちの霊的な命が成長し、わたしたちが聖書から固い食物の栄養を取り出し、わたしたちの霊的な命が増強されるには、いつまでも「キリストにある赤子」のままであってはいけません。
(九)「洗い……清め」(エペソ五・二六―二七)。
聖書の言葉はわたしたちの外側の行動を洗い、わたしたちの外側の汚れを除き去ります。それはまた内側でわたしたちを洗い、わたしたちを旧創造の弱さから解放します。エペソ人への手紙第五章二七節の「しみやしわ」は、わたしたちの外側の行動から得る汚れではなく、わたしたちの内側の旧創造の命の中のすべての弱さです。聖霊は常に聖書の一句の言葉や一段落の文を用いてわたしたちを生かし、わたしたちの内側の命において主と協力し、わたしたちを旧創造のものから離れさせ、新創造の中で成長させることができます。
ヨハネによる福音書第十五章三節が言っているのは、わたしたちが真のぶどうの木である主の枝であるので、主がわたしたちに語った言のゆえに、わたしたちはすでに、「清い」ということです。主の言、すなわち聖書の言葉は、わたしたちを清めて、わたしたちが多くの実を結ぶことができるようにします(二節)。この清めは枝の外側の汚れを除くことではなく、古くなったものを除き去り、新しくするために枝を剪定することを指しています。ですから、わたしたちは内側で旧創造と関係のあるすべてから清められ、新創造の中で成長する必要があります。それには、聖書の言葉が常にあり、わたしたちの内側でこのような清め洗う力と機能が発揮されている必要があります。
(十)「火のよう……槌のよう」(エレミヤ二三・二九)
聖書の言葉は力に満ちています。それは燃える火のようであり、打ち砕く槌のようです。聖書の言葉は神に対して氷のような冷たい心を燃やし、神の聖なる性質に反する人に属するものを完全に燃やし尽くすことができます。それは神に対してかたくなな心を砕き、神に逆らうあらゆる考えを撃破することができます。何千年もの間、神に対して冷たい無数の心が聖書の言葉によって燃やされてきました。また神に対してかたくなな無数の心が聖書の言葉によって打ち砕かれてきました。あらゆる時代を通して、神の聖なる性質に相対する多くの事柄が聖書の言葉によって燃やされ、神に逆らう多くの考えが聖書の言葉によって撃破されてきました。
(十一)「雨のように……露のように……小雨のよう……夕立のように」(申三二・二)。「雨や雪が……潤し」(イザヤ五五・十)。
聖書の言葉は雨、露、夕立のようであり、水を注ぎ、潤します。雨は一般的な水注ぎであり、夕立は特別な水注ぎであり、露は優しく潤すものです。わたしたちは神の農場であり(Ⅰコリント三・九)、神が栽培する収穫です(マルコ四・二〇、Ⅰコリント三・六)。聖書の言葉は雨、露、小雨、夕立のようであり、わたしたちに水注ぎし、わたしたちを潤し、わたしたちを成長させ、実を結ぶことができるようにします。
聖書の言葉は雨のようであるだけでなく、雪のように潤します。雨は春、夏、秋に降りますが、雪は冬に降ります。雨が潤すことは速やかで、比較的に短時間ですが、雪が潤すことはゆっくりであり、長時間のものです。これらはどのような時においても、聖書の言葉がわたしたちを潤すことをわたしたちに見せています。ある時には雨のように速く短く潤し、ある時は雪のようにゆっくりと長時間かけて潤します。潤すことが雨のようであっても、雪のようであっても、わたしたちを成長させて、実を結ばせ、神の喜ばれることがわたしたちの上で成し遂げられます。
(十二)「命を与えるのはその霊である.肉は何の役にも立たない.わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である」(ヨハネ六・六三)
主はここでユダヤ人に対して説明され、彼らに与えて食べさせるのは彼の物質の体の肉ではない、なぜなら体の肉は何の役にも立たない、と言われたのです。彼が与えようとされるのは、最終的に、命を与える霊であり、復活の中の主ご自身です。主が肉体と成り、死んで復活された後、命を与える霊と成られました。このようにして彼はわたしたちの命と命の供給となられました。
第一に、主は人に命を与えるために、その霊になることを示されました。それから彼は、ご自身の語る言葉は霊であり、命であると言われました。霊は生きていて、また真実なものですが、とても奥義的で、とらえることが容易ではなく、人が理解することが難しいものです。しかし言葉、すなわち聖書は、具体的であり、わたしたちはただ霊を活用して彼の言葉(聖書)を受け入れる時、命であるその霊を得るのです。
(十三)「魂を生き返らせ‥…未熟な者を賢くする……心を喜ばせ……目を照らす」(詩十九・七―八)。「全身のいやしとなる」(箴四・二二)。
多くの時、わたしたちの魂は落ち込むかもしれませんが、聖書の言葉はわたしたちを回復し、新鮮にします。わたしたちは未熟、すなわち、愚かであるかもしれませんが、聖書から来る言葉はわたしたちを賢くします。わたしたちは心の中で悩まされるかもしれませんが、聖書の言葉はわたしたちを喜ばせます。わたしたちは盲目であるかもしれませんが、聖書からの言葉はわたしたちの目を照らします。聖書の言葉はわたしたちに霊的な養いを与えるだけでなく、またわたしたちの肉体をいやすことができます。聖書の言葉はわたしたちの魂を回復し、わたしたちの心を喜ばせることができるので、わたしたちの体をいやすことができます。聖書の言葉はわたしたちの心を幸いにするので、それはまた体をも健康にすることができます。聖書の機能は何とすばらしいものでしょう!
(十四)「鏡」(ヤコブ一・二三)。「参謀」(詩百十九・二四)。
聖書の言葉は鏡のようです。それはわたしたちの真の姿と状態を映し出します。多くの人は聖書を読むことによって、自分の真の表情を見て、真の状態を知ります。聖書の言葉に来て、自分自身を見ることのない人を見いだすのは困難です。また聖書の言葉はわたしたちの参謀です。多くの時、聖書の言葉はどのような参謀、戦略家、相談役の提案や見解よりもはるかに優れています。わたしたちは聖書と共に、また最高の参謀と共にすべての事柄を考え、それを相談すべきです。それは主に機会を与えて、わたしたちに彼の提案や見解を与えていただくためです。
(十五)「岩……にたとえることができる」(マタイ7・24ー25)
聖書の言葉は岩のようであり、信頼することができます。もしわたしたちの生活や働きが聖書に基づいているなら、それらは岩の上に建造された家のようです。それは、雨が降り注ぎ、川が氾濫し、風が吹いて、その家を打ちつけたとしても倒れない、堅固で、信頼できる家のようです。
人と聖書の関係
日ごとに読む
聖書はわたしたちの生活と行動に密接に関係しているので、わたしたちは生活のあらゆる領域においてそれを必要とします。ですから、わたしたちは日ごとに聖書を読むべきです。聖書はわたしたちの霊的な命のための食物ですから、わたしたちは聖書から日ごとに霊的な栄養を受けなければなりません。体は毎日、物質的な栄養を必要としますが、霊の面でも同じです。わたしたちは毎日、食物を食べる必要があるように、毎日聖書を読む必要があります。食事は一日食べ、三日間食べないというのであってはいけません。同様に、わたしたちは時々思い出したように聖書を読むべきではありません。わたしたちの日ごとに食べ、その分量も平均的に適切にする必要があります。わたしたちが日ごとに読む聖書の分量も、適切に配分される必要があります。多すぎたり少なすぎたりすべきではありません。ある日は多く読みすぎ、次の日はほとんど読まないというようであるべきではありません。
人が食べるのもただ毎日食べているだけでなく、毎日決まった時間に食べる必要があります。わたしたちが食事のために、毎日いくつかの決まった時間を案配しているように、聖書を読む時も同じです。聖書を読むための特定の時間を取って置くべきです。わたしたちの霊にとって最も良いのは、毎日、特定の時間に特定の量の聖書を読むことです。
朝に読む
一日の中で、朝は聖書を読むのに最上の時間です。聖書を読む多くの人たちは、これを認めています。朝は、わたしたちの心が目覚めたばかりで、わたしたちの霊の中が清いからです。もしわたしたちが朝以外の時間に聖書を読むなら、妨げる騒音や、人々や出来事の妨害を避けて、平安の中で聖書を読むのは難しいでしょう。このことは、聖書を読むことから多くの益を得るのを困難にします。これはちょうど、イスラエルの子たちが荒野で毎日、朝に、彼らが必要としたマナを集めたのと同じです。もし彼らが太陽の昇るまで待っていたなら、マナは溶けてなくなってしまいました(出十六・二一)。事実、わたしたちが聖書からわたしたちの霊のために必要なマナを集めるためには、毎朝早く起きなければなりません。もしわたしたちが遅すぎるなら、それはその日の用事の間に溶けてなくなってしまいます。もしわたしたちが朝、怠惰であり、自分の寝床を愛するなら、聖書からその日に必要なマナを集めることはできません。わたしたちはその日の大きな祝福を失います。
聖書を尊重する
わたしたちは聖書の言葉を自分に必要な食物よりも尊び、尊重すべきです。よく兄弟姉妹は忙しすぎて聖書を読むことができないと言います。しかし、わたしたちはどれほど忙しくても、なおも毎日の食事を食べる時間はあります。ですから聖書を読む時間はあります。ある人はかつて言いました、「聖書を読む前に朝食を食べてはならない」。わたしたちは食物よりも聖書を尊ぶべきです。聖書の言葉を真に味わった者たちはその尊さと甘さを知っています。聖書は金よりも慕わしく、蜜蜂の巣からの蜜よりも甘いです。神がわたしたちに、神の言、聖書の尊さと甘さを知るための恵みを与えてくださるようにと神に求めます。
祈りとミングリングされ、読む
わたしたちが聖書を読むことは祈りを伴っているだけでなく、また祈りとミングリングされるべきです。聖書のどの箇所や文もわたしたちの祈りとなることができます。これは単に聖書の言葉を読むことではありません。これは聖書の言葉を祈ることです。わたしたちは思いを用いて御言を理解するのではなく、わたしたちの霊を用いて御言の箇所を味わい、そしゃくすべきです。それによって、それはわたしたちの供給となります。このように祈り読みすることによって、わたしたちは聖書の真の霊的な意味、すなわち神のみこころを理解することができるだけでなく、聖書の内容の実際、すなわち神ご自身を享受することができます。これはわたしたちの霊的な成長のために聖書を読む最も有益な方法です。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第1巻より引用