神が彼の統治を執行する方法は裁きを通してです。神はご自身の語りかけにおいてわたしたちに見せていますが、人に対する神の裁きは相当重要なもので、少なくとも六つあるので、わたしたちは時間を費やして見る必要があります。
裁きは神の統治の事柄である
聖書はわたしたちに、宇宙には管理者がいないとは言っていません。神は宇宙の支配者です。ですから、宇宙には統治があります。統治があるので、裁きもあります。神の裁きは神の統治の執行の一部分です。神はご自身の栄光のために、ご自身の聖によって、ご自身の義にしたがって裁きを執行します。この裁きの執行は、神が宇宙においてご自身の統治を執行することです。神の裁きは神の支配と統治の重要な部分です。神が悪魔、人々、天使を裁くという事実は、神が宇宙の主権ある主であり、統治上の行政の権威を持っておられることを表明しています。
人に対する神の裁きの事に関して、今まで人は大雑把に見ており、人に対する裁きは、天地の最後の日に、全部合わせて一回、人を裁いて、良い者は天に、悪い者は地獄に行かせると思っています。しかし、聖書の中で神が啓示しておられることは、このようではありません。人に対する神の裁きは相当重要であり、神は異なる人に対して、異なる時に、異なる裁きを行なわれます。わたしたちは聖書の中から、人に対する神の裁きを、少なくとも六つの異なる面にしたがって見ます。
人に対する六つの異なる神の裁き
十字架上の裁き
聖書によれば、人に対する神の最初の裁きはキリストの十字架においてでした。十字架上で信者の罪は神によって裁かれました。人の罪が神の裁きを経過することなしに、神には人を赦し、人を救う道がありません。神は人を赦し、人を救うために、人の罪を裁かなければなりませんでした。これは神がキリストの十字架上で、すでに完成されたことです。
キリストは十字架上で信者たちの身代わりとして神によって裁かれました。キリストは義なる方として、不義なる者であるわたしたちに代わって、わたしたちの罪のために神によって裁かれたのです(Ⅰペテロ三・十八)。罪を知らなかったキリストが、十字架上でわたしたちに代わって罪とされ、わたしたちに代わって神の裁きを担われました(二・二四、Ⅱコリント五・二一)。キリストは、わたしたちに代わって神によって裁かれ、わたしたちのために神にのろわれ、神によって捨てられたのです(ガラテヤ三・十三)。彼は十字架上で、神のために殉教したのではなく、わたしたちのために裁かれたのです。罪人として、わたしたちが神によって裁かれるはずでした。だれかが身代わりにならなければ、わたしたちが負わなければならなかったでしょう。しかし感謝します。キリストがわたしたちの代わりに十字架上で裁かれたので、わたしたちは再び裁かれる必要はありません。
神が十字架上でキリストを裁かれた結果は、キリストを信じるすべての者が神によって義とされ、もはや裁きを受けないということです(Ⅱコリント五・二一)。神は義ですから、キリストにわたしたちの罪を十字架上で担わせ、わたしたちを裁かれたので、神は再びわたしたちを罪定めしたり、裁いたりすることはできません。神の義なる裁きは神の義を成就し、神の義の要求を満たしたので、わたしたちを神の義とならせました。これはわたしたちが神の御前で義とされただけでなく、わたしたちを神の義としました。わたしたちが罪であるなら、裁かれます。わたしたちが義であり、しかもそれが神の義であるなら、完全に神の律法と神の要求を満たします。そしてもはや神によって裁かれることがないばかりか、完全に神に喜ばれ受け入れられます。このように、キリストを信じて救われたわたしたちには、神の裁きを受けるという問題はすでに解決されています。もはや、神に罪定めされ、神の裁きを受けるという問題はありません。
召会の裁き
人に対する神の第二の裁きは神の召会の中においてです。主が十字架上で神の裁きを担われた後、彼は死人の中から復活し、昇天し、聖霊を注ぎ出し、召会が生み出されました。召会が存在するようになった時から、召会の中には裁きがあります。召会の中での神の裁きは召会の裁きと呼ばれます。なぜなら、それは罪を犯す信者に対して神が召会を通して遂行されるからです。また大部分の信者はこの事柄を見過ごしています。しかしながら、この裁きは神の統治の中で重要な部分であり、召会における神の統治の一部でもあります。
罪を犯す信者たちに対する召会の裁きは必要がある時に起こります。罪を犯す信者がいるときはいつでも、召会はその人を遅らせることなく裁くべきです。当時、コリントに在る召会には罪を犯している信者がいましたが、召会は彼を裁きませんでした。ですから使徒は彼らを叱責しなければなりませんでした。そして、この(姦淫の行為を犯した)者を召会から除き去るように命じました(Ⅰコリント五・一―二)。
このように裁かれる者は、明らかに罪を犯しているのに悔い改めようとしない信者です。パウロが言っているのは、兄弟と呼ばれる者で、淫行の者、むさぼる者、偶像を拝む者、ののしる者、酒に酔う者、強奪する者であるなら、そのような者と付き合ってはならず、彼を裁き、彼と断絶するべきであるということです(十一節)。使徒が挙げた六つの罪は、神と人を非常に怒らせるものです。それらは明らかであり、不道徳なものです。偶像礼拝を除けば、不信仰な異邦人でさえこれらの罪を罪定めします。ですから、これらの罪を犯しているのに悔い改めようとしない信者はだれであれ、召会によって裁かれるべきです。召会はそのような人を除き去ることによって裁かなければなりません。それは、召会が内側の腐敗を免れ、外側の評判を顧みるために、裁かなければなりません。
ですからパウロは、召会はこのように罪を犯す信者、すなわち罪を犯しても悔い改めない信者に対して、彼を召会の交わりから絶つように言っています(二、十一、十三節)。神が召会に罪を犯した信者をこのように裁く権威を与えたのは、一方で、召会の聖を守り、兄弟姉妹たちが腐敗させられることから守り、召会が汚されることから守るためです。もう一方で、それは罪を犯す信者に対する罰と懲らしめであり、彼に苦しみを与え、悔い改めさせるためです。ですから、それは滅びという結果になる永遠の拒絶でなく、彼を悔い改めさせるための一時的な罰と懲らしめです。もし除き去られた信者が悔い改めるなら、召会は彼を赦し、彼を愛の中で迎え入れるべきです(Ⅱコリント二・六―八)。
神の懲らしめの裁き
人に対する第三の神の裁きは、信者に対する神の懲らしめの裁きです。神は召会が信者を裁き懲らしめることを願われますが、信者たちの中には召会が触れることのできない多くの問題があります。例えば、ある兄弟は家でいつも妻とけんかし、またある姉妹は頻繁に夫に短気を起こすかもしれません。これらは不品行のようなひどい明らかな罪ではありませんし、コリント人への第一の手紙第五章で語られているような罪でもありません。ですから、召会は彼らを裁いたり対処したりすることはできません。むしろ、神が御手を伸ばして、彼らを懲らしめ対処されるのです。信者に対する神の懲らしめは、神の統治上の行政の中の三種類目の裁きと言えるでしょう。
信者に対する神の懲らしめの裁きはいつでも、どこでも起こり得ます。神が必要で適切であると思われるなら、懲らしめの裁きを行使します。信者は神の子供たちであり、神はわたしたちの父です。すべての父は自分の子供たちを懲らしめます。神もまたわたしたちの父としてわたしたちを懲らしめます。神の懲らしめは、神がわたしたちを彼の子供たちとして受け入れておられる証拠です(ヘブル十二・六―八)。また神がわたしたちを懲らしめるのは、神がわたしたちを愛しておられるからです。神は愛される父として、わたしたちを懲らしめられます。このゆえに、神の懲らしめの裁きは神の愛の懲らしめ、愛の裁きと言うことができます。この裁きは神の家における神の統治上の行政の事柄です。
もしわたしたちがまず自分をわきまえるなら、すなわち、まず自分を裁くなら、わたしたちはこの神からの懲らしめの裁きを免れることができます。もしわたしたちが罪を犯しても自分を裁かないなら、神はわたしたちを裁くことによって懲らしめます(Ⅰコリント十一・三一―三二)。この裁きの結果は、信者の益のためであり、わたしたちを神の聖にあずからせ、平安の義の実を結ばせます(ヘブル十二・十―十一)。そして、世の人と共に罪に定められることからわたしたちを逃れさせます。
わたしたちは救われた後、この世から分離され、神の聖なる性質と符合した聖なる生活をすべきです。わたしたちの振る舞いは神の義に符合すべきであり、わたしたちには神と人に対して調和と平安があるべきです。しかしながら、多くの場合、わたしたちはこのようではありません。このゆえに神はわたしたちを懲らしめ罰を与え、わたしたちを裁かざるを得ないのです。そして、わたしたちを聖でない義でない状況から悔い改めさせ、神の聖と神の義に符合して平安の義の実を結ばせるようにさせます。ペテロの第一の手紙第四章十七節で示されているように、神の裁きは「神の家から」始まります。この事も、ダビデに対して以前、神が行なったことと、彼の子孫に対する神の約束(サムエル下十二・十三―十八、七・十四―十五)です。
キリストの裁きの座の前での裁き
人に対する第四の神の裁きは、キリストの裁きの座の前での裁きです。これは信者がその行為と働きにしたがって、将来受ける裁きです。信者の罪は、キリストの十字架上で、すでに裁かれました。しかし、信者が救われた後の行為と働きは、将来キリストの裁きの座の前で裁かれなければなりません。この裁きはわたしたちの将来と非常に切実に関係があるので、わたしたちはそれに注意を払わなければなりません。
この裁きが起こるのはキリストが再来される時、すなわち召会時代の終わりです。主は再来される時、天から空中に下って来られます。その時、死んだ信者がまず復活し、次に生きている信者が変えられます(Ⅰコリント十五・五一―五二)。すべての信者は共に雲の中に引き上げられ、空中で主と会います(Ⅰテサロニケ四・十六―十七)。それから主は救われた後の信者の行為と働きを裁かれます。すなわちそれは主が下って来られ、信者が引き上げられる空中で起こります。そこで、主は救われた後の信者の行為にしたがって、善であれ悪であれ、信者を裁き、報酬を与えます(Ⅱコリント五・十、啓二二・十二、マタイ十六・二七)。このほか、この裁きはわたしたちの働きも裁きます。わたしたちが救われた後にそれぞれが主のために行なった働きは、キリストの裁きの座であらわになり、彼の火によって証明され、裁かれます(Ⅰコリント三・十三―十五)。こういうわけで、救われた後、わたしたちは主のための振る舞いと働きの方法においていい加減であることはできません。主はわたしたちを救ってからわたしたちのことを忘れ、好きなように行動させ働かせることはしません。わたしたちが救われた後に行なった事柄はすべて主によって裁かれます。主はこれらの事柄にしたがってわたしたちを裁き、わたしたちに報いられます。ですから、わたしたちが救われた後、どのように振る舞い、どのように主のために働くかは極めて重要なのです!
キリストの裁きの座で、ある者は褒賞を受け、他の者は損失を被ります。褒賞を受けるのは、彼らの働きが主のテストする裁きを経た後に残るからです。損失を被るのは、彼らの働きが主のテストする裁きに耐えられないからです。彼らは損失を被りますが、救われます。彼らは救われますが、火をくぐってきたように救われるのです。救いについて言うならば、彼らが一度救われれば、永遠に救われたのです。働きがどうであれ、この事柄に影響を与えることも、この事柄が変わることはありません。働きが称賛されず、彼らは損失を被りますが、救いを失うことはありません。火をくぐってきたようにではあっても救われます。
キリストの裁きの座の前での裁きは、永遠の救いや滅びとは関係がありません。それはわたしたちが褒賞を受けるか、それとも刑罰、損失を受けるかと関係があるのです。わたしたちの永遠の救いの事柄は、十字架上でキリストを裁くことを通してすでに解決しました。しかしながら、わたしたちには救いか滅びかの問題だけでなく、褒賞と刑罰の問題があります。これはキリストの裁きの座の前での裁きで解決されることです。
キリストの栄光の御座の前での裁き
人に対する第五の神の裁きは、キリストの栄光の御座の前での裁きです。最初の四つの裁きは信者と関係があります。第五と第六の裁きは、世の人と関係があります。世の人は、生きている者と死んだ者の二つのグループに分けられます。世の人に対する神の裁きは二つの異なった時に起こります。まず神は生きている世の人を裁き、その後、死んだ世の人を裁かれます。第五の裁きで生きている世の人が裁かれ、第六の裁きで死んだ世の人が裁かれます。
召会時代の終わりに、信者は空中に携え上げられてキリストの裁きの座の前で裁かれます。キリストは地に来られて彼の栄光の御座に着き、その時に地上で生きている世の人を裁かれます。それは牧者が羊を分けるようにです(マタイ二五・三一―三二)。キリストが生きている諸国民を彼の栄光の御座の前で裁かれるのは、彼らがどのように主の兄弟たちの最も小さい者を扱ったかに基づいています。もし彼らが主の兄弟たちの最も小さい者を良く扱うなら、主は彼らを義人と定め、羊と見なします。もし彼らが主の小さい兄弟たちを悪く扱ったなら、主は彼らを邪悪な者として罪定めし、やぎと見なします。これらの小さい兄弟たちは、患難の中に残される信者たちです。彼らはまだ円熟していないので、地上の人々がどのようにこれらの小さい兄弟たちを扱うかが、彼らに対する裁きの根拠となります。永遠の命の中に入る者たちは、主の兄弟たちの最も小さい者を良く扱った者たちです。彼らは羊のような義人となります。永遠の火の中に入る者たちは、主の兄弟たちの最も小さい者を悪く扱った者たちです。彼らはやぎのような邪悪な人となります(マタイ二五・三四、四一、四六)。義人は永遠の命に入ります。すなわち、世の基が置かれた時から彼らのために用意されている王国に入ります。永遠の命は彼らに対する領域となります(永遠の命を得ることではありません)。将来千年王国において、万物は復興されます(使徒三・二一)。こうして、神は義人に、すなわち地の民に、これらの地的祝福を享受することができるようにします。その時、彼らは地上で、千年王国の地的部分で民でしょう。邪悪な人は永遠の刑罰、すなわち、火の池の中に入ります。
大いなる白い御座の前での裁き
人に対する第六の神の裁きは大いなる白い御座での裁きです。これは人に対する神の最後の裁きです。ですから、それは人に対する神の統治上の行政における大きな事柄です。あらゆる時代の死んだ世の人はみな、大いなる白い御座の前に来て、裁かれて彼らの永遠の運命は決定され、彼らが過ごすべき永遠の世が決められます。
大いなる白い御座での裁きは、千年王国の後、新しい天と新しい地の前に起こります(啓二〇・五、七)。ですから、この裁きとキリストの栄光の御座の前での裁きとの間に、千年王国があり、千年の期間があります。千年王国の後、すべての死んだ世の人は、復活して裁かれます。主を信じて救われた者たちは、キリストの十字架上で神によって裁かれたので、この時に永遠の罪定めに関して再び裁かれることはありません。しかしながら、十字架でのキリストの裁きに分を持たない者たちは、この時に永遠の罪定めと滅びに関して裁かれなければなりません。
この裁きは、神が記録した彼らの行為に基づきます。神は人が生きている間に行なう一つ一つの事柄を巻物に記録されます。将来、主はこの記録にしたがって、すなわち、すべての人の生きていた間の行為にしたがって裁かれます(十二節)。命の書に書かれていないことが判明した者たちは、火の池の中へと投げ込まれて永遠に滅び、永遠に苦しみます(十五節)。彼らはこの時代に生きていた時に悪魔と共に罪を犯したので、将来、永遠に悪魔と共に永遠の炎の刑罰を受けます。
神の統治上の行政の裁きは
すべての問題を解決する
人に対する神の六つの裁きのうち、最初の四つは信者と関係がありますが、最後の二つは世の人と関係があります。信者は第一の十字架での裁きを経過し、永遠の救いの事柄を解決し、召会の人、すなわち神の家の子供たちとなります。続いて彼らは召会の中、すなわち神の家の中で第二の、召会の裁きと、第三の、神の懲らしめの裁きを受けます。それは、彼らの振る舞いが対処され正されるためです。最後に空中に携え上げられ、第四のキリストの裁きの座の前で裁かれ、褒賞か刑罰かが決定します。そして生きている世の人は、第五のキリストの栄光の御座の前で裁かれ、永遠の命の中に入るか、永遠の刑罰の中に入るかが決定します。それから、すべての時代の死んだ人は第六の大いなる白い御座で裁かれ、彼らの永遠の滅びの問題が決定します。このように、人に対する神の統治上の行政の裁きは、神の栄光、聖、義を満たすことに関するあらゆる問題を完全に解決します。最後の裁きが完成した時、新しい天と新しい地が現れるでしょう。すなわち、神は裁きによって宇宙を徹底的に清めた後、義が住む、新しい天と新しい地を持つことができます。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第4巻より引用