真の自由

福音メッセージ

現代人はみな自由を求めますが、今日、わたしたちは真の自由とは何かを見てみたいと思います。アメリカで小学校に通い、両親にしたがって本国に戻ったある子供は、アメリカに戻りたいとわめきました。彼になぜかと聞くと、彼は十分な理由があると言わんばかりに言いました、「アメリカの学生のほうが自由だからだよ!」。これは子供が求めている自由です。それは、制服を着る必要がないこと、ランドセルを持たなくてよいこと、あまり勉強しなくても罰がないことです! 青少年が求めている自由は何でしょうか? それは、親や先生に管理されることなく、行ないたいことを行ない、行きたい所に行き、好きに友達を作ることです。彼らがよく口にする言葉は、「好きな事なら、何でも良い!」。成年が求める自由は、さらに多く、またさらに抽象的になります。それは行動の自由、思想の自由、精神の自由、愛の自由、貧しさから免れる自由、恐れから免れる自由などがあります。共産国家の人々は命の代価をもって自由と交換しようとし、自由の世界にいる人々は現にある自由をもってさらなる自由を勝ち取ろうとします。今日、人の社会におけるすべての訴え、運動、争いは、人の心の奥深くにある自由に対する渇望を実現することではないでしょうか? しかしながら、人は自由を持てば持つほど、ますます不自由になっているようです。これはどういうことでしょうか?

親愛なる友人のみなさん、あなたは、どのような自由が真の自由であるかを考えたことがあるでしょうか? あなたも自由を探しているのでしょうか? あなたは哲学者、教育者、さらには宗教家の答えに満足しているのでしょうか? あなたは自由の真の意義を理解し、真の自由を得たのでしょうか? 聖書における一つの物語を見てみましょう。

罪を犯した者はすべて罪の奴隷である
ある日、イエスは一群れのユダヤ人に対して言われました、「あなたがたは真理を知る.そして真理はあなたがたを自由にする」。彼らはよく理解できなかったので、「わたしたちは……決してだれの奴隷になったこともありません。『あなたがたは自由になる』とあなたが言われるのは、どういうことですか?」と聞きました。イエスは彼らに答えられました、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.罪を犯している者はすべて罪の奴隷である。……子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのである」(ヨハネ八・三二―三六)。

わたしたちは外側でだれの奴隷ともなっていないのになぜ不自由なのでしょうか? しかしながら、イエスははっきりと告げられました。罪を犯している者はすべて罪の奴隷です! 奴隷は制限されており、不自由です。罪を犯しているすべての者はみな罪の奴隷であり、みな罪の制限を受けています。今日、自由を講じている多くの人は、実際に罪の奴隷となっています。最も気高い教育者、頭が最も聡明な人でさえ、みな罪の奴隷となっています。わたしたちは心の底で自問することができます。わたしたちは良くない嗜好にはまって抜け出せないのではないでしょうか? 悪い習慣があって、毎回それを行なってしまわないでしょうか? 密かに嫉妬、恨み、貪りの思いを持っていないでしょうか? これらはみなわたしたちを縛る罪であり、わたしたちを制限します。さらにわたしたちの良心もわたしたちを罪定めし、わたしたちを不自由にします。

聖書はわたしたちに見せていますが、罪は人の外側の行ないに現れるだけでなく、人の内側に生きている一つの権威です。罪は生きていて、力があり、人を制限し、人を縛り、人の行ないたくないことを行なわせることができます。今日において、罪を犯し、喜んで堕落することを願う人はいるでしょうか? しかし、実は人の内側にはある権威があり、強いて罪を犯さずにはいられないようにし、堕落した道を歩まずにはいられないようにします。人はあらゆる嗜好によって制限されていますが、実はそれらの事柄の奴隷となっているのです。麻雀中毒、ニコチン中毒、アルコール中毒の人は、みなつらく、もがいた経験を持っています。彼らは何回も自責し、何回もやめることを決意しましたが、結局その権威の下に服して、自由に去ることができませんでした。ある人は麻雀を打ち、賭博をして、自分でも制御することができず、毎日その時間になると、心が苦しくなり、手もうずうずして、子供も家庭も顧みないでやってしまいます。中毒になってしまうと、何も食べずに、不眠不休でやることもできます。多くの窃盗犯が出所した後、しばらくしてまた捕まるとき、裁判官が「なぜまたやったのか?」と尋ねると、犯罪者は「習慣になってしまいました。盗まずにはいられません」と答えました。これらは、犯罪や悪を行なうことが自分によらないことを物語っています。有罪の判決を受けて投獄されることは、人を戒めて、更生されるようにするためですが、彼らの悪の性質を変えることができません。それだけでなく、彼らは刑務所の中で盗みの熟練した者に出会い、さらに多くの技能を学びます。そして、出所した後、盗みがさらに巧妙になり、うまくなっています。

気性も同じです。ある人の気性は良くなく、自分でもどうしたらよいのかわかりません。かんしゃくを起こした後、常に後悔して、二度とかんしゃくを起こさないよう決心します。しかし、決心は役に立つのでしょうか? わたしたちはみな経験したことがあると思いますが、決心しなかったなら、まだ良かったかも知れませんが、決心した後にかんしゃくを起こすことが早くなります。決心するたびに失敗します。このような状況は、かんしゃくを起こすことは偶然のことではなく、一回限りのことではなく、何回ものことであり、生涯のことでさえあることを証明します。同じように、うそをつく人は常にうそをつき、貪る人は常に貪ります。あなたがどんなにもがき、努力しても、依然として罪の制限から逃れることができません。あなたは行ないたくないと思っていますが、行なうかどうかは自分によりません。

真の自由
ですから、外側の自由は真の自由とは見なされず、内側の自由が真の自由です。罪から逃れられないことは自由ではないことであり、罪から逃れることが真の自由です。今日、多くの人に真の自由がないのは、みな罪に縛られ、圧迫されているからです。ある人は実に罪によって縛られ、逃れようとしてもできません。ですから、真の自由とは罪から逃れることです。真に自由な人は罪を犯さない人であり、罪から解放され、また罪を超越した人です。しかしながら、だれがこのように罪を超越することができるのでしょうか? だれが罪の外におり、自由気ままであるのでしょうか?だれが罪の制限を受けないのでしょうか? すべての人は罪を経過し、みな罪の苦しみを感じて罪から逃れようとしますが、自分では何もできません。

真の自由とは良心の中で訴えがなく、罪によって縛られることがありません。今日、境遇がうまくいっている多くの人が寝ているのは最上級のベッドであり、座っているのは、最上級のソファです。通常であれば、とても心地よいはずですが、彼らの内側には罪があり、外側では心地良いかもしれませんが、内側は苦しんでおり、座っていても落ち着くことはなく、横になっても平安がありません。彼の良心は彼を訴え、彼の心は平安でなくなり、気分も喜ばしくありません。罪を犯す者は、罪の中で少しの喜びを得ているようですが、その罪の中の苦しみも相当強いのです。ある人は密かに不道徳で、不名誉なことを行ない、それを行なっているときは情欲を放縦し、少しの喜びを持っているかもしれませんが、人に知られることを恐れるので、良心に背いてうそをつきます。妻が彼にどこへ行ったのかと尋ねると、彼は正直に答えることができません。また子供たちに背き、老いている親に知られることも恐れます。彼の外側の環境はとても心地良いかもしれませんが、内側は心地良くなく、平安がありません。今日多くの人はみなこのようです! 人は、良心の中で訴えがなく、罪の束縛がないときに、真の自由を得ます。

真の自由は主による
人は外側の自由を勝ち取ることができますが、内側の自由はイエスを通してでなければ得ることができません。主は、真理はあなたがたを自由にすると言われました。また、神の御子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由であると言われました。ここの真理はある教理のことを指しているのではなく、神聖な事柄の実際を指しており、主イエスご自身です。この二つの文は、神の御子である主イエスご自身が真理であることを示しています。主は真理を持っておられ、主が真理であられ、主だけが人に人生の実際を認識させ、主だけが人に人生の意義を知らせ、また主だけが人に神を認識させることができます。なぜなら、神は自由の源であり、人を罪から逃れさせることができるからです。

真理は神の御子であり、またイエスご自身です。彼は唯一罪のない方であり、彼だけが人を罪から救い出すことができます。主は人の罪を担って死なれ、また死から復活されたので、彼は人の罪を赦し、また人を罪の制限から逃れさせることができます。主の血によって人の罪は赦され、人の良心の訴えがなくなります。主の命によって、人は罪の束縛から逃れて真の自由を得ます。

主ご自身だけがわたしたちを罪から逃れさせる力です。罪に打ち勝つために、決心することは役に立たず、心に決めても空しくなります。ただ一つの道があり、それは主にわたしたちの内側に入っていただき、彼にわたしたちの内側で働いていただくことです。罪の束縛は、わたしたちの肩の上にある鎖ではなく、わたしたちの構成、存在、堕落した性質の中にあるものです。外側のどんな事物も、この束縛からわたしたちを解放することができません。ただ主ご自身がわたしたちの中に入ってきて、わたしたちの命と力となるとき、わたしたちは罪の束縛から逃れることができます。それは、扇風機が動くのは、電源を付けて電流が流れるからであることと同じです。したがって、罪から逃れるために、ただ主に触れ、彼にわたしたちの命と力になっていただく必要があります。主がわたしたちの内側に触れるとき、わたしたちの深みに触れるとき、わたしたちの全存在が転覆させられます。以前、わたしたちは下に向いていましたが、このようにして神に触れられた後、わたしたちの全存在が上に向くようになります。

ある兄弟は、小さい頃から母親と仲が悪く、とても母を嫌い、恨んでおり、家出さえしました。ある日、彼は福音を聞き、イエスを彼の救い主として受け入れました。その後に、彼は母親との問題を特に思い出すこともなく、ただ単純に主に祈りました。ある日、彼は祈った後、意味がわからないまま号泣し始めました。彼は証ししましたが、ある力が彼の深みに触れ、自分が母親に申し訳ないということを感じました。次の日に、彼はすぐに電車のチケットを買って故郷に戻りました。母親に会うなり、彼女の前でひざまずいて罪を告白しました。その日から、母親は彼の最も親愛で、最も敬う人となりました。また、毎回母親を思い出すとき、彼の内側は喜ばしくなります。それは彼ではなく、キリストが彼に力を与えてくださったことを彼は証ししました。またある兄弟は、主を信じる前、自分の妻に対してとても悪く扱い、彼女を嫌っていました。彼が主を信じた後、同じようなことが起こり、神が彼の内側に触れ、彼を悔い改めさせました。彼が家に帰った後に最初に行なったことは、妻に罪を告白し、彼女の赦しを求めたことです。この力は彼からではなく、神が彼の内側に触れたことによってもたらされたものです。

どのようにして自由を得るのか
親愛なる友人の皆さん、あなたは自由を得たいでしょうか? 自由を得たい者は、みな自分が罪の奴隷であることを認め、また主と彼の贖いを受け入れる必要があります。彼の贖いは彼の尊い血と命によります。彼の血は人に罪の赦しを得させ、彼の命は人を罪の束縛から逃れさせることができます。あなたが心を開き、真実に主に向かって自分の罪を認め、彼をあなたの救い主として受け入れますように。彼の血によって、あなたの罪は赦され、もはや良心に訴えがなくなります。また、彼はあなたの内側に入って来て、あなたの命となり、罪の制限からあなたを救い、あなたが真の自由を得るようにしてくださいます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第2巻より引用

タイトルとURLをコピーしました