新約にサウロという名の若者がおり、彼は宗教に熱心でしたが、主イエスに反対する者でした。
しかしながら、特別な環境を通して主はサウロに出会い、彼は救われただけでなく、主の御手の中で大いに用いられた使徒となりました。
熱心に神に仕えているが、
主に反対している者
サウロという青年は、熱心に神に仕えている者であり、本場の正統な宗教家でした。彼は正統なユダヤ人であり、また正統なユダヤ教徒で、ユダヤ教の正統な教えを受けました。彼は異邦人ではなく、神をとても畏れているユダヤ人でした。
サウロの背景
サウロは、高い文化を持つ町であるタルソで生まれ、そこの大学でギリシャの教育を受けました。彼はまた、ユダヤ人の間で偉大な律法の教師であるガマリエルのひざもとで、宗教の教育を受けました(使徒二二・三)。サウロは学問のある者であり、ギリシャ語とヘブル語の二種類における言語学者であり、またギリシャ文化とヘブル宗教の中で訓練を受けました。彼は同族で同年輩の多くの者にまさってユダヤ教において進んでおり、先祖からの伝統に対しては、とりわけ熱心な者でした(ガラテヤ一・十四)。それだけでなく、サウロはローマの市民であり、生まれながらローマ人でした(使徒二二・二五―二八)。これらは、サウロがすばらしい教育を受け、崇高な文化を持ち、平凡でない社会的な地位を持っている者であることを表しています。
信者を迫害する
サウロが主を信じる前、イエスに従う者を率先して迫害しました。主の証し人であるステパノが石打ちにされて亡くなったとき、サウロはそばで賛同し、またステパノを石打ちにする者たちの衣を見守っていました。ステパノが亡くなった後、サウロは召会を荒らし回り、家から家に入って、男も女も引きずり出して、獄に渡しました(八・三)。サウロは多くの悪い事を、エルサレムで聖徒たちに行なっていました(九・十三)。これは、彼が全召会およびイエスに従うすべての者を滅ぼし、破壊しようとしていたことを示しています。
サウロはエルサレムの信者を迫害するだけでは満足せず、大祭司のもとに行き、彼からダマスコの諸会堂あての手紙を求めました。それは、この「道」の者であるとわかったなら、男でも女でも縛り上げて、エルサレムへ引いて行くためでした(二節)。サウロは祭司長から権限を受けて、主の御名を呼び求めるすべての者を縛ろうとしていました(十四節)。サウロはダマスコに行こうとしていました。なぜなら、そこには散らされた信者が多くいたからです。彼はそこへ行き、主の御名を呼び求める者を捕らえようとしていました。
熱心に神に仕えることと
キリストに反対すること
サウロは、自分は熱心に神に仕えていると思っていましたが、その行ないはキリストに反対していました。これは、キリストを信じることと宗教に熱心になることとは異なるからです。神に仕えることはキリストを信じることであると思ってはなりません。この世を愛し、罪を犯して、悪を行なうことよりも神に仕え、宗教に熱心になって、神に罪を得る人が多くいます。わたしたちは、キリストを信じることと宗教に熱心になることは完全に異なることを見なければなりません。ある人はとても宗教に熱心になりますが、その熱心になっている宗教活動は、まさに反キリストの活動です。
キリストはサウロに出会う
ダマスコへの途上で、サウロはとても興奮していたかもしれません。彼は自分にこのように告げたかもしれません、「わたしは、イエスの名を呼び求めるものを縛る権限を大祭司から得ました。わたしはダマスコへ行って、この名を呼び求めるすべての者を捕らえ、彼らをエルサレムまで連れて行き、獄に入れよう」。サウロがダマスコに向かったとき、主イエスは彼を見ておられました。主は、サウロがダマスコに近づくまでは、すぐに彼に現れようとしませんでした(三節後半)。
天からの大いなる光はサウロを倒した
このとき、突然天からの光が彼の周りを照らしました。すると彼は地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」と言う声を聞きました(三後半―四節)。サウロは、天からの光と彼の名を呼ぶ声のゆえに、大いに驚いたに違いありません。サウロはただイエスに従う者を迫害していると思っていましたが、今や天からの声は、彼が迫害しているのは天の上におられるこの方であるということを彼に告げました。
サウロはイエスという人がいることを知っていましたが、イエスがキリストであることを知りませんでした。サウロの考えでは、キリストに関するすべての言い伝えは、みな虚偽であって信じることができないということでした。サウロがダマスコに近づいた時、主の御名を呼び求めるすべての者を縛りに行こうとした時、彼はキリストに出会いました。彼ははっきりとキリストに触れましたが、「主よ、あなたはどなたですか?」と聞きました。すると主は言われました、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」(五節)。今日においても、多くの人はただイエスがおられることを認めますが、イエスは神であり、キリストであり、救い主であることを認めません。またある一群れの人たちは、イエスはキリストであること、神の宣べ伝えであるということに関するものはみな虚偽であると思っています。
キリストの福音は教理ではなく、伝説ではなく、生ける主を人にもたらすことです。彼の名はイエスであり、彼は神であり、キリストであられます。人々はキリストを信じず、キリストに反対したとしても、主は自ら人々に会い、キリストを信じるように転向させます。ある人は長年メッセージを聞いても、まだキリストに出会っていないので、内側に何も起こりません。またある人は二十年メッセージを聞いてもキリストに出会っておらず、二十一年目にやっとキリストに出会いました。今日人々は多くの教理に反対することができますが、主には反対することができません。ある日主はあなたに出会います。
主はサウロが待ち続けることと、
盲目を経験することを求める
サウロが主イエスに出会った時、主はサウロに言われました、「立ち上がって町に入りなさい.そうすれば、あなたのなすべき事が告げられるであろう」(六節)。サウロが悔い改めた後、主は直接彼が何を行なうべきかを告げることを望みませんでした。主は、サウロが待ち続ける学課を学んで、主の導きを待ち続けることを望みました。こうして、サウロは地から起き上がりましたが、目は開いているのに、何も見えませんでした。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行きました(八節)。これは、サウロのために主が備えた学課です。これより前、サウロは自分の学識が非凡であり、神と人に関するすべての事柄を知っており、自分の思いにしたがってあらゆることができると思っていました。今や主は彼を盲目にしたので、彼は何も見えず、何も行なえず、ただ主の導きを待つことしかできませんでした。
キリストに出会った結果
サウロが主に出会った記載から、わたしたちは人がキリストに出会ったことによる五種類の結果を見ることができます。
光をみる
以前のサウロは熱心に神に仕えていましたが、光がありませんでした。キリストが彼に出会うとすぐに光がありました。ある人は宗教に対して二十年間熱心であるとします。あるいは、率先して十八年間熱心であるとします。しかしながら、彼は暗やみの中におり、少しの光もありません。どんな宗教家もこのようです。
倒れる
サウロが神に出会った後、起き上がることができませんでした。人が神に出会うとき、以前の道はもはや歩むことができません。あの宗教に沿った、教理に満ちたことはもはや行なうことができなくなり、この世的な享受の味わいが失われ、もはや古い生活をすることができなくなり、すべての古い行ないは終わらされます。
盲目になる
サウロの目は確かに見えるはずですが、見えず、矛盾しています。以前宗教に熱心であったとき、すべてが教理的で、方法を持っていました。今やすべてが混沌となりました。あなたの人生観が混沌となったとき、それはキリストがあなたに触れたことを証明します。
他の人が道を導く
以前はサウロが他の人を導いていましたが、今は他の人が彼を導いています。以前はあなたが大学教授で他の人を教えていましたが、今はどのようにして救われるか小学生に教えを求めています。他の人に教えてもらう必要を感じるとき、それはあなたがキリストに出会ったことを証明します。
町で他の人に教えてもらうまで待つ
以前は積極的なサウロでしたが、今は静かに主の指示、さらには主の備えられた人の指示を待ちます。人が救われた後、主の語りかけを待ち望むことを学ぶ必要があると同じように、もはや自分の意志で勝手に何かを行なうことができなくなります。
キリストに出会ったなら、
何を行なうべきか
悔い改める
サウロが主の語りかけを聞いた後、彼は地から起き上がって、目を開きましたが、何も見えませんでした。彼は三日間見えないままでした(九・八―九前半)。主は彼の視力を奪っただけでなく、彼の聡明な思いも対処されました。サウロはヘブルの宗教、ギリシャ文化、ローマの政治に精通しており、西洋文化における三種類の基本的な要素の中で訓練を受けました。彼は自分の考えを多く持っていたに違いありません。しかし、主イエスがサウロの視力を取ったことは、彼が自分を停止し、ただ主を考えるようにさせるためでした。サウロは三日間見えないまま、食べることも飲むこともしませんでした。その三日間彼は何を行なったのでしょうか? この時、ダマスコにアナニヤという一人の弟子がおり、主イエスはビジョンの中で彼に言われました、「立ち上がって、『真っすぐ』という通りへ行き、ユダの家で、タルソ出身のサウロという名の人を尋ねなさい.見よ、彼は祈っている」(十一節)。ここでわたしたちは見ることができますが、その三日間パウロはずっと祈っていました。彼は見ることができず、食べることも飲むこともしませんでした。彼が行なうことができることは祈りです。祈りの中で、彼は主の語りかけを得て、また以前自分が行なったことを主に悔い改めたに違いありません。
信じる
アナニヤが主の語りかけを聞いた後、彼は立ち上がり、サウロがいる家を見いだして入りました。そして彼の上に手を置いて言いました、「兄弟、サウロよ、あなたが来る路上であなたに現れたイエス、すなわち主が、わたしを遣わされました.それは、あなたが視力を受け、また聖霊で満たされるためです」(十七節)。すると、直ちにサウロの目からうろこのようなものが落ちて、彼は見えるようになりました(十八節)。
サウロの事例が特別であったのは、最も顕著な迫害者として、信者を迫害する途上にあった時、天から主によって直接救われたからでもあります。ですから、彼は、アナニヤが按手することを通してキリストのからだの結合の中にもたらされる必要がありました。サウロはアナニヤが彼に按手する前、彼が悔い改める時にすでに命の聖霊を受け入れたに違いありません。アナニヤが来る前に、彼が主に祈っていたこと(十一節)は、彼がすでに主を信じていたことを示します。そして、彼は迫害して捕らえた信者たちが行なっていたように主の名を呼び求めました(ローマ十・十三―十四)。アナニヤの按手を通して、サウロはキリストのからだと結合され、聖霊の満たしを得ました。
バプテスマされる
サウロの目が見えるようになった後、アナニヤはサウロに言いました、「わたしたちの父祖の神は、あなたが彼のみこころを知り、あの義なる方を見て、彼の口から声を聞くように、あらかじめ定められました.……そこで今……立ち上がってバプテスマされなさい.そして彼の御名を呼び求めて、あなたの罪を洗い去りなさい」(使徒二二・十四、十六)。パウロはかつて主の御名を呼び求める信者を多く捕らえました。しかしながら、ここで主の御名を呼び求めることはサウロがこの罪を洗い去る手段です。すべての信者は知っていますが、主の御名を呼び求めることはサウロが人を捕らえるしるしとしていました(九・十四、二一)。今や彼は主に転機しました。神の御前で、またすべての信者の前で、彼が過去において迫害し、主の御名を呼び求める者を捕らえたことの罪を洗い去るために、サウロがバプテスマされるとき、以前に彼が迫害していた主を公に認め、以前に彼が憎んでいたこの名を呼び求め、以前彼が行なったことに反対するようにアナニヤは彼に命じました。
サウロが悔い改めて主を信じた後、アナニヤはすぐに彼をバプテスマさせようとしました。遅れることはありませんでした。なぜなら、主の言葉はこのように明言しているからです、「信じてバプテスマされる者は救われる」(マルコ十六・十六)。主を信じることは主を受け入れることです(ヨハネ一・十二)。これは罪が赦される(使徒十・四三)ためだけでなく、再生される(Ⅰペテロ一・二一、二三)ためでもあり、信じる者が三一の神との有機的結合の中で(マタイ二八・十九)、神の子供たち(ヨハネ一・十二―十三)とキリストの肢体(エペソ五・三〇)となるためです。バプテスマはこのことを確証するためです。一面、葬りによって、キリストの死を通して旧創造を終わらせました。もう一面、起き上がることによって、キリストの復活を通して神の新創造になりました。信じることとバプテスマされることは、神の完全な救いを受け入れる全体的な手順の二つの部分です。バプテスマして信じないなら、それはむなしい儀式です。信じてバプテスマしないなら、内側で救われただけで、外側の確証がありません。この両者は同時に行なわれるべきです。
キリストに仕える
サウロがバプテスマされた後、彼はイエスの名を宣べ伝え始めました(使徒九・二〇)。また神が彼に与えたビジョンにしたがってキリストと召会に仕えました(二六・十九)。
回心した結果
サウロがバプテスマされた後、ダマスコの弟子たちと数日間、共にいました(九・十九)。使徒行伝第九章二〇節は言います、「サウロは、直ちに諸会堂で、『この方は神の子である』と、イエスを宣べ伝えた」。ここの「直ちに」という言葉はとても意義があり、サウロが信じてバプテスマされた後に、すぐに絶対的に、完全に主に転機したことを示します。サウロは迫害者でしたが、主に転機し、キリストを入れる器となって、キリストを人に供給しました。サウロの転機はとても速く、もはや彼はイエスを信じる者を迫害することはなく、逆にイエスを宣べ伝え、彼は神の御子であることを証ししました。これが、サウロが救われた後に回心した結果です。
サウロの力強い、優勢的な宣べ伝えは、ユダヤ人の反対を引き起こし、彼らはサウロを殺そうと相談しました(二三節)。さらに彼らは、サウロを殺そうとして、昼も夜も、城門をしっかりと見張っていました(二四節)。サウロは逃げ道がなく、彼が宣べ伝えたイエスを信じる人たちが夜の間に彼を連れ出し、かごに入れて城壁づたいに吊り下ろしました(二五節)。こうしてサウロはダマスコの反対者から逃れました。このような脱出は、主の主権にしたがっていました。サウロはキリストのために迫害を受ける者となり、以前彼が人々を迫害したように、今彼も同じような迫害を受けています。主イエスはまことに不思議な働きを行なわれました。それは迫害者のリーダー、すなわち主に最も反対する者を勝利の伝道者へと回心させたことです。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第1巻より引用