”父の心(1)”の続きです。
「彼は本心に立ち返って言った、「わたしの父が雇っている多くのしもべたちには、パンがあり余っているのに、自分はここで飢えて死のうとしている! 立って父の所に帰り、こう言おう、『お父さん、わたしは天に対してもあなたの前でも、罪を犯しました。もう、わたしはあなたの息子と呼ばれる資格はありません。わたしを、あなたが雇っているしもべの一人のようにしてください』」。こうして彼は立って、父の所に帰って来た」(17節―20節前半)。
下の息子が外で苦しみを味わい、最後に貧しくなり、死に直面したとき、彼は「本心に立ち返」りました! この立ち返ることはとても尊いことであり、彼の絶望から望みを見いださせ、死から生を見いださせました。これは真に大いなる転機です!
彼が最初に思い出した罪は、父から離れたことです。今日彼が悲惨な結末に遭ったのは、父から離れたからです。ですから、彼は父に行ってこのように言おうとしました、「お父さん、わたしは天に対してもあなたの前でも、罪を犯しました」。過去においてわたしたちはみな神から離れ、神に背いている者でした。わたしたちの内側が苦しく、満足がなく、喜びがなく、安息がなかったのは、わたしたちが神から離れていたからでした。あなたのすべての遭遇は、あなたが本心に立ち返ることを催促し、あなたが神の御前に戻ることを催促しています。どうか立ち返ってください! 苦しみの日々はもう充分ではないでしょうか? 放蕩した道はもう充分ではないでしょうか? 内側の圧迫は重くないでしょうか? まさか死を待ち望むのでしょうか? あなたが救われたいなら、真の満足を得たいなら、ただ一つの道、すなわち神に立ち返り、神の御前に戻ることです。
「こうして彼は立って、父の所に帰って来た」(20節前半)。これは悔い改めを表しています。ある罪人が罪から離れて、思いから神に立ち返ることは悔い改めることです。悔い改めることは、過去を悔いるだけでなく、さらに積極的に神に立ち返ることです。悔い改めは、過去で間違っていたと感じて、今後改善し、良くしてからまた神の御前に戻ることではありません。悔い改めは、過去においてあなたは神に背いていたが、今や神に立ち返り、神と向き合うことです。悔い改めは、過去においてあなたは神から離れていたが、今や神の御前に戻るということです。あなたはもはや待つ必要はなく、あなたのありのままで、あなたの必要と共に神の御前にきて、内側の苦しみと必要をこのように神に告げる必要があります、「神よ、わたしたちは放蕩していた者です。長年あなたから離れていた者です。過去においてわたしはあなたに対して罪を犯し、あなたを必要としませんでしたが、今わたしの内側に、苦しみ、不足があります。わたしはあなたが必要です。わたしはあなたにやってきました。わたしを赦し、受け入れてください」。
わたしたちは自分の状況が神から離れていた者であると見ました。またわたしたちの内側の飢え、渇き、苦しみは神の御前に戻ってのみ解決できることを知りました。しかし、神の側はどうでしょうか? もし、神はわたしたちを必要とせず、わたしたちを拒み、わたしたちを赦さないなら、どうなるのでしょうか? わたしたちは、今からわたしたちに対して神はどのようであるかを見ていきたいと思います。
「ところが、彼がまだ遠く離れていたのに、父は彼を見て深く同情し、走り寄って彼の首を抱き、愛情を込めて口づけした」(20節後半)。
おお、父はまだ遠く離れていたところで、息子を見つけました。これは、罪人が家に帰ることを神が深く望んでいることを意味します! 父は一日中家の前で彼の息子の帰りを待ち望んでいたので、まだ遠く離れていたところにいる息子を見つけることができました。たとえば、あなたがバス停に立って、待ち望んでいるとき、遠くからバスがやって来るとすぐに見つけることができます。これはあなたがバスを待っている者、バスを待ち望んでいる者であることを意味します。これが神の心です。神はあなたを待っておられ、家に帰ることを望んでおられます。あなたは神から離れて安息がありませんでした。あなたがいない神も安息はありません。彼はあなたが気掛りで、あなたを心配しています。あなたは外で罪を犯して楽しんでいたが、父は家で心を痛め、日夜待ち望んでいます。あなたは神から離れていて、どうでもよいと思っていましたが、あなたがいないと神はやっていけません。これは他でもなく、ただ一つ、神があなたを愛しておられるという理由があるからです。神はあなたを愛しておられるので、あなたがいなければ、彼はやっていけず、安息がありません。
しかしながら、放蕩息子は家に帰る途中に、「父がわたしを受け入れてくれなかったら、どうするか? 家の門が堅く閉ざされていたら、どうするか?」という心配がありました。そうであるなら、彼が心から悔い改めたとしても、行くところがありません! みなさん、わたしたちの神は日々そこであなたの帰りを待ち望んでいただけでなく、神は愛に満たされており、あなたが彼に近づかないことを恐れ、あなたが自分を責めすぎることを恐れ、あなたが彼の愛を疑うことを恐れたので、彼ご自身があなたを迎えに出て来られました! 彼はあなたを愛しているので、ご自身を低くし、天から地上に来て人と成り、人と共に住まわれました。彼はあわれみ、同情に満ちており、失われた者を探しにやって来られました。神は威厳があり、遠く高い天におられ、近づくことができませんでしたが、今や彼は罪人を迎えにやって来られました! これは何というあわれみ、何という恵み、何という大いなる愛でしょう!
父は走り寄って息子の首を抱き、愛情を込めて口づけしました。息子のすべての罪に対して、父はみな赦しました! 父は息子の汚れを気にしておらず、息子の放蕩を叱責しませんでした。父の心の中では、息子の悪さを覚えておらず、ただ息子の必要を気にかけていました。これが父の愛です。放蕩息子が家に帰る時、心の中には言い出すことのできない感覚があったはずです。一面では、後悔し、一面では喜び、一面では戦々恐々としていましたが、もう一面では歓喜していました。服はぼろぼろでしたが、彼はやっと家に帰り、父の懐に入りました。みなさん、あなたが悔い改めるなら、神の御前に立ち返るなら、以前どのように神から遠く離れ、神に対して罪を犯していたとしても、神はあなたを赦します! そうです。神は彼の敵を愛し、神の敵であったわたしたちを愛されました! おお、神は愛です。
「息子は言った、『お父さん、わたしは天に対してもあなたの前でも、罪を犯しました。もう、わたしはあなたの息子と呼ばれる資格はありません』。しかし、父は奴隷たちに言った、『急いで、あの最上の衣を持って来て彼に着せ、手に指輪をはめ、足にサンダルをはかせなさい。また、あの肥えた子牛を引いて来て、ほふりなさい。食べて楽しもうではないか。わたしのこの息子が死んでいたのに生き返り、失われていたのに見つかったのだから』。こうして彼らは楽しみ始めた」(21節―24節)。
おお、自分自身をよく見てください。頭から足まで、汚れ、罪に満ちており、実にわたしたちは神の恵みを受けるのにふさわしくありません。わたしたちには、神の御前にもたらされ、彼に受け入れていただくことができる良い行ないは一つもありません。神に感謝します。彼は、わたしたちのために義の衣を備えて着させてくださいました。それは、神がキリストを通してわたしたちのために十字架上で釘づけられて死に、血を流してわたしたちの罪の刑罰を担ってくださったということです。今日、わたしたちが心からキリストが行なったことを信じ、受け入れるなら、神はわたしたちを赦すだけでなく、わたしたちを義とされます。
父は息子の手に指輪をはめました。わたしたちは人が結婚するときに指輪をはめるのを見ますが、それはある種の記念品であり、永遠に変わらない約束を表すものです。同じように、神は永遠に変わることなくわたしたちを愛しておられます。わたしたちは変わりますが、彼がわたしたちを愛される心は変わったことがありません。神はわたしたちを愛し、またわたしたちと契約をして彼の愛が永遠に変わらないことを保証されました! またサンダルは歩くためであり、足をけがから守り、土のほこりが付かないようにします。神はわたしたちを愛し、またわたしたちを守って、わたしたちが生涯、正しい道を歩くようにしてくださいます。わたしたちは試み、誘惑、混乱に出遭いますが、神はわたしたちを守り、義の道を歩むように導いてくださいます。
息子が帰って来て、父は喜びました。父の喜びと息子とは深くつながっています。息子が帰ってくると父には喜びがあります。これが父の心です! 神があなたの目を開いてくださり、神がどれほどあなたを愛しておられるかを見ますように。人の言葉には限りがあり、神の無限の愛を言い尽くすことができません。この言葉を覚えていてください。神はあなたを愛しておられ、家に戻ってくることを願っています。あなたは神から離れることができますが、神はあなたがいないことに耐えられません。あなたは神を忘れることができますが、神は永遠にあなたを忘れません。あなたは神の大いなる愛を拒むことができますが、神はなおもあなたを愛しておられます。